「ちょっと待った」 長かった数学が終わった休み時間。当番の日直が黒板消しを持ったのを見て慌てて止めた。 「え?」 「これまだ写したいから、俺が消しとく」 教卓の上にノートを広げる。ガリガリとシャーペンを動かすと、日直は納得して自分の席へと帰っていった。 「あれ、何してんだろ高耶」 背を向けている方で譲の声が聞こえる。 「どーせ赤点がやべぇんだろ」 「あ…次のテスト赤点だと夏休み補習じゃなかったっけ」 「まじか。まぁ俺には関係ないけどね。どっかの誰かと違って優秀だから」 くそ、聞こえてんだよ千秋の野郎。わざとらしいっつーの。 「おーい。この俺様が教えてやろっかー?」 「っせーばーーか!」 振り向かず、手と目だけを動かすことに集中する。 正直サボっていた分まずい。基本のところは何とか解るが、今日やった応用問題は教科書を見ても全く解らなかった。 千秋が黒板の前に立つ。 「諦めてもう俺に泣きついてこいや」 「見えねえからどきやがれ」 確かに千秋は数学の成績がかなり良いが、こいつに頼るのは最後の手段だ。俺にもプライドってもんがある。 背中に隠れる問題を必死に覗き込んでいると、クラスの女子が申し訳なさそうに声をかけてきた。 「…あ、あの千秋くんっ。バスケ部の先輩が呼んでるよ」 「あぁ?またか」 千秋が面倒くさそうに頭を掻く。何だか分からないが邪魔する奴がいなくなってせーせーしたぜ… 「解らないところがあるんですか?」 「うわあああ!」 突然の顔面ドアップに思わず飛び上がった。 「おおお脅かすなよ直江!」 「すみません」 高い位置にある顔が可笑しそうに目を細める。 「教えてあげましょうか」 「いらん」 「遠慮しないで仰木さん」 「結構ですセンセイ。つかあんた数学教えられんのかよ」 「愚問ですね」 直江が長身を折り曲げてノートを覗き込む。 「ここの例題、どの公式使うか解りますか?」 握っていたシャーペンが奪われ、大きな手の中に収まった。 サラサラと綴られる少し神経質そうな文字。 手の動きに合わせ、柔らかい髪が頭をかする。 「…」 「これをここに代入して…――高耶さん」 「…え!?あ、なに」 顔を上げると直江が真っ直ぐこっちを見ていた。暖かい日を浴びて、鳶色の瞳が淡い虹彩を放つ。 「お弁当美味しかった」 周りに怪しまれない程度に顔を寄せられ、低い声が鼓膜をくすぐった。 教室の喧騒がどこか遠くに聞こえる。 「…もう食べたのか」 「ええ。昼に会議があるんで」 「そっか」 あんなんで喜んでくれんのか。ほぼ昨日の夕飯の余りなのに。 いつも思うけど、こいつって意外と安い舌だよな。 「いつもありがとう」 …今ぜってえ顔赤い。 next |