01

正一の放課後の行き先は、いつも決まっていた。高校と同じ敷地内にある大学の図書館だ。
高校にも図書室や自習室があるのだが、蔵書量が豊富であるのと、イタリア語講師・幻が居る講義棟に質問しに行きやすいという都合で、大学受験の勉強は図書館が閉まるまでいつもここでしていた。

午後7時、閉館時間が来て、その出口で正一は自分の体を自分で抱き締め震えながら、今更言っても仕方のないことを小さく叫んだ。

「天気予報のウソツキ…っ!」

どの辺、最高気温26度だ。梅雨時でむしむしとしているのだし、正一は当然に半袖で登校したのだが、さっきスマホで確認した気象情報によると、今日は最高気温は20度を下回ったらしく、午後7時の今は17℃。半袖のブラウスではかなり寒い。

尤も、正一が折りたたみ傘を忘れたのは、午後の降水確率は60%で、しかも夕方から明日にかけて雨という予報を知っていたのだから、単なるドジな忘れ物だ。
高校の授業が終わった時点でもう雨は降っていて、どうせ濡れるのは同じだと大学の図書館に来てみたのだが、明らかに降りは強くなっていて、あの時点で帰ればよかった…などと思っても、仕方がない。

7月初めの日の入りはちょうど今頃の時間で、雨も降っているので外は暗い。
正一は心細く思ったけれども、大学の図書館では傘に入れてくれる友だちも見つからず、雨の中へ駆け出そうとした。

「濡れるぞ」

ひょいと手首を掴まれて、ガッシリとした大きなあたたかい手の感触と、低く穏やかな男の声に、正一はドキンと胸が跳ねた。

「…幻、先生」

正一は、驚いて振り向いた。
熱心を通り越したしつこい印象を持たれたくなくて、正一が幻の部屋を訪れるのは、2日に1回を超えないように努力している。今日は、会えないはずの日だとばかり思っていたのに。

「傘を忘れたのか?」
黒髪の美丈夫が、可笑しそうに言った。

「入江は、しっかりしているようで、案外そそっかしいのだな」
「あ、案外でもありません!!いつでもそそっかしいです!!」
「中等部入学以来、テストでは不動の1位で不動の入江だろう?」
「凡ミスで、数学で5点マイナスだったことがあります。ウッカリ2位に落ちそうでした」
「その凡ミスは何回だ?」
「あんな屈辱は、1回で十分です」
「…………」
「あの…?」

くくく、と幻は笑った。
「傘を忘れた屈辱は、何回目だ?」
「…覚えてませんが、屈辱と言うほどのプライドを持つには、数が多すぎると思います……」

笑われてしまったので、正一は赤くなって俯いた。
元々、幻の講義を受講したいと思ったのも、初めて入った大学構内で、きょろきょろしながら歩いている時に幻とぶつかってしまい、荷物を拾って貰った上に、立ち上がるときに優しく手を差し伸べて貰った……という、ドジから発生したひとめぼれがきっかけだ。

「入江は勉強熱心なので、オレも力になれるように指導したいと思っているが、そのように危なっかしいところも、貴女は放っておけないような気がするな」

笑いを含んだ声は優しく、正一の心臓はトクンと跳ねた。
幻は、優しい。まるで剣の閃きのように鋭く近寄り難い空気を纏っているようでいて、熱心な教え子に対してはあたたかな眼差しで接してくれる。……それは、正一に限らない。

わかっているのに、放っておけないと言う大人の男の言葉は、余裕の中に甘みを含んで聞こえて、正一は頬が火照った。

「入っていけ」
「え…?」

幻が、男物の大きな傘を広げた。
「暑い日なら濡れるのも悪くないかも知れないが、今夜は寒いだろう」
「あの…でも…」
「何だ?」

正一は、通り過ぎてゆく女子大生の視線が痛いと思いながら、このひとは自覚がないのだろうかと慌てた。

「め…!目立ちます!!」
「……ああ、オレが言うとセクハラに聞こえてしまいそうだが」

幻は、正一だけに聞こえる程度に声量を落とした。
「白いブラウスは、雨に濡れると透けるぞ。駅までの距離ならずぶ濡れで、確実にその方が電車の中で目立つ。オレとしては、女性は暑い日でも雨には濡れずに歩くことを勧める」
「…………」

正一は、口から魂が抜けそうになった。
抜けそうになっているうちに、肩から重いスクールバッグが軽々と幻の手に移った。

「あ、あの、持てます!」
「知っているが、こうでもしないと貴女は辞退するだろうからな」

幻が雨の中へと歩き出し、正一は慌てて傘の下に入った。…大きな傘。ふたりで入っても、殆ど濡れずにいられる。

…とくん、とくん、とくん。幻の隣で、心臓が跳ねる。
くっつきそうに近くにいないと濡れてしまうし、正一が袖の少しくらいは濡れてもいいと離れても、幻はすぐにそのことに気付いて、自分は濡れても正一に傘を差しかけようとするのだろう。

…このひとは、やさしいから。
放っておけないと、教え子のひとりに過ぎない正一を、本当によく見ていてくれるひとだから。

だから、教師と生徒で、この想いは叶わないと知っているのに、どんどん好きになってしまう。
切なくても、好きになってよかったと、ことあるごとに思う…心から。

正一も、あと半年すれば入試のシーズンに入る。きっとそれはあっという間で、卒業という別れもすぐそこで。
別れの時に、一生にいちどの恋でしたと伝えたたなら……

(子どもなのにと…先生は、やっぱり優しく笑うだけですか…?)

ふと、正一は気付いた。
「あの…先生、方角、違うんですけど…」
「ああ、職員の駐車場に向かっている」

傍らで、幻は見下ろして微笑した。

「送って行く。傘はひとつしか無いからな」

正一は、自分の心臓は、傘に弾ける雨音のようだと思った。
憧れた大人の男のひとの、車に乗せて貰えるだなんて…

「ここまで来れば、人目には付きにくいだろう」

幻は、スーツの上着を脱ぐと、ふわりと正一に羽織らせた。
…あたたかい。上着そのもののあたたかさと、上着に残る幻の体温が、冷え切った正一の体を優しく包み込んでくれる。

まるで、幻にそっと抱き締めて貰っているような気がして、正一はとても小さな声でお礼を言うのがやっとだった。

「……ありがとう、ございます」

こんな風だから。
僕はこのひとを、もっと、好きになる…

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