01
あのひとが、この世界から消えてしまってから…ううん、僕の心の中だけの住人になってから、1年の時が過ぎようとしていた。
(誰かを愛する気持ちも涙も、綺麗なものだってウチは思うよ)
(だから、正一が白蘭を愛してる気持ちも、白蘭を想う涙も、全部綺麗で、罪なんかじゃないって、ウチが保証してやるよ)
彼は、そう言って僕を優しく抱き締めてくれた。
彼だけが、密やかに、僕の恋を許してくれた。
だから、もう崩れ落ちそうになっていた僕が、彼の優しさに縋るようになるのには、たいして時間はかからなかった。
彼はいつも飄々として、熱意を発揮するのはメカとイチゴ菓子だけ、…と周囲のひとは思っているみたいだけど、そうじゃないんだって僕は知っていた。
だって、人間をよく見ていて、繊細な目を持ったひとでないなら、あんな優しく透き通った言葉を紡ぐことは出来ない。
(好きだよ、正一)
(ウチは白蘭の代わりにはなれないけど、生きているウチにしか出来ないことを、正一にしてやりたいんだ)
以前から、彼が僕に恋をしてくれていることは知っていたけれど、どうして彼が僕にそこまでしてくれるのか、僕はまだ理解出来ないままでいる。
だって、報われない恋は辛いものだと思うから。
それは、僕があのひとの傍で、長い間思い知らされてきたことだったから。
(正一)
僕が、あのひとに置いて行かれてしまったのだと、僕は独りなのだと立ち尽くすような気持ちの時に、気付いてくれるのはいつも彼だった。
(ウチなら、ここにいるよ)
(抱き締めたい。1分だけ)
懸命に自分の心を押し隠していた僕だけど、彼の腕の中では泣き虫。
いつも、1分と彼が言ってくれるのは、彼が決して僕を束縛しないと安心させてくれているのだと思う。でも、僕は自分から彼の胸から離れようとしたことはなかった。
実際には5分だったのかも知れないし、10分だったのかも知れない。
でも、彼がとてもあたたかいから、僕はいつまでも彼のぬくもりに包み込まれていたいと思った事は何度もあった。
彼の腕がそっと僕の体から解かれるとき、僕はどうしてか切ないと思った。
どうして、そんな気持ちになるのだろう?
ただ、ひとつ確かなのは、僕が彼に対して罪悪感を持っているということだった。
(すきだよ、正一)
僕は、いちども彼に同じことばを返したことは無く、ただ彼の愛情に頼るばかりだったから。
いちどだけ、訊いてみたことがある。どうして、僕を抱き締めてくれるのか。
彼の答えはシンプルだった。
(男だったら、好きな女の子は抱き締めたいだろ?)
にこりと笑って、僕の赤茶の癖っ毛をくしゃりと撫でてくれた。
(僕…。スパナに頼ってばかりで…)
意外そうな顔をされたのが、僕にも意外だった。
そして、彼が嬉しそうに笑ってくれたのも。
(ウチ、正一に信頼されてるのか?)
(…うん)
(それ、スゴク嬉しい。ウチめっちゃ愛され感)
彼は、本当に嬉しそうで。
(信じて貰えるのも、頼ってもらえるのも、それって大きな愛だよ。ウチ幸せだ)
彼は、僕に恋をしてくれているのに。
同じことばを返せない僕を抱き締めて、幸せだと言ってくれる。
彼の無欲に、僕は安らいで、そして胸が苦しくなった。
(正一…?)
ある夜、僕は彼の部屋を訪れた。
僕は、黙って、彼の胸に飛び込んだ。
いつも抱き締めてくれる彼だから、僕からも抱き締め返せばいいのかと。
考えて、考えて、僕にはそれしか思い付かなかったから。
でも、彼は簡単には僕を抱き締め返してはくれなかった。
(正一、ウチに負い目を感じてるのか?)
(無理しなくていいよ)
身勝手にも、僕は傷付いた。
彼はこんなにも僕に優しさをくれるのに、僕を要らないんだと拒否されたような気がして。僕は、勇気を出して彼を抱き締めた両腕を、のろのろと引っ込めた。
僕は泣いてしまって、彼は本当に弱り切った様子で、今度は彼の方からそっと僕を抱き寄せた。
(正一、ウチの為に泣かなくていい)
違うのに。僕の心は、そんなに綺麗じゃないのに。
彼のためじゃない、ただ僕が傷付いたから泣いた、そんな子供じみた理由に過ぎないのに。
(こういうことは…正一が本当に好きになれたひととするべきだよ)
ふさがれた、唇。彼の舌が半開きの僕の歯の間から入って来て、僕の口の粘膜を唾液の音を立てて味わう。僕は、上顎の裏を彼の舌で擦られて、急に訪れた快楽にくぐもった声を漏らした。
いつの間にか、絡め取られて彼の口の中でちゅくちゅくと吸われる舌。
僕は、あのひとの巧みなキスを覚えていたけれども、彼のキスはそれとは違っていた。
優しいのに、どこか余裕がないようなキス。
情熱的なようで、でも別れを惜しむように、何度も角度を変えて繰り返して。
「…すまない」
長いくちづけを終えて、僕の目に映ったのは、寂しい苦笑と、後悔の色を宿す青い瞳だった。
「ウチ…今、正一の信頼を裏切ったよな」
僕は、茫然とした。
ちがう、と僕の心は叫んでも告げたかったのに。
僕はキスに蕩けてふらついた体のまま、彼に寄り掛かって、彼の袖を握っていることしか出来なかった。
……ううん。僕は、身勝手。彼があんまり澄んだ青い瞳をしているから、きっと受け容れてくれるなんて思って、見上げて頼んだ。
「そばに…」
小さな、掠れた声で。
「朝まで…そばに、いて」
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[図書室65]
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