二月十二日

寒さも一時ほどの勢力はなく、寒気が和らいできましたとお天気キャスターが言っていたが、まだまだ防寒具は手放せない。雪こそ降らないものの、寒風に体を縮込ませながら人が往来する。
時刻は昼。住宅街も商店街も昼食の調達や集客の声で賑わいを見せていた。視覚化する吐息に、より寒さを感じさせる。何てことない、平凡な地域の日常のひとコマだ。
ただ、そう。いつもと違うところを言うならば。
コンビニ、スーパー、商店街、ショッピングモール、パン屋にケーキ屋、果てはアクセサリーショップまで。全てが甘い匂い共にチョコレートに埋め尽くされていることだ。空気が色めき、そわそわした視線と会話がそこら中で交差する。
そう……世の中は今、絶賛ハッピーバレンタイン期間である。
行き交う人と共に『甘さと本音を届けよう。鈍感なあいつにハッピーバレンタイン☆』という手書きの看板を見ながら、

「(本来のバレンタインは司祭ウァレンティヌスがローマ皇帝に処刑された日なのだけど、いつからこんなお祭り騒ぎになったのかしら…)」

結婚を手引きしていた司祭の命日と結婚と家庭の女神ユノの祝日に紐付けられた恋人たちの日。本場でも愛の証明の一つとしてチョコの一つや二つを渡すらしいが、限定はしていない。何なら女性から男性にあげるという決まりもない。女性が男性にチョコレートを贈るのは日本独自のものなのだ。今やそれが定番となり各チョコレートメーカーが刃を争っている。各国の文化を取り入れるお祭り好きの耳に入れば『こうなる』のは自然な流れなのかもしれない。

「(とはいえ、ウァレンティヌスに則って密かに愛を育み確かめ合った方が分相応かと思うけれど……。ロマンチストだと面白がられてしまうかしらね)」

とはいえ、ともう一度否定しよう。
あちこちのお店のショーウィンドウを飾るチョコレートに視線を落とす。
宝石の如く飾られている魅惑の結晶。見る目にも鮮やかで買う気がなくても視線を奪われ、恋人の日とかバレンタインの正式な由来とか関係なく、お菓子メーカーの計略としても興味と購買欲をそそられる。
どこのお店もそうだ。チョコレートに限らず、もはや梱包から目移りする。色、柄、箱の形…そこから人の目を惹くための工夫が凝らされているのだ。つい手に取り、買う予定でないのにレジへ向かってしまうほどの抗い難い誘惑。抗えるとしたら、それは余程の甘味嫌いだろう。
つまり何が言いたいかというと。

「ありがとうございましたー」

かさり、と袋を揺らす。可愛らしい、バレンタイン限定の袋に入ったチョコレートをみて、

「……まあ、たまにはいいわよね。ご褒美ご褒美」

一人、誰に向けたわけでもない弁解をするのだった。



昼食を買って学校へ戻ってくる。
昼休みなのだが、中学生ともなれば外でわいわい遊ぶような光景は余り見られない。わんぱくな少年の心を残して昇級した男子生徒数名が、砂埃を上げながらサッカーをしているぐらいだ。多くは教室で友人と雑談、といったところだろう。
微笑ましくもちょっと寂しい光景を横目に中庭のベンチへ腰かける。
職員室で昼食をとってもいいのだが、お昼ぐらい一人でゆっくり食べたい。いや別に一緒に食べる人がいないとかそういう理由では決してなく、だ。
サラダとパン、デザートのエクレアにお茶を出す。

「あ、柴野先生!」
「ホントだ!こんにちはー!です!」
「………こんにちは」

一人は並盛の生徒だが、隣にいる生徒は……緑山中学か。彼女たちは学校の枠を超えて仲良しなのだと見ても聞いても知っているのだが、昼休みとはいえ他校の生徒は来てはいけないのではないか?
緑山中学生こと、ハルさんは不思議そうな様子で此方を見ている。

「シバちゃん先生、今日はお一人なんです?」
「ええ、今お昼をとるところです。………ハルさんはなぜこちらに?」
「ハルはですね!ツナさんにこっそり会いに来たのです!逢瀬です!デートなのです!」

きゃーっと頬に手を当ててはしゃぐ女子中学生。
こっそりの意味を間違えてないだろうか。

「理由はどうあれ、他校の生徒が無断で校内を歩き回るものじゃありません。早く自分の学校に戻りなさい、あなたの庭じゃあないんですから」
「無断じゃありません!ちゃあーんと、リボ山って先生の許可を取ってあります!」
「…………………」

