抗えない手まねき



牧さんと喧嘩をした。

喧嘩なんてもちろん初めてのことじゃないけど。
こんなに一緒にいて息苦しい空気を感じてしまうくらいの喧嘩なんて、しばらくしてなかったから、忘れてた。
喧嘩って、こんなに苦しくて悲しいんだ。

きっかけなんて忘れてしまうくらいの些細なもの。
だけど言葉を吐き捨てるたびに増していくイライラと不満が爆発して、いつの間にかひどいことを口にしていた、お互いに。
いつもなら絶対言わないようなことも言ったし、言われた気がする。
だけど。
牧さんが部屋を出て行く前に面倒くさそうに吐き出した溜息だけが、脳裏に焼き付いて離れてくれない。



ソファに座って、無造作に置かれたクッションに手を伸ばして、ぎゅっと抱きしめる。
胸の中にどんどん溢れてくる不安を誤魔化すように、ぎゅうっと。

「…嫌われちゃったかな」

ひとり呟いたら、余計に実感して、私の胸はクッションを抱きしめるだけじゃ誤魔化されてくれなかった。

「…牧さん、まきさん…っ」

喉がひりついて痛むけど、それでも名前を呼んだ。
そうしたら戻ってきてくれるような気がした。


「…牧さん…」
「…なに、藤井さん」
「っ!」

目を閉じて名前を呼ぶ私の肩に触れる、いつもの体温。

「…まき、さん?」

後ろからまわされた腕に触れて、そっと後ろを振り返る。
数十分ぶりに重なった視線は、喧嘩中のときに見たイライラしたものなんかじゃなくて。
ちゃんといつも通りの、やさしい穏やかさと男らしさを秘めた力強い瞳だった。

そのことに、やっと緊張していた肩の力を抜く。


「…なんで喧嘩してたんだろうな、俺たち」

そう言って困ったように笑うから、私も同じように笑い返す。

「イライラして部屋を出たのに、気づいたらもう藤井さんに会いたくなってた」
「私もです。だから、牧さんが戻ってきてくれて、よかった」
「…泣きそうだった?」

指先で、心配そうに目元をそっと撫でられる。
私は首を振ることで答える。

「でも、喧嘩は嫌です」
「そうだな」

目元に触れた指先が頬を通って、滑るように顎に触れた。
そして、数時間ぶりのキス。
仲直りの、キス。
懐かしささえ感じてしまいそうになる、その暖かい熱に目頭がぎゅっと熱くなる。

だってすごくすごく、寂しくて不安だった。
大袈裟かもしれないけど。
もう一緒にいられなくなっちゃったらどうしようって、本気で思った。



「ん、」

そっと離された唇に、思っていた事を口にしてみる。

「…牧さん、もしかしてたばこ吸いました?」
「ああ、イライラしてたから一本だけ」

ポケットにしまっていた煙草の箱を取り出して、悪戯を見つけられてしまった子供みたいに困った顔をした。

「いつもは吸わないんだ。嫌いだろ?こういうの」
「ごめんなさい私、気づかないで…牧さんは吸わない人なんだって思ってました」
「いいよ。そういう鈍い所も含めて惚れたんだ」

そう言って、苦笑い。

鈍いなんて言われて、なにか言い返したかったのに。
惚れた、なんてそんなサラッと言われて返す言葉も見つけられないまま俯いた。

いつまでたっても彼からの告白めいた言葉を聞くのに慣れない。
火照る顔のままそっと見上げると嬉しそうな顔が見えて、確信犯だったんだと気づく。
だけど、牧さんの満足そうな笑顔を見てたらそれもいいかもしれないと思ってしまう。
思わせられてしまう。

いつまでも振り回されてしまうんだ。
いつまでも敵わないんだ、ずるくてとても素敵なこの人には。




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