エイチ1〜5


 ガポガポ音を鳴らす長靴を、引きずるように歩く。
 お気に入りの傘を広げ、上機嫌に笑う女の子の前に降り立ったのは、醜い姿の化け物だった。化け物は、大きい口を広げ、ニンマリ笑う。口端から垂れている涎は、緑色をしていた。
女の子は、よりいっそう楽しそうに笑う。

 長靴を脱いだ素足で、濡れた地面に立つ。雨を遮る傘がなくなり、無造作に伸ばされている黒髪が濡れていく。
 真っ赤に輝く瞳が三日月のように歪み、楽しそうな笑い声が響き渡った。

 足元の水がはねたかと思うと、女の子の姿が消える。
 二メートルはある化け物と同じ高さまで飛んだ女の子は、右足を振り上げ、化け物に照準を合わせた。女の子の可愛らしいあんよが食い込んだ化け物は、ピクリとも動かない。

「やった! また、私の勝ち!」

 雨に濡れることを厭わない女の子が、転がっている傘を拾うことはない。お気に入りの傘は、お気に入り“だった”傘になった。
 両手を空に向かって伸ばし、カエルのようにぴょんぴょこ跳ねる女の子。

「ヘンリー、また勝手に家を飛び出して」

「あ、パパ!」
「さあ、もうお家に帰ろう。ママが、あったかいクリームシチューを作って待ってるよ」
「クリームシチュー、だいすき!」

 父親の大きい手を握り締めたヘンリーは、とても嬉しそうに笑う。キャッキャッと子ども特有の声が響き渡る、ある日の夕暮れ。

121016


 七歳の誕生日を迎えたヘンリーは、大きなケーキにも目もくれず、はしゃいでいた。今日から、自由に外の世界を歩くことを許可されたのだ。

 待ちきれない思いで、ロウソクの火を吹き消す。お祝いが終わるまでは、外に行くことができないからだ。
 父親が切り分けたケーキにかぶりつき、上下に口を動かすヘンリーに、みんながプレゼントを渡した。パパとママ、弟のルーツ、それから――

「イルミ!」

 一切感情のない表情をしたゾルティック家の長男は、口を開くことなく包みを彼女に差し出す。
 包みの中から出てきたのは、七歳の少女には高価すぎるものだった。世界の秘宝にも数えられる、希少な宝石が埋まるネックレスの価値を知るはずもなく、ヘンリーは喜ぶ。それ一つで、山が三つ買えるなど、夢にも思わないだろう。

 ヘンリーの要望で、イルミの手でネックレスがつけられる。ヘンリーの好きな赤色をした宝石が、ヘンリーの瞳の輝きと競うように煌めく。キラキラ、キラキラ。
 大きな瞳を嬉しそうに細めて、ヘンリーはイルミにお礼を言った。ありがとう! たった五文字の、ありふれた言葉だ。
 イルミの表情が、少しだけ動いたのは、見間違えだろうか。

121017


 家の前には、小川が流れている。生活の基盤を支えている、大切な小川だ。
 ヘンリーは、冷たく、透き通った水を両手ですくう。指の隙間から零れ落ちる水が、ヘンリーの服を汚した。
 口いっぱいに水を流し込んだヘンリーは、ゴクリと喉を動かし口を空にする。潤った喉に、満足げな表情をした。

 ゆるやかに、時は流れる。
 広大な森の中を目的もなく歩くヘンリーの背後に、一つの影。忍び足で近づいてくる影は、人に近い形をしている。だが、人とかけ離れた姿をしていた。
 黄色を基盤とした皮膚には、水玉のような黒い模様がいくつも散らばり、ぴょこんと頭の上に生えた丸い耳が可愛らしい。
 本来なら四足歩行をしているチーターが、二本足でしっかり立っていた。
 身軽な体を存分に利用し、音もなくヘンリーの後を追う。
 だが――

