父上がおっしゃっていた。
あの人が今日、帰ってくる。
そうと分かる居ても立っても居られなくなって、帰ってくるのはいつもと同じく日が沈んでからだというのに昼間から海へ向かって走っていく。途中すれ違う国の人たちがかけてくれる言葉に短く返事をしながらも足を止めなかった。
あの人が、名前が…帰ってくるっ!!
名前は父上の貿易先の相手で、よく僕の遊び相手をしてくれる。背丈が高くて、博識で、僕の憧れの人だ。
膝を抱えてじっと海の向こうを見つめる。これはもう日常化していて、名前が帰ってこない日でもなんでかこうして水平線を眺めてしまう。今日は快晴で、まるで空までもが名前が帰ってくるのを僕と一緒に喜んでくれているようだ。
『空の色、とても綺麗な目をしているな』
そう言って微笑んでくれた時の名前の笑顔を思い出す。初めて見た、無表情以外の顔で、僕を見て綺麗っていう名前が一番綺麗だって…そう思ったけど恥ずかしくて、僕はただ下を向いて頬を染めた。
それから名前がここに来る度に僕に会いに来るようになって、その度に何か異国の物と土産話をいっぱい残してから帰るんだ。
それがいつからかすごく悲しくなって、帰らないでって泣いて縋ったら笑いながら
『私はお前の元に帰ってくるんだ。見送ってくれ』
そう言って僕の頭を撫でた。
嬉しいはずのその言葉に涙はなんでか余計に止まらなくなって、苦しくてしゃくりあげていると、名前は困った風に笑ったあと、僕をぎゅっと抱き締めた。
『お前の涙が枯れない内に戻ってくるとしよう』
行ってくる、
そう言って僕の目尻に口付けを落とした名前に、僕は恋に落ちた。
「見えた…っ!!」
届かないとわかっていてもおーいっと大きく声を上げて手を振る。水平線に影が見えて、掲げた旗には名前のとこの紋が刻まれていた。
帰ってきたっ、帰ってきた…ッ!
名前が…やっと…、
ぐっと手のひらに力を入れて、嬉しいのに出ようとする涙を必死に抑え込む。だめ、まだ喜んじゃだめ。名前に会うまで、ちゃんとそこにいるって実感できるまで…!
逸る気持ちを抑え込んで、少しずつ、少しずつ大きく見えて来る船に心踊らせる。
「ッ、名前…っ!!!」
船から船員たちが降りてきたのを見た瞬間、そう叫んでしまうのを抑えられなかった。でも肝心の名前の姿は見えなくて、どこだろうって、見えないってわかってても精一杯の背伸びをして甲板の方に目を向ける。
「名前…」
もしかして、いないのだろうか…
名前は確かに父上の貿易相手だが、名前のいるところがそうだというだけであって絶対に名前が来なきゃいけないって決まりは…ない。
そう思うと、そっか…うん、そうだよね…。名前だって忙しいもん。ましてや異国の地、こことは色々と違うんだし、いつも日ノ本にないようなすごいものを持ってきてくれてるから…
も、もしかしたら怪我をしてるのかもしれないっ!もしかしたら流行り病にかかってるかもしれないし、もしかしたら、…すごい大事な人とかができて、向こうを離れたくなくなったも……もしかしたら…僕のことなんかもう忘れて…
もしかしたら…、もしかしたら…っ
「…なまえ…」
なんか、さっきと同じように泣いてしまわないように涙を堪えているのに、なんで、こうも胸を蝕む感情が違うんだろう…
名前が、いない…なまえが…
『仮にも私が帰ってくるという日に、』
素性から声が聞こえて反射的に顔をあげる
『…なんてひどい顔をしている』
「っ、」
バサッと音をたてて服を翻したの声の主は、僕のいるところからかなりの高さにあるにも関わらず甲板を迷うことなく飛び降りて、微笑んだ。
『四国の姫は、私の帰りを望んでいなかったらしい』
「名前…ッ!!!」
抱きつく、というよりそれはもう飛び付くと言った方がいいかもしれない
「名前っ、名前…ッ!!」
無事だった、ちゃんと来てくれた、忘れてなかった…っ
名前が、名前が帰ってきてくれた…!!
ただいま
(ううぅ…なまえ……ひっく、)
(泣くな、と言いたいところだが…約束を破っていないようで安心した)
(ぅう、ぅ…約、束……?)
(お前の涙が、枯れる前に――…)