この苦味が愛おしい
―――コーヒーは、まだ早かったわねと彼女は言った。
十代の頃の自分にはコーヒーの良さも分からなければ、お酒もタバコの美味しさも分からなかった。仮に体験できたとしてもそれを『良いもの』とは思わないだろう。過去の時間も短く、懐かしいと思えるものも経験したものも彼女に比べれば圧倒的に少ない。どうあがいても埋められない溝なのだ。
追い付けないのは分かってはいる。
同じものを同じだけ感じ得ることは出来ないと知っている。
ただ、それがとてつもなく寂しく感じるのだ。
大通りにある、とあるバールの一角。
歩道の一部に配置されたパラソルテーブルの席に、彼女は居た。極力日差しを浴びないようパラソルのつくる日陰に身を置いて、書類に渋い顔を見せている。
吸い寄せられるように自然と彼女のもとに足が動く。
「真守さん」
彼女は見ていた書類から顔を上げてこちらに視線を向ける。意外そうな顔をして、武さん、と言葉を返した。彼女のつくテーブルには食べかけのパニーニとコーヒーが置いてある。
「相席、いい?」
「ええどうぞ」
シバノの正面に腰掛け、近くを通った店員にコーヒーとピッツェッタを注文した。丁度昼頃に来たせいもあり、店員はあちこちから声をかけられ忙しない。注文の品が来るには時間がかかりそうだ。
山本は彼女の方へ向き直りテーブルに置かれた書類の一部を手にしながら、
「こんなところで仕事してたのか?」
「ええまあ。緊急ではないけれど確認して欲しいという書類があったものですから、休憩がてら」
「休憩がてらって……休憩中はちゃんと休憩しなきゃ。休めてねーよ、それ」
「これくらいでは仕事のうちではありませんよ。それに、こういう隙間時間にやっておかないと、後々山積みになってしまいますからね」
「だーめ。んなこと言ってたらいつまでたっても休めねーじゃん。緊急じゃないなら、今は休憩」
ピッと頭上から書類を引き抜く。あっ、と短く声を上げ不服そうな顔で睨まれたが、何か言いたそうな口からは言葉が出てくることはなかった。
わざとらしく回りに軽く目配せして、改めて彼女に視線を戻す。
「真守さん、休むってことを覚えた方がいいぜ。今は『周りに誰も居ない』んだし」
「……『そうね』。こうでもしなければ残業祭りになってしまうのよ。本部の方々がもう少し賢ければ、私の仕事も減るのだけど。何でもかんでも私に回しやがってあのジジイ幹部ども……」
「俺から言っとくから、な?今は休もうぜ」
「…………わかったわ」
山本の説得に負け、彼女はノートパソコンを閉じて飲みかけのコーヒーに口をつける。
「暫く平和だったけど、また忙しくなりそうね」
「ん、ああ。もう少し情報が固まればそっちにも話が行くと思うぜ。入ってくる話はどれも都市伝説まがいのものばっかりだけど、これはどうにもきな臭くてな」
「あら、様になる事を言うのね。つい最近まで十代だったなんて思えないわ」
「はははっ、案外なるようになるもんだよな。とはいっても、まだまだ学生の延長戦みたいな感じだけど」
「それはそれで困るのだけど。……ああ、そういえば例の『美術館』の話」
彼女は視線を大通に向けて頬杖を付きながら続ける。
「ここ数ヶ月間の間で若い男女が相次いで行方不明になってるという噂があったわよね。その男女の足跡を追った報告書は見てくれたかしら。居住地、職種、日時を問わずカトゥッロの所有している美術館に出入りしている事が分かったわ。そしてカトゥッロのには表に出せない秘密がある。都市伝説まがいの秘密。恐らくカトゥッロに関しては行方不明の噂と繋がりが」
「真守さん」
電源を落とすような山本の一言に、彼女はハッとした。咄嗟に視線を彼に向ける。
彼は何も言わない。戒めることも言わないし、責めることもしない。ただ、彼女のことを真っ直ぐに見つめている。
