西欧ではクリスマスになると玄関や窓辺にヤドリギの枝を飾る風習がある。
ヤドリギは本来どこにでも生えている植物ではあるが、冬でも青々とした葉を見せることから強い生命力の象徴とされ、神聖な植物だと考えられた。
グレイ伯爵家でもそれは例外ではなく、庭師が冬の間は仕事が少ないからと、はりきって屋敷の至る所に飾っていた。
「名前さん、今日はヤドリギの下に立つのは気をつけるんだよ」
脚立に乗って天井にヤドリギを飾りつけながら、庭師は たまたま近くを横切った名前に声をかけた。
「えっ?どうしてですか?」
名前の問いかけに、穏やかな老年の庭師はニヤリと口端をあげる。
「おや、知らないのかい?クリスマスにヤドリギの下に立つ女性にはキスをしても良く、女性はそれを断ってはいけないという言い伝えがあるんだ。もし断ると、その女性は来年の婚期を逃してしまうそうだよ」
得意げな老人の言葉に名前は思わず苦笑を浮かべる。
「何です、その迷信。それに今日はオペラハウスに行くだけだから、ヤドリギの下なんて通りませんよ」
「おや、今日だったか。アイリーン・ディアスの公演なんて羨ましいねぇ。楽しんでおいで」
名前はにこやかに手を振る庭師に一礼すると、自室に戻りクローゼットを開けた。
中にはグレイが贈ってくれたブローチとニナによるドレスが入っていた。
「結局、今日の舞踏会には無駄になっちゃったけど……」
グレイとクレメンティア嬢は、午後には本来名前も出席する筈だった宮殿の舞踏会へと出かけてしまった。
(一体、あの時……私はどんな顔で2人の背中を見送ればよかったのだろうか)
古いクローゼットの中で、上等なドレスは不釣り合いなまでに輝いていた。
ゆっくり手を伸ばすと、その肌触りは滑らかで上質な素材を使用しているのは明らかだった。
自分のサイズに合わせてオーダーメイドで作られたものだから、返品も譲渡もできない。
このまま箪笥の肥やしにしてしまうのは、あまりにも勿体無い。
(折角だし、今日のオペラに着ていこう)
贈り主はそれを見ることがないというのに。
***
「舞踏会、出席出来なくなったなんて残念だね。……まぁ、そのおかげで僕はきみとこうしていられるわけだけど」
「いえ、こちらこそ振り回してばかりですみません」
グレイとの舞踏会のパートナーを解消した名前は、政治家の卵であるギルバートという青年に誘われライシーアム劇場を訪れた。
「今夜の演目は"湖上の美人"らしい。主演は人気のアイリーン・ディアスだし、楽しみだね」
そう言って彼がはにかむと、黒髪の巻毛がふわりと揺れた。
「そうですね……」
「終わったらフレンチを予約してあるから、楽しみにしていてほしいな」
「はい」
まだあどけない笑顔が可愛い青年だと思う。
だが、名前の心はどこか上の空だった。
宮廷で開催されている本来行くはずだった舞踏会の様子が気になってしかたなかったのだ。
(こんなに気になるなら、フィップスさんの誘いを受ければよかっただろうか……)
でも、グレイが公爵令嬢をエスコートしている姿を見るのを耐えられる自信がなかった。
だから、こうして一度は反故にしたギルバートの誘いを受けたわけだけれど、オペラが始まってもその内容は全く頭に入らなかった。
***
「そんなに舞踏会が気になるかい?」
「えっ?」
ギルバートにそう声をかけられ、ふと我に返る。
そこでようやく、公演が既に終わっていたことに気がついた。
「なんだか退屈そうだったからさ」
「す、すみません!決してそんなつもりじゃ……」
慌てて言い訳しても、彼は苦笑いを浮かべ肩をすくめた。
やがて、彼は何かを思案するように一度目を閉じておもむろにその口を開いた。
「僕の叔母が宝石商をしているんだけど、とてもゴシップ好きな人でね。この前、インドから仕入れた緑柱石が高値で売れたと喜んでいたんだ。……それを買ったのは誰だと思う?」
「えっと……?」
突然紡がれる話に意図が掴めず、首を傾げているとギルバートはフッと笑った。
「君の雇用主、グレイ伯爵さ」
「!」
(まさか……)
名前はようやく彼の真意に気づいて、ふいに胸元の宝石に触れた。
「女性物の緑柱石のブローチだったから、グレイ伯爵は誰か良い人でもできたのかと叔母に探りをいれられたんだけど……あいにく僕は彼とは挨拶しかした事がないから、その時は知らないと答えたんだけどね。驚いたよ、今日そのブローチを君が着けてくるんだから」
ギルバートの視線は、名前の胸元で彼女を守護するかのように煌めく碧い石に注がれる。
「グレイ伯爵の良い人って君だったんだね」
「そんなこと……!」
必死の形相で否定しても、彼は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべるだけだった。
「今日はもう帰ろう。フレンチはキャンセルにするよ」
「ギルバート様……」
「他の男性に贈られたアクセサリーを付けている女性をエスコートできるほど、僕は寛容じゃないのさ」
そう言って両手のひらを上に向け、ギルバートはおどけてみせた。
「……すみません、私……」
かける言葉が見つからず、名前は居た堪れない気持ちだった。
自分は、なんて無神経な女だったんだろう。
「そんな顔しないで。今日は付き合ってくれてありがとう」
彼は脇に置いていたシルクハットを被ると、優しく手を差し出した。
「さぁ帰ろう。君を待ってる人のところへ」
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