ウワサの及川さん


「…………ない」

放課後の裏庭で私は途方に暮れていた。
教室掃除の最中に『今週は長かったなー』なんてぼんやりと黒板消しをバフバフしていたのがいけなかった。
私を嘲笑うように滑り落ちていった二つのソレを慌てて取りに来たはいいのだけどどこにも見当たらない。

(ここら辺に落ちたはずなんだけど……)

そんなに小さいものじゃないのに二つともないなんておかしいなぁ。
ため息をついて下ばかり向いていたせいですぐそこに人が居ることに全然気が付かなかった。

「アンタか?コレ落としたの」

低い声のする方をパッと振り返ると白地に淡い緑のラインが入ったジャージを羽織った男の人がいて少し不機嫌そうにしている。
その手には先ほど私の元を離れていった二つの黒板消しがあった。

「あっ!そうですすみません!私が落としましたすみません!」
「あ、いや謝ることねえけど……ただ珍しいモンが落ちてて驚きはしたな」

……不機嫌、ではなさそうだ。
ソレを受け取って頭を下げたときに両方の足首に黒いサポーターが身につけられているのを見てバレー部の人なんだなと思った。
大きいし貫禄もあるし三年生だろうか。

少し目線を落とした先、黒いシャツに『漢気』とプリントされていてちょっとびっくりした。

「あ、あの、ありがとうございます……」
「別に礼言われるようなことはしてねーって」

拾っただけだしと口の端を引いて笑うのが少し意外で思わず目を奪われてしまった。

「まぁ変な奴に当たったりしなくてよかったな」
「は、はい。気をつけます!」

じゃあなと体育館の方へ向かう背中を見えなくなるまで目で追ってから少し離れたところに置かれたタオルに気がついた。

(……『心意気』?)

あの人のだ!絶対そうだ!

苗字名前、十五歳。
私立青葉城西高校に入学して早三ヶ月。
胸の辺りに温かな炎が宿ったようなこの落ち着かない感情を恋と名付け、大切に育てようと決めました。





「バレー部の優しいイケメン?そんなの一人に決まってるじゃん!」

休み明けに友人に聞いてみたところどうやらあの人は及川先輩と言うらしかった。

タオルは拾ってすぐに返しに行ったのだけど、体育館の前に何故か女の先輩がたくさんいてそのまま持って帰ってしまった事を伝えると「知らないの!?」と大きな声を出された。

「及川先輩て青城のアイドルだよ!すっごくイケメンでバレーが一番上手くて優しくて皆の憧れなんだって!噂じゃファンクラブもあるらしいよ?」

……す、すごい。ファンクラブができるくらい人気だなんて漫画の中から飛び出てきたみたいだ。
だとしてもあのタオルはきちんと返さなくちゃ、と紙袋に目を落とす。確かにキリッとしててすごく格好いい人だった。
服の上からでも筋肉質なのはよくわかったし、声も……。


──『漢気』

(や、でもあのシャツ……っふふ)

きっと努力家で、自分に厳しい人。
及川徹さん。綺麗な名前だ。緊張するけど勇気を出して渡しに行こう。





聞くところによると牛乳パンが好きらしい。
少し怖い顔なのに可愛いところもあるみたいだ。

放課後。柔軟剤多めに洗濯したタオルと購買で入手したソレを紙袋に入れて、ドキドキしながら体育館に向かうとまだ少し早かったみたいで扉が閉まっている。

(……誰もいないのかな)

背伸びして窓を覗いても人の気配はなくて諦めて帰ろうとしたとき後ろからジャリ、と音がした。

「っ!?」
「っごめんごめん。驚かせたね。バレー部なら今日は休みだよ?」

……テレビで見るアイドルみたいな男の人がいてびっくりした。
綺麗に整った顔と、柔らかそうな茶色の髪。
纏っている空気がなんだか甘くてドギマギした。
この人もバレー部の人なんだろうか。姿勢を正して紙袋をぎゅっと握った。

