やっと進んだお前との距離


強引に進めてみるもんだな。
出会ってから数ヶ月、一歩も進まなかった距離が大きく進展した。
頬を染めて、乱れた息遣い、おれを見上げてきた涙で潤んだ瞳。
今までの人生でこんなにキスが良いものだとは思わなかった。気持ちがあるからなのか、いつまででも喰いつきたくなる。それに漸く少しでも近づいた気がした。名前がおれに気を許し始めてる。

抱き締めてみれば、同意したかのようにおれの背中に名前が両腕を回したし。
キスをすれば突き飛ばされず、受け入れられたし。
舌を入れてみれば、噛み付かれずに、侵入を拒むこともなく受け入れられた。

流石に流れでその先に進もうとした時に肩を強く掴まれて「これ以上は心がないとさすがに無理です」ときっぱりと言い切られた。体だけの女だったら、口でそうは言っても抱いてしまえば女が自ら腰を振って求めるだろうが、おれがコイツにそれを求めてるわけでもねェ。
むしろ欲しいのは心の方だ。

おれの中で欲望は沸き起こってはいたが、ここで強引に進めたらこの行為に対する恐怖心を煽る気がして諦めた。代わりに欲望を少しでも鎮めるために、やっと進んだ限界点の口内を犯しつくした。






無事に帰宅したか心配だから電話して欲しいと言われ、家に帰ると携帯を取り出してすぐに電話をかける。
相手はすぐに電話に出て、はっきりとした声で『もしもし』と応答してきて、寝ていなかったと安心した。

「今家に着いた」

『それは良かったです』

「まだ寝てなかったのか」

『はい。先生が帰った後にすぐにシャワーを浴びて、これから寝るところです』

「髪はちゃんと乾かしたのか」

『もちろんですよ。先生のお家はここからそんな離れてないんですね、すぐに電話きて驚きました』

「車で15分くらいだな。…明日うちに来るか?お前の家にない医学書が山ほどあるぞ」

『いえ。明日は家でゆっくりする予定があるので』

「それは予定あるって言わねェだろ」

おれが笑うと電話の向こうでもふふふと笑う声が聞こえる。
名前の笑い声一つでこんなにも気持ちが昂揚するとは、我ながら単純だな。

「なら、明日もお前の家に行っていいか」

『ダメです』

「…暇なんだろ」

『そんな頻回に私の家に先生の車が止まっていると噂になります。ここのマンションは主任も住んでますので』

「別にいいじゃねェか。不倫じゃあるまいし、隠すような関係じゃねェだろ」

『いえ。隠す関係です。あ、そろそろ寝ますので』

「あっ、おい!」

…切りやがった。
なんだよこれ。完全に男女関係が反対じゃねェか。あいつ淡泊すぎだろ。

携帯をソファに投げつけると、ピカピカと携帯が光りメールの着信を知らせる。
すぐに開いてみれば名前からで、鼓動が早くなるのを感じながらメールを開いた。

《いい忘れました。おやすみなさい、ロー》

そう言う事は直接言え。
そうは思っても、文章とはいえ好きな女に名前を呼ばれて嬉しく思ってしまった。
しっかりメールを保護し、浴室へ向かった。








朝陽がカーテンの隙間からおれの目元を照らしてきて、布団を頭からかぶる。
時間を確認するために腕を伸ばして携帯だけ取ると、布団の中で確認した。

メールが一件。
開いて確認すれば名前からで、
《おはようございます。今日はお暇ですか》と。
1時間前から届いたものですぐに起き上がって電話をかけた。

『おはようございます。先生は予想通り、朝は遅いんですね』

「ああ。お前の家に行っていいのか」

『あ、それは悪いので私が行きます。住所を教えていただいてもよろしいですか』

「迎えに行く」

『それじゃ意味ありません。昨日のお礼をしたいだけなので』

「…分かった。メールで住所を送る」

『よろしくお願いします。では』

「あっ…切るの早ェな…」

とにかく急いで部屋を片付けて、着替えなくては。






インターフォンが部屋に鳴り響き、すぐにモニターの元へ行くと髪を降ろした彼女の姿が見えて思わずモニター越しにまじまじと見つめた。
首を傾げた彼女に慌ててロックを解除すると、頭を少し下げてモニターから姿が消えた。

数分後に再び来客を告げる音が鳴り響き、すぐにドアを開けた。

「こんにちは。コロコロと意見を変えてすいません」
「いや。入れよ」
「お邪魔します」

靴を脱ぐために屈んだ名前の顔が長くてサラサラの髪で隠れると、片手でその髪を耳にかける仕草があまりにも綺麗で、ごくりと生唾を飲み込んだ。
いつものようにナチュラルメイクではあるが、グロスを塗っているのか唇はぷっくりとして…

「…喰いてェ」
「何ですか?」

つい口に出てしまったようだ。
首を横に振って中へ招き入れると、感嘆の声が聞こえてきた。

「ひっろいですね…」
「そうか?」
「さすが医者…ここ何LDKですか?」
「3LDK」
「さっさんえる…一人暮らしなのに…」
「一緒に住むか?」
「結構です」

おれは年甲斐もなくドキドキしてんのにてめェは嫌味なぐらい通常運転だな。
心の中で毒づいて、腰に手を添えてソファに座るように促した。

「コーヒーか紅茶か飲むか」
「紅茶あるんですか?」
「あー、いや、コーヒーしかない」
「キッチン借りてもいいですか?実はお昼ご飯作ってきたんです。お茶も持参しました」