「あれ? なんで気づいたんだ?」
「あれ? あたったと思ったんだけどな?」

 両者、不思議そうに首を傾げる。
 地面を飛び上がったヘンリーは、いつものように化け物退治に励んだ。しかし、ヘンリーの攻撃を、チーターの姿をした化け物は、難なく避けた。

 ヘンリーは、もう一度攻撃を仕掛けることなく、目の前の生き物を観察する。とても、興味を持った。

 化け物は、頬を流れる血に、気づく。攻撃は、確かに避けたはずだった。だが、怪我をしているということは、避けきれなかったということだ。
 化け物は、スピードに自信があった。スピードで負けたことなど、ない。化け物は、ヘンリーに興味を持った。

121018


 お互いに、観察をする。ゆっくり歩み寄ったのは、二人同時にだった。同じように笑い、同じように手を伸ばす。触れ合った指先は、握手をするように繋がれた。

「私、ヘンリー」
「ヂートゥだ」

「言葉を話す化け物なんて初めて見たわ。――もっとも、話をする前にみんな殺していたけれど」

 手を離した二人は、木の根元に腰を下ろす。楽しそうな喋り声が周囲を包み、時折響く笑い声に、鳥がざわめいた。

 二人は知識を分け合った。
 ヘンリーは、念をヂートゥに教える。といっても、ヘンリーの念に関する知識は浅かった。念の扱いに関しては、エキスパートと言っても過言ではないヘンリーだが、七歳児にその仕組みを理解するのは難しかった。
 それでもヂートゥは、ヘンリーの言葉に耳を傾けた。

 ヂートゥは、キメラ=アントについて話した。
 己の種族だというのに、よく理解していないのか、ヂートゥの言葉は滅茶苦茶だった。いくつか、間違ったことを、大威張りで教えた。
 それでもヘンリーは、ヂートゥの言葉を真面目に聞く。

 ヘンリーとヂートゥは、すっかり仲良くなった。
 ヘンリーは、キメラアントを見かければ殺してきた。それは、強くなるためであり、ヘンリーは強くなることを“楽しんで”いた。ゲームでレベルアップを楽しむように。
 ヂートゥは、スピードに自信があった。自らをスピードキングと名乗り、スピードを見せつけるための念まで作り出したほどだ。他者は、己のスピードを見せつけるために存在と、ヂートゥは認識していた。

 互いを足踏みにしか考えない彼らが、なぜ、仲良くなったのか。――仲良くなるのに、理由などいるのだろうか?

121019


 空が深い闇に包まれる。つい先ほどまで太陽がギラギラと輝いていたのにと、ヘンリーは首を傾げた。
 それほど、この一時を楽しんだのだろう。

 ヘンリーは、もう帰らなければならなかった。いや、本当なら暗くなる前に、帰らなければならなかった。両親が、家で心配して待っているのだから。
 こんなに暗くなるまで外にいるのは初めてで、ヘンリーは悪いことをしているような気分になった。頭の中は、大好きなパパとママでいっぱいだ。
 だが、ヂートゥと、もっと一緒にいたい。

 ヂートゥも、ヘンリーと一緒にいたかった。ヘンリーと話すのは楽しい。そしてなにより、自分が飽きるまで追いかけっこに付き合ってくれたのは初めてだった。
 暗闇の中、顔をつきあわせる。お互い夜目はきくほうで、相手の顔がよく見えた。

「ヂートゥはお家があるの?」
「? ない」
「じゃあ、私の家に来て!」

 溢れるばかりの笑顔で、ヘンリーは提案した。ヂートゥは、ヘンリーの言葉を理解していなかった。だが、ヘンリーがあまりにも嬉しそうに言うので、ヂートゥも嬉しくなり、大きく首を縦に振る。
 彼らは追いかけっこをしながら、家に帰った。楽しそうな声が、森に響き渡る。声に反応して現れたキメラアントを楽しそうに沈め、家まで走った。

121103
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