「バ、バレー部の『及川先輩』に用がありまして!」
「んー?どうしたの?」
「あ、あの、お渡ししたい物があったんですけど……」
「うわぁ!嬉しいなぁ、なになに?」
「(嬉しいなぁ?)タオルと牛乳パンなんですけど、えっと……今日は及川先輩はもうお帰りになられましたか?」

笑顔のままでその人が「ん?」と言った。

「……んんんっ?」
「え、その……及川先輩は」
「待って待って、及川さんに用があるんでしょ?牛乳パンでしょ??」
「そうですけど……?」

及川『さん』……ってことはこの人は二年生?
そんなことよりも私にはこの先輩が困惑している意味がわからず、ただわけのわからない時間だけが流れている。

「あのさ。ごめん俺、ちょっと混乱してる。誰を探してるって……?」
「え、……あ!」

部室のある方向から何人かが歩いてきて、その中にいるのは間違いなくあの時の『先輩』だった。

「及川先輩っこんにちは!あのっ」

私を見る目が一瞬丸くなって、何度か瞬きを繰り返している。

「この間はありがとうございます!あの、その時にタオルが落ちててそれで……多分及川先輩のかなって!」
「あぁ?及川が何だって?」
「タオルをあの……この漢気タオル、あの時及川先輩が……」
「あーっと……キミ一年生かな?もしかしたら何か勘違いしてるみたいだけどさ」

茶髪の先輩は頬を掻きながらなぜか唇を震わせていた。









「ごめんなさいッ!!消えてなくなりたいッ!!」

先輩方はこの出来事が面白くて仕方ないようだった。

「岩ちゃんに……ふ、ファンクラブ……ッ!」
「及川テメェ笑ってんじゃねえ!お前らも!!」
「この子もこの子だよなー。信じたんだよなー。ぶふっ」
「くっ、ふ……ふふ」

バレー部で一番人気の、ファンクラブまであると言われる『及川先輩』がこっちの茶髪の人だと告げられて言葉を失った。
穴があったら入りたいとかそんなレベルじゃなく、いっそのこと灰になって散ってしまいたいと思った。

「その……すみませんでした。岩泉先輩」

おずおずと紙袋を差し出すと、ゴツコツしたいかにも男の人らしい手が伸びてきて受け取ってくれた。

「わざわざ洗濯してくれたんか。俺が勝手に落としただけなのに」
「あっ、いえ、はい」
「どうもな」

(あ……また)

笑った。少しだけ。
それだけで嬉しくてソワソワして、このまま終わりたくなくて、もっともっと先輩のことを知りたくなる。
温かな幸福に浸っていると本物の方の及川先輩が紙袋から牛乳パンを取り出して「じゃーこれは俺が貰っちゃうねー」と明るく言った。

(え……)

事実、牛乳パンは岩泉先輩の好物じゃなかったんだけど。でもそれは──。



「誰がやるっつったよ」

短く言い放った岩泉先輩はすぐ様ひょいとそれを奪い返した。

「えっ、だって牛乳パンだよ?しかもこれ金田一の家の近くのパン屋さんが週一で購買で売ってくれる、俺が本当に好きなやつだよ??」
「それとこれとはちげーだろ。俺宛てなんだからおめーがしゃしゃり出てくんな」
「ちょ、言い方!!」

私の胸の炎がどんどん勢力を広げていっているような気がする。
嬉しくて擽ったい感情を持て余しながらも「今度はちゃんと岩泉先輩の好きな物持ってきますね」と勇気を振り絞ってみれば返ってきたのは「そんなんいい」と一言。

その言葉に落ち込んだのも束の間で。


「物なんかいらねえから時間あるとき見に来い。部活」
「え……い、いいんですか」

「エースの実力をしっかり見せてやんねえとな」


にやりと口の端を上げる表情にくらりとした。

すっかり顔を赤くした私にそういや聞いてなかったけど名前は?と問いかけた岩泉先輩は、思わず声を裏返してしまいながらの「苗字名前です!」を楽しそうに笑った。

end.
2019/06/21
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