思わず閉口してしまう。許可を取ったという正当性にではなく、許可を与えたその教師(?)の名前に、だ。だからなんだと反論すればどこからともなくドロップキックが飛んできそうな気がする。
並盛中のアイドルと評判の女の子、笹川京子が何か思い付いたように、

「そうだ!ハルちゃん、あれに先生も誘おうよ!みんなで方がきっと楽しいよ!」
「はひっ!それグッドアイディアです!是非是非!」
「………不穏な気配を感じざる得ない掛け合いですが、何に誘われるのでしょう」
「んふふ。シバちゃん先生、この時期にやることと言ったら一つですよ!それはもちろん!」
「ご遠慮します」
「食い気味に断られた!まだ言ってないのに!」

ひどいですー!!と可愛らしくぷんぷんと怒るハルさん。彼女たちには申し訳ないが最後まで聞くと問答無用で引っ張り込まれそうな予感がしてならない。

「二月十四日は女の子たちの一大イベント!傍らから見るだけの恋物語のスパイスですよ!好きな人を思い浮かべて挑むチョコ作りはまさにハッピータイム!!」
「好きな人など居ません」
「友達と作ればキャッキャウフフ恋ばなに花が咲くこと間違いなし!甘いひととき!みんな幸せ!」
「恋ばなとか特に持ち合わせていませんので」
「今は世話チョコとか自分チョコとか、思い人に向けたものばかりじゃありません!お世話になってる人へありがとう!普段頑張ってる自分へのご褒美!どうですか!!」
「買った方が早い」

もーーーーーーーーーーーーーッッ!!!とハルさんは地団駄を踏む。段々とキャッチコピー風な売り込みになっているのは意図的なのだろうか。

「先生は私たちと思い出を作りたくないんですか…?」
「う……。………分かりました、善処致します」
「何故あっさり承諾するのですか?!ホワイ?!」
「さあ先生はお昼を食べますから、リボ山先生に許可を取ったにしろ早めに戻りなさいね」
「はーい!じゃあ行こっかハルちゃん!」

贔屓です差別ですギルティですーーーーーー!!!と叫ぶハルさんは京子さんに引っ張られ、二人は去っていった。
何というか、嵐のようだ。
再び一人中庭に残り、何気なく呟く。

「恋人たちが愛を伝える日、ねぇ…」

未来の恋人に、なら理屈としてギリギリ分からなくないが、今は恋人に限ったものではないらしい。伝えるものも、好意もさることながら感謝や友情を示す一つの手段であり今は後者が主流のようだ。
うちにはそういう乙女なイベントが好きで毎年手作りチョコを配る幹部様がいるから、毎年バレンタインは訪れてはいる。だが『個人的』にはやっていない(相手も居ないことだし)。そんなことを例の幹部様に溢したら、『んもう!二十代なんてあっという間よ?早くに枯れてたんじゃ摘んでくれる人が居なくなるわよ!』と言われダメージを負ったのは内緒のことだ。
カップケーキを仕舞い、ランチバッグの中から一つ箱を外へ覗かせた。
ハートがちりばめられた赤い包装紙に茶色のリボン。可愛らしいパッケージ。紛れもない、ハッピーバレンタインチョコレート。

「……本来はあげるものなのよね…。あげるなら、誰にあげるのが無難かしら」

世話チョコもあるし幹部の人にでも…いやいやこんな安物、あの人たちが食べるわけがない。だとしたら十代目ファミリーだけれど……、未来の上司になるかもしれない御方にこんな安物を渡すなんて品を疑われる。かといって彼ら以外に宛などない。
すんなり受け取ってくれて、安物だが喜んでくれるのが一番理想的だ。該当する人、と脳内検索を掛けて浮かんできたのは、黒髪短髪の野球少年。十代目ファミリーの雨の子…確かに彼なら受け取って尚且つ喜んでもくれそう。好意、という意味でもファミリーの中では彼が一番…………。
と、そこでハッとした。

「(違う、違うのよ。誰かにあげるために買ったわけじゃないわ。これはそう、一目惚れしたのよ。チョコレートのコーティングやデザインが素敵で購買意欲を引き出されたの。お菓子会社に踊らされてやったのよ。それに彼女たちも言っていたわ、今は自分へのご褒美で買う人もいると。だから私がチョコを購入するのは当然の選択であり有るべき権利を行使したまでのことよ何も不思議なことじゃ)」
「あ、真守さん!」