少し困ったように、柔らかく笑っている。
彼女はばつが悪そうにしながら、指先を額に当ててため息をつく。
「……だめね、ついさっき言われたばかりなのに」
「ははっ、良いって別に。話に乗ったの俺だし。ごめんな。真守さんのそういう真面目なとこ、俺は好きだぜ。でも、ちょっと心配になるよ」
「ごめんなさい、気をつけるわ」
今度は彼女が困ったように笑った。別にいいよと改めて口にする。
注文していた品がテーブルに届き、ピッツェッタを一口頬張る。
「明日そっちに行くよ。どうせ昼まで寝てるんだろうし、何か飯作っとくよ。何がいい?寿司?それともちらし寿司?鉄火丼?」
「流石寿司屋の倅、私が魚嫌いじゃなくて良かったわね。でも、私が昼まで寝てるようなぐうたらと一緒にしないでほしいのだけど」
「だって、休みの日に行くと今まさに起きましたって顔でいるじゃん。もしくは俺に起こされるか」
「ぐうぅ……し、仕方ないじゃない、仮に次の日が休みでも仕事は待ってくれないのだもの。それにそもそもは夜の任務が本業なのよ?生活サイクルが逆転するのは致し方ない事なの、必要な睡眠なのよ決して朝に弱くて起きられなくてだらだらしてしまうわけではないわ」
「まあ別に俺は構わねーけどさ。ていうか夜の任務って内容知ってるし別にいかがわしくもないけど、ちょっとえっちな響きだよな」
「ええ、あなたの性的語彙は辞書でえっちな言葉を調べて興奮しちゃう小学生レベルなの?ちょっと引くわ出禁にしようかしら」
「冗談ですスンマセンっした」
テーブルに頭をつけて謝罪する。彼女のジョークには慣れたつもりだったが、とっさに反応してしまった。出禁は困る。彼女の方を見ると可笑しそうに笑っていた。
山本は苦笑いをしながら話題を別方向に繋げる。
「まあなんだ、寝れるときにぐっすり寝れるのが一番だぜ。あんたの激務は知ってるし飯ぐらい作るよ。希望ある?」
「そうね…じゃあお言葉に甘えるわ。起き抜けのお昼ごはんだしライトなものでお願いしようかしら」
「ん―――……じゃあ、寿司かな」
「寿司はライトなもの分類なのね……。コーヒーには合わなそうだわ」
「お茶じゃないのか?」
「いい豆が入ったって馴染みの店主から貰ったのよ。お茶の専門店というのに何故かミル挽きとかサイフォンをいくつも置いてあるのよ?そのうちコーヒーブレンドのお茶とか出してきそうだわ。まあでも、せっかくだから飲んでみようと思ってね」
「へえ、いいなそれ。俺も飲んでいい?」
「ええ、もちろん」
彼女は微笑む。凛とした口調には日差しのような柔らかさが含まれていた。
彼女は山本よりもずっと大人だ。年齢もさることながら、経験や度胸、考え方、立ち振る舞いに至るまでが実年齢を超えて熟練されている。それは彼女の置かれる立ち位置や過去の経緯によって磨かれたものだろう。
だがその熟練された人格の裏は子供っぽく怖がりだ。とても、寂しがりだ。建前を盾に本音を隠したがるのは、性分もあれど早くに叩き込まれたこの世界での生き方のせいなのだろう。
山本が楽しく学生生活を送っている間に、彼女は数歩先、数十歩先に進んでいた。進まざる得なかった。
中学生ながら、その大人な彼女に憧れたものだ。
不安定ながらも必死に歩みを進める姿が力強く、美しかったのだ。
だから強く願った。経験も度胸も考え方も立ち振る舞いも未熟で、何一つ成っていなかった守られる側だったあの頃から。
彼女の隣に立ちたいと。
背伸びをしてでも、意地を張ってでも。早く大人になって、守られる存在などではなく。
この人の隣に立って、共に歩きたいと願ったのだ。
山本はコーヒーを飲み込む。この店の個性なのか濃厚な苦味の中に甘さがある。癖になりそうだ、お気に入り確定。
「まだ昼休み時間あるし、ちょっとその辺ぶらぶらする?買い物とかあんまり出来てないんじゃねーか?」
