短編 | ナノ







「名前…ッ!!」



…また始まった。



「名前、名前…ッ、」

「吉継様…」



名前を何度も何度も繰り返し呼び、母親にすがるような幼子のように女に抱きつくのは私の数少ない理解者、刑部だ。
普段は常に何かを企んでいるように独特に笑っているというのに、その姿からは想像できないほどの弱々しいさまだ。

抱きついている相手は名前という。
長曾我部の妹で四国と同盟を結んだ際に記念と称した人質としてこの大阪城におくられた。私は要らないと言ったのだが刑部が気に入ってしまった。今では夫婦の関係だ、寂しいなどとは思っていない。





ここに来た日のことは昨日のように思い出せる。清らかに凛としたそれは長曾我部に似てはいなかった。襲の色目を牡丹にして来たそれに

"われを意識してか?"

とからかうように言った刑部に対して名前は事も無げに

"春の色が意識された戦装束とは、粋にございますね"

と返した。刑部はなぜだろう、それで落ち、それを見て私は襲にもある牡丹のような女だと思った。気品の中に男気を感じさせる、なるほど長曾我部と血が繋がっているのだったなと。
以前半兵衛様が牡丹は百花王とも呼ばれるのだと言われたのを思い出した。花の中で最も優れているとされるそれに惹かれるのは蝶の本能かと笑ったものだ。





「名前っ名前っ、」



ああ…まだ終わっていなかったのだったな…。
物思いに浸っていた思考を呼び起こし、人目のある縁側にも関わらず強く抱きしめている友にため息をつきたくなる。



「名前はここにおります」

「名前、……名前……、」



肩口に顔を埋めたまま、腕の力を緩める気配のないそれは名前が女だということを忘れているのだろうか。力を込められすぎた肌は異様に白くなっている、のにも気づいていない。そんな余裕もない、というところか…。



「名前は消えてなくなったりはしません」

「消える、目を離せば離れていってしまう、離さぬ、放さぬ…っ」



苦笑を浮かべる、浮かべながらもその目は愛おしそうに刑部を見つめ、優しくその髪を梳く。
ゆっくり、ゆっくり…不安を拭い取るように、



「名前はどこにも行きません」



名前、名前とひたすらに繰り返す刑部に呆れることも、面倒に思うこともなく毎度毎度大丈夫だと言い聞かせる。
髪に唇を落とし、子守唄のように囁かれる言葉に刑部は少しずつ落ち着きを取り戻し恥ずかしげに赤く染めた目元で頬に口付ける。



「……すまなんだ」



小さくそう口にする刑部。少し離れた私にも聞こえるそれが名前に聞こえなかったはずはないのにそんな言葉は聞き受けられんとでも言うように聞こえないふりをして刑部が離れるまで髪を梳き続けていた。

普段の刑部からは想像できないそれは、しかし既に日常化していた。お顔が見えませんと言った名前のためなのだろう、名前の元に向かう時は兜は脱ぎ捨てて行っている。軍議が終わった時、その日づけの執務を終えた時、遠出から戻った時、戦から戻った時、衝動に駆られた時…。名前の元へ走っていってはこの光景を目にする。

なぜだ刑部。なぜ未だに不安が取れないのだ。
毎日毎日不思議でならない疑問だが、本人に聞こうものなら長々と惚気を聞かされるに違いない。それは……嫌だ。










「吉継様…吉継、さま…」



見慣れた光景と逆のそれを今目にしている。
横たわる刑部の頭を抱え、既に冷え切ったその体に己が体温を移そうとしているように強く抱き込んでいる。優しく髪を梳いていたその指先はいつかの刑部のようにひどく力が込められぐしゃっと髪を乱していた。

家康を、討ち取った。代わりとでも言うように刑部を奪われた。
私から既に大切なものを奪っていったというのにまだ足りないというのか、そう世の不条理を嘆き、……何を、考えていただろうか…

やり直そう、はじめの、穏やかなあの日々から。
そうだ、たしかそう考えて、まずは巻き戻そうとしたのだ。手始めに来た道を戻ることにした。周りの景色は覚えていない、来た時もそうだったから別にいいだろうと。



「吉継様…、よし……ぁ…吉つ、ぐ……」



見慣れた、紅と、白。
刑部の色、名前がよく身にする色目。

二人がそこにいた。名前がすがるように刑部に抱きついているそのさまに違和感を感じた。



「吉継様、吉継様…っ、」

「……」

「離れていかないでくださいませ、置いていかないでくださいませ…ッ」



花を好み、執着していたのは蝶だけだと思っていた。花も、蝶に執着していたとは…思わなかった。
花が枯れれば蝶は消えるか、別の花を探すかするのだろうと考えたことがあった。だが蝶が消えても花はそのままあるのだろう、と。



「吉継様…よし、つぐさま…」



体の力を抜いたのか、刑部の頭を抱えたまま地に崩れる上半身。首元に顔を埋め、そこから時折聞こえてくる嗚咽はひどく苦しそうで、それ以上に名前の中は表しきれないほどごった返していて苦しいのだろう。
片手を離し、胸元に忍ばせ何かを取り出した。懐刀か…。



「吉継様……ふふ……吉継様…」



顔を上げたかと思えば涙したまま笑い出した。周りにいた兵は不気味なものを見る目で見ていたが、私には…穏やかに見える。
穏やかに笑み、刑部の頬をなで、小さく何かを囁いて、



「名前様!!!」



懐刀をその身に沈めた。
駆け寄る兵の首元に刀をかざして止める。私が、行く。



「後を追うか」

「………み、なりさ……」

「……手は貸さんぞ」

「そう、してくだ…ませ」



目線をくれることもなく途切れ途切れに答える。瞼の裏に刑部の姿を焼き付かせているのだろう、いい室を手に入れたな刑部とらしくもないことを思ってその場に膝を落とす。
貴様の介錯などせん。せいぜい血を流し息絶えるのだな。

己の力で刑部の跡を追いたいのだろうから。私が手を出せば刑部は顔を顰めるだろうから。面倒だから。
理由など探せばいくらでもある、だが私は、ただ菊が崩れるさまを見たかっただけなのかもしれん。


長宗我部、貴様が大事に育てた菊が崩れたぞ、見てやれ















蝶と牡丹


桜は散り、椿は落ち、ボタンは崩れるそうです。花の終わりの際に。
で突発的に書きたくなった徒花を生み出す前のボツ。












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