はぁう!?とおかしな声が出た。とっさに咳払いで誤魔化す。顔をあげれば雨の子こと、山本武がたたっと駆け寄ってくるところだった。
…サブバック一杯のチョコと共に。

「……五メートルにつき一つもらったような……校内一周でもしてきたのですか?」
「いや、まわってはねーけど…。下駄箱とか机の中とかに入ってて。あとは手渡し」

何という女生徒キラー。中学でこれなら大人になったらどうなってしまうのか…些か興味がある。
バレンタイン、日本では想い人にチョコを渡して気持ちを伝えるイベント。…になっているが、この天然記念物並みのモテ男に女子たちの真意が伝わってるのかは甚だ疑問である。それでいて、同性から背中を刺されていないのがとても不思議だ(彼の人気には太刀打ちできないと諦観してるのかもしれない)。

「………そのチョコの山、どうするのですか?」
「んー………ツナたちと食べようかなって!俺ひとりじゃ食い切れないし」

何で刺されないんだ…?(二回目)
いや、彼からしたらこれに卑しい意図などはなく、食べきれないから一緒に食べる"だけ"なんだろう。まさに無垢と言うべき言動が、他の男子達に絶望を与えていると思うのだが彼は気付いていない。

「無邪気な男の気遣いがバレンタイン敗者に容赦なく襲い掛かる…」
「え、なに……!真守さん、それ」
「え?」

指を指した先には、例の箱。鞄から覗いたバレンタインチョコを見つけられた。彼の表情がどことなく探るような、訝しげな表情に変わる。
勘繰られてるんだろうか。まあそういう噂も影もない人間がバレンタインチョコ、というのは兎角珍しく映るのは分からなくないが。余計な誤解や噂が走る前に弁明をしておいた方がいいだろう。

「……バレンタインデーと世が騒いでいるので、私も乗っかったのです。所謂、自分チョコというやつです」
「へぇ、自分チョコ…。最近CMとか広告とかでよく言ってるよな。……でも何か意外だなー、真守さんそういうの疎いか無関心って感じだと思ってた」
「…まあ、渡す相手も居ないので」

ふーん、と山本さんは相槌を打つ。しかし意識は話よりもこちらのチョコの箱に向いているようで、

「なあ。そのチョコ、俺にくれない?」
「…その鞄に山の如くあるというのにまだ貰い足りないと?刺されても知りませんよ」
「刺され…?いや、単に真守さんのが欲しいんだけどな」

そんなに食い意地が張ってるような子だったのだろうか。高校生の食欲にしては些か偏りが過ぎないか?
しかしまあ、断る理由もないし逆に好都合か。

「…構いませんが。どうぞ」
「ん、サンキューな!」

ぱっと太陽のような笑顔で箱を受け取った。この顔に一体どれだけの女子が喜び、心をときめかせたのだろう。罪な中学生だことだ。
いただきまーす、と早速箱を開けて中から一粒選び口の中に放り込んだ。行動が早い。教室か家に帰ってから食べれば良いのに。
もごもごと口の中でチョコを転がして数秒。

「お酒入ってないのな」
「中学生でお酒なんてとんだ『おませさん』ですね」
「真守さんならあれ……何だっけ。ポンポン、みたいな名前のチョコ買うのかと思ったんだよ」
「ウイスキーボンボンです。チアアイテムみたいな名前に変えないでください」

そうこうしていると、昼休み終了を告げるチャイムが鳴る。ああしまった、私としたことが時間を見ていなかった。…まあ私の持つ授業はないし、のんびり向かうとしよう。

「さあ、あなたは授業があるでしょう。早く教室に戻らないと、ゴリラ先……いえ、剛力先生の拳骨を食らいますよ」
「すぐ戻れるよ。んじゃ、真守さんまたな!」

これまた嵐のような。彼は颯爽と私のもとから去っていった。
そうだ、と思い出したように言ってはこちらに振り向いた。何だ、何かまだ用でもあるのだろうか。
サブバックを揺らしながら、

「当日楽しみにしてるのな、バレンタインチョコ!本命の手作り期待してるぜー!」
「学生はさっさと勉学に励んでください」

彼は校舎の中へ消えていった。時間的にはギリギリだが、まああの足なら大丈夫だろう。やれやれ。
………ん?彼はなんと言ったか。

『今度は『本命』の『手作り』期待してるぜー!』

何やら聞き捨てならない言葉を投げ飛ばしたと走り去った方角を見るが、彼は既に校舎の中へ消えていた。

「…………………はい?」

その後、すっかり忘れていた私の前に中学生数名が押し掛け、十代目の家で手作りチョコを作り配るというてんやわんやな展開になるのは、また別のお話。

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