01
夏休み。
塾の夏期講習に行っている生徒も多いだろうけれども、高校2年生の今は、まだ学校からたくさん出ている宿題だけでいいという人も多いと思う。
正一は、夏休みに入っても、ほぼ毎日登校していた。部活動の生徒も出入りしているし、図書室や自習室には、宿題や受験勉強をする生徒がいる。
そして…大学はほぼ年中解放されている。
大学の講義棟の一室。コンコン、とノックすると、「どうぞ」と低く柔らかな声が応じてくれて、正一の胸はトクンと高鳴る。
「失礼します」
「入江か。毎日熱心だな」
正一は、頬を赤らめた。
確かに、毎日来てはいる。でも、この憧れの大学講師の元を訪れるのは、しつこく思われたくはなくて、2日に1度と決めていたからだ。毎日会いたいという気持ちを抑えて。
「あの…。どうして、毎日だと思うんですか?」
「ああ、何度か、大学の図書館で見かけた。本を読んでいるようだったので、声はかけずにおいたが」
知らなかった。
もし気付けていたら、会釈出来るだけでも、その日ずっと幸せな気持ちでいられたのに。
「僕は、理数科目は自信があるんですけど、文系科目はもう少ししっかりしようと思って。高校の図書室より、大学の図書館の方が、本の種類が多いんです」
「入江は、自分に厳しいな。“不動の入江”ではないのか?」
イタリア語講師・幻の言う通り、正一はこの学園の中等部入学以来、テストの1位の座を譲ったことはない。
「それでも…。古文や漢文は、僕が知らないものが沢山ありますから。入試にどんな問題が出てもいいように、色々読んでみたいんです」
「まだ2年生だろう。もう大