01
研究室のドアは、鍵を掛けているでもなく、簡単に開く。
そして、奴はオレに気付いているのかいないのか、PCのディスプレイだけを見て、キーボードをピアニストみたいなスピードで叩いているだけだ。
「おい、ヴェルデ」
名を呼べば、こちらを向きはしないが、オレに気付いているような気配がした。
「お前らしく無視かよ」
キーボードはそのままだが、返事があった。
「…お前しかいない」
「どういう意味だ?」
「ノックもせずに勝手に入ってくる無礼者だ」
オレは苦笑した。が、満足もした。
コイツは、本当にどうでもよければ一切囚われることはしない。
「覚えていたのかよ。上出来だ」
「無礼者。小学生でも覚えるだろうよ」
フン、と素っ気ない。
「ツンデレかよ」
「一生デレる予定は無い」
「…………」
オレらしくもなく不意を突かれたもんで、笑い出した。コイツにしては、案外まともな答えが返ってきた。
「何を、バカ笑いしている」
「お前みたいな奴の場合、返事をするだけでも十分デレだってんだよ」
キーボードの手が止まり、奴はあからさまに不愉快な顔をした。
「やっと、オレの顔を見る気になったのか?」
「そうだな。私ともあろう者が不覚だ」
不覚、と言ったがその顔からはすぐに表情は消える。
コイツはいつもそうだ。関心のあるものには病的に熱心だが、そうでないものには全く心動かされない。
当然に、そのまなざしは温かくもない。かといって冷たくもない。
ただ透過させる透明。
だから、オレはこの透明に自分の姿を映してやりたくなる。
コイツが、憎まれ口であれオレと口を利いている間は、コイツの目はオレを見ている。見ていなくても、さっきオレが入って来たときみてえに、あえて無視という手段を執るのなら、その時コイツの目は透明じゃないんだろう。
もういちど、その手はキーボードに移ろうとした。その手首を、オレはぐいと掴んだ。
奴は、気怠そうにチラリとオレを見たが、これっぽっちの抵抗もしないし、何のつもりだと問うこともしない。
唇を、奪ってやった。思い切り、濃厚な奴だ。
徹底的に蕩かせて、数百年に1人とやらの頭脳を停止させてやる。
長い時間、角度を変えては繰り返し味わって、オレはやっと解放してやった。
銀の糸を引いた時、コイツは無抵抗を通り越して脱力して、眼鏡の向こうの瞳は潤んでいた。
「ちっとはその気になったか?」
「私を欲情させたということか」
肌を上気させているくせに、奴はつまらんとでもいう口調で言った。
「お前は巧いからな」
「比較対象があるのかよ」
「私とキスをした者全員だ。…ああ、男はお前だけだな」
オレは眉を寄せて、オレこそ不覚だと思った。
オレがコイツの唇をかっ攫ったのは初めてじゃねえが、コイツも中学生じゃあるまいしファーストキスがオレなんてのは有り得ねえってのに。オレとしたことが、嫉妬かよ。
「嫉妬か?遊び人のくせに未熟者め」
オレの心を読むように、奴はフンと鼻で笑った。この時奴は確かにその瞳にオレを映しちゃいたが、この時ばかりはオレの分が悪かった。
可愛さ余ればなんとやらで、ムカついたオレが奴のネクタイの根元を握って持ち上げてやると、呼吸が少しばかり妨げられたんだろう、奴は眉をしかめてオレを見た。
だが、それだけだ。コイツは何の抵抗もしねえ。
そんなん、こうする前からわかってる。
いちど、押し倒してやった事もあるが、その時ですらそうだった。
(好きにしろ。私は無駄なことはしない主義だ)
天才科学者と呼ばれるコイツは、頭脳だけで生きているような奴で、研究が仕事と趣味を兼ねるインドアだ。だから、抵抗を試みたところで筋力も体術もオレには全く敵う訳がない、そういう理由で無駄だと無機的に言っただけだった。
オレは、好きにした。
つまり、抱かなかった。
コイツは、簡単に力ずくに出来る奴だ。でも、オレの手には何も残らないんだろうと思ったからだ。
オレは、最強の殺し屋と呼ばれているしその通りだと自負しているが、コイツの前では全く無力なんじゃねえかと、時折思う事が有る。
オレは相手が女だろうが男だろうが、セックスで落としてやることは出来る。コイツにもそう出来るんだろう。
だが、コイツは体を奪われても欲情に狂わされても、心は微動だにしねえんだろう。
拳銃も、役に立たねえ。
ゴリリと頭に拳銃を突き付ければ、コイツもちょっとは恐怖を感じるかもしれねえが、こんな体験は一生に一度だと、さいごまで科学者のコンピュータみてえな分析を続けるんだろう。
「全く、憎たらしい奴だぜ」
「そう思うのなら、殺し屋らしく拳銃を抜けばよかろう」
「お前相手にそれは芸が無えな」
癪だが、全部手に入れるのが無理なら、つまみ食いで今日は妥協してやる。
ネクタイを握っていた手を離せば、奴は軽く咳き込んだ。苦しかったんだろうに、コイツは放せとは決して言わなかった。
……そういう奴だ、お前は。
「抱かせろ」
奴は、呆れたような顔をした…のが、オレには意外だった。また、コイツの瞳はガラス玉に戻っちまうだろうと思っていたのに。
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[図書室65]
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