「残念だけれど、私のところはそんなに昼休みは長くないの。あと一時間もないぐらいでタクシーを捕まえないといけないのよ」
「俺がバイクで送ってくよ。そしたら余裕出来るだろ?」
「なら、買い物は仕事終わりにお願いしようかしら。今はちゃんと『休憩』して、終わったあとにのんびりと」
わざとらしく皮肉を言う彼女に山本はからりと笑う。
「ははっ、お付き合いするぜハニー」
「優しいわね、感謝するわダーリン」
一人。十字架の並ぶ場所に黒いスーツを着た青年が立っていた。
だだっ広い広場のような場所に等間隔に並べられた墓標に街を飾る花がいくつも添えられている。陰鬱な影があるものの、そこに居る者を着飾ってあげているようにもみえた。
一つの墓標に、青年は足を止めた。
定期的に掃除はしているのだろうが、流石に全部とはいかない。色とりどりの花はすっかり枯れて墓標の周りに散ってしまっている。
何度目かの来訪。何度目かの献花。何度目かの近況報告。幾度経験しても、慣れるものではない。
いつ見ても小さいなと青年は力なく笑うと、その場でしゃがみ込んだ。
青年は持っていた赤と黄色の花輪を十字架に掛けて、あーあと苦笑いを浮かべながら話しかける。
「見ねーうちに直ぐ汚れちまうな。わりーな、来るの遅くなって。今ちょっと立て込んでてさ、バタバタしてたんだ。でもほら、ちゃんと生きてる。他の奴らも元気だし、誰も欠けちゃいねーんだぜ。あーでも、この前極寺がベルと喧嘩しちまって、それを止めようとしたんだけどスクアーロがそれに乗っかっちゃって。そしたらそこに雲雀も入っちゃってもー大乱闘。ロビーが半壊しちゃったんだよ。ははッ、しょーがねーよなまったく」
あはは、と青年は笑う。声は広い墓地に、静かに流れて消えた。
数秒間だけ沈黙して、青年は言う。
「またひと月ぐらいこっち離れるから次来るの間が空いちまうけど、また来るよ。あんたの好きな色の花束を持って、必ず来るから」
ごめんな、ともう一度謝って青年は白い墓標をひと撫でする。もし死者の声が聞けたなら、そんなに頻繁に来なくて良い自分の仕事を全うしろとバッサリ切り捨てるだろう。人の気も知らないで、優しさを込めて言うのだろう。寂しがりのくせに、甘えベタなんだから。
青年は漸く腰を持ち上げた。足取りは、どうしても重い。
背を向けて敷地外に留めていたバイクに跨がる。視界の端々に映る鮮やかな花々と入り込んでくる風が余計な寂寥感を与えてくる。
青年は後ろ髪を引くような気持ちを振り切るようにエンジンをふかしてその場を離れた。
市内地に戻ってきて青年はふとバイクを留めた。大通りは相も変わらず現地人と観光客で賑わっている。その大通りに面した長屋のように軒を連ねているバールの一つが目に入ったのだ。客足はあるものの、満席というわけではないようだ。青年はバイクから降り、足を向かわせる。
お気に入りのバールに入り、いつもの席について、いつものコーヒーを注文する。程なくして、コーヒーは運ばれてきた。
目の前に置かれたコーヒーに視線を落とす。
喧噪はどこか遠い気がした。まるで自分の座っている席だけが現実と切り離されているかのような気さえしたのだ。大丈夫、と言い聞かせても感傷的になってしまうのはその傷が未だ癒えないからなのだろう。癒えることがないと知っているからなのだろう。
酒も味わえるようになった。タバコも嗜めるようになった。コーヒーも堪能できるようになった。仲間を守れるだけの力も身につけた。懐かしいと呼べる過去も出来た。
それでも、やっぱり『 』には届かないのだ。
―――コーヒーは、まだ早かったわね。
彼女は言った。
一口、喉に通してカップを置く。
長く沈黙して、青年は溢すように、
ぽつりと。
「ああ、やっぱ苦ぇなぁ」
2021.8.10