まさか手料理が食べられるとは思ってもみなかった。浮かれそうになる心を鎮めて、キッチンに立つ名前を眺める。幸せすぎる。

後ろから抱きしめたが嫌がられることも、辛辣な言葉も言われなかったのでそのまま手元を覗き込んだ。

「肉じゃが」
「試用期間中とはいえ彼女なので定番の肉じゃがにしてみました」
「試用期間言うな。おれの純粋な喜びを返せ」
「ふふっ、純粋って、ふふふ、ロー面白いですね」

楽しそうに笑う名前につられておれも笑った。こんな風に笑うのも久しぶりだな。
慣れた手つきで適当に取り出した皿に盛り付け、他にもサラダと炊き込みご飯とひじきの煮付けを皿に移してテーブルに並べた。
いつもは食べないか、外で食べるか、弁当を買っていたのでこのテーブルにこうしてちゃんとしたご飯が並べられるのは初めてかもしれない。

「あまり自信はありませんが、和食大丈夫でした?」
「洋食より和食派だからな」
「なら、良かったです。一緒に食べましょう」

手を合わせて口に入れると…最高に美味い。今まで食べてきた中で一番美味い肉じゃがだ。味付けもいいし、じゃがいもも程よく味が染みていて。他のも文句のつけようが無い。いや、仮に文句があったとしても言うつもりはないが。

「お口に合いました?」
「めちゃくちゃ美味い 」
「良かったです」

ホッとしたような表情で、はにかんだ笑顔が見えて、思わず見つめた。
何だよその表情。新しいじゃねェか…。可愛すぎる…

美味すぎる食事は吸い込まれるようにおれの口の中に入っていき、あっという間に全て平らげた。
ご馳走様でした。と2人で合わせて言うと互いに笑った。

「なんだかいつも1人で食べていたので新鮮です」
「おれも」
「誰か作ってくれる人が居るんじゃないですか??」
「…お前のそのいちいち嫌味っぽいのは天然か?」
「ふふ、すいません。天然です」

本当の天然は天然と言われたら否定すんだよ。お前のは狙って言ってるんだろ。
そんな冷たいこと言っても諦める気ねェからな。

食器を片付け始める名前の手を掴んでおれがやる事を伝えたが、食器を拭いて仕舞うのをお願いされる。

2人でやるこの作業が、まるで2人で暮らしているようでかなり気分がいい。
食器を片付けた後は医学書を読んでみたいと言われ、書斎に案内するとこれまた感嘆の声を上げた。

「すごい…本屋さんみたいですね…」
「そうか?好きなの読んでいい」
「ありがとうございます」

ソファに座り、本を開いて読み始めた名前をじっくりと観察する。
いつもは頭の上にきっちりとしたお団子でまとまっている髪が、サラサラと流れるように降ろされていて、耳にかけられている。
隣に座り、試しにその髪の毛を撫でるように触れても嫌がる様子はなく、手から流れ落ちる感触を楽しんだ。

これからどうするか。
3ヶ月はおれの女であるが、このままいけばコイツは3ヶ月後にはこの関係は容赦なく無かったことにされるだろう。
まさかこの歳になって1人の女に夢中になることになるなんて思いもしなかったし、こんなに口説いても落ちない女が居たとは。

体はあの言い方だと途中までしかしてない。
誰かが触れたと思うとドス黒い気持ちが込み上げてくるが、楽天的に考えればコイツの初めてをおれが貰える可能性があるということだ。
何で途中までして最後まで至らなかったのか分からないが…いや、このままだとおれがもらえるかも分からねェ。

どちらにしろ体以前に心が手に入らなければならないし、その心を手に入れるのが一番難関だ。
そもそも、コイツにとっておれの今の位置ってどの辺りなんだ。もしかして、キスまで許しといて全く意識されてねェとかは…いや、あり得る。コイツならあり得る。

ページを捲る手が止まり、こちらを見てきた名前にドキッとさせられて、誤魔化すように眉間に皺を寄せた。

「なんだよ」
「…先生って変わってますよね」
「お前には言われたくねェ」
「なら、私たち変わり者同士ですね」
「いきなり何だよ」
「いえ…今まで…比べてしまっては申し訳ないんですが、一緒に居て本を読んでたら怒り出す男性が多かったので」
「ヘェ…まあ、おれも本を読むのは好きだしな。どっちにしろ、一緒に居ようと自分の時間はある程度は必要だろ」

名前が目を丸くして驚いた様な顔をしたと思えば、おれから視線を外し、本に戻した。

「やっぱり先生は変わってます」
「惚れたか?」
「…少しは」

ここに来てやっと反応が変わった。
昨日までは「全く好きではありません」とか言いながら散々おれの心を抉ってきたが。
やべェ、浮かれそうになる。

「…キスしてェんだが」
「…どうぞ」

柔らかくサラッとした頬に手を添えて、こっちの浮かされた熱がうつるように唇を塞いだ。






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