「も、やめて……っグレイ伯爵」
頭の上で両手を束ねられ、必死の形相でもがいて懇願しても、彼がその手を止めることはなかった。
『ダメだよ。それじゃ、お仕置きになんないでしょ』
「お仕置きって……」
『今日の式典中、ボクという婚約者がいるってのに他の奴のこと見てたでしょ』
言いながら私の首筋に歯を立てて、赤い痛みの痕を刻んでいく。
「……!」
朦朧とする意識の中で、瞳にうっすらと涙が滲む。
(どうして、こんなことになっちゃったんだろう……)
少し前まで、私は幸せだったハズなのに。
***
私にはヘンリーという恋人がいた。
彼は英国騎士団に所属する騎士で、多忙な毎日を送っていたのでなかなか会える機会は少なかったけど、それでも構わなかった。
彼のことが好きだったし婚約もしていた。
「ねぇ、ヘンリー。次はいつ会える?」
隣を歩く婚約者に腕を預けてテムズ川の流れに沿った道を歩くなかで、次回の予定を問うと彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
「来月の慈善試合の練習で忙しくてな……。早くても再来週の土曜日になるな」
「そうなの……」
がっかりした顔で俯くと、彼は慌てて私の頬に手を当てた。
「その日はなるべく早く会いに行くから!だから、来月の剣術大会はちゃんと俺のこと応援してくれよな?」
ヘンリーが瞳を優しく細めて顔を近づけた刹那……
『あっれー?こんなとこにいたんだ』
間延びした声と共に白い人影が2人の空間に割って入った。
「グレイ伯爵!」
グレイ伯爵と呼ばれた男は、名前の通り灰色の瞳でこちらをじっと見つめた。
彼の登場にヘンリーは私に伸ばしていた手をさっと引っ込め、緩めていた表情を引き締める。
『折角のデート中に悪いんだけど、騎士団長がお呼びだよ。Sir ヘンリー・エクレストン』
「はっ!態々ご連絡頂きありがとうございます」
敬礼をしながら恭しく応えると申し訳なさそうに私の方に向き直り、額にキスを落とした。
「じゃあ、行ってくるよ」
別れの言葉を言う間もなく、ヘンリーは慌ただしくその場をあとにした。
彼がいなくなったことで、その場には私とグレイがぽつんと残された。
『ふ〜ん……まだ付き合ってたんだ、アイツと』
「あなたには関係ないでしょう?」
グレイの言葉を一蹴し、早足でその場を立ち去ろうとする。
(グレイに会うなんて、今日は最悪な日ね)
正直なところ、事あるごとにつっかかってくる彼のことがあまり好きではなかった。
今日だって、グレイのせいで忙しい恋人との貴重な時間を割かれてしまったのだから。
『あんな奴のどこがいいんだか……。確かにアイツは貴族の出だけど、次男だから爵位もないし、結婚したってなんの得もないと思うけどね。それに、練習に精を出したところで来月の大会なんて勝てっこないのに』
立ち去ろうとした足を止めて、思わず目の前の男を睨み付ける。
「馬鹿にしないで!彼は強いんだから」
身も蓋もないグレイの言い草に、つい頭に血が昇ってしまった。
だけど、ヘンリーの婚約者としてその発言はあまりにも聞き捨てならなかった。
すると、グレイはどこか面白そうに瞳を細める。
『へぇ……じゃあ、賭けよっか?』
「賭ける?」
『そ、来月の慈善試合だけど、ボクも王室関係者として出場するんだよね。もしそれで彼がボクに勝ったら、なんでも一つだけいうことを聞いてあげる』
賭けごとに興味は無かったが、恋人への侮辱は晴らさなければと思った。
それに名家出身で宮廷仕えの小柄な彼が、騎士団に所属するヘンリーに勝てるなんて到底思えない。
「わかったわ。ヘンリーが勝ったら、さっき言ったこと取り消してくれる?」
『イイね、勿論だよ。じゃあ、もしボクが勝ったら……』
私の問いにグレイは形の整った口端を妖しく持ち上げた。
『君を貰う』
「……えっ?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
言った本人は呆然とする私をただ愉快そうに眺めていた。
「貰う、って……」
『決ーまり!じゃ、当日は楽しみにしててよ』
私の言葉をかき消すようにいうと、彼は手の平をヒラヒラとさせて踵を返した。
彼の勢いに気圧され、何も言うことができずにただ黙ってその背中を見送る。
(まさか……冗談よね?)
***
「今日はずいぶんと応援に精がでるのね」
大会当日。双眼鏡を持って応援席から食い入るように試合会場をみていると、女友達に後ろから声をかけられた。
「いまグレイ伯爵と賭けをしてるの。勝った方のいうことをなんでも一つ聞くってね」
隣に腰掛ける彼女に、ことのあらましを大雑把に説明する。
賭けの内容についてまでは話せなかったが……
「へぇ、アンタのカレそんなに強いの?」
「当然よ!英国騎士団の彼が名家のボンボンのグレイ伯爵なんかに負けるわけないわ」
胸を張ってそう答えても、友人はどこか不思議そうな顔をして首を傾げていた。
「……アンタ、もしかしてグレイ伯爵が名家のコネかなんかで女王陛下に仕えてると思ってるの?」
「えっ?」
彼女の指摘にドキリとした。
図星だったからだ。
あのいつも腰に携えている美しい剣でさえ、権威の装飾品だと思っていたがその認識は間違いなのだろうか。
「それではこれより、英国騎士団所属ヘンリー・エクレストンと女王陛下の執事チャールズ・グレイ伯爵による試合を開始する」
試合開始の合図を聞き、話の途中だったが私は身を乗り出した。
競技場に目をやると、審判の呼びかけでヘンリーとグレイはピストの上に剣を構えて対峙していた。
大柄で長身のヘンリーと並ぶと、グレイはとても華奢でまるで大人と子どものようだった。
(まさか……ヘンリーが負けるわけないよね?)
だけど、どうしてグレイはあんなにも余裕たっぷりの笑みを浮かべているのだろうか?その表情に胸騒ぎが止まらない。
「Allez!」
号令がかかるや否や、2人の剣は目にも止まらぬ速さで大きく動いた。
先制攻撃をしかけたのはグレイだった。
彼は華麗な剣捌きでヘンリーのリーチに入ると、1分も経たないうちに有効面に剣先を当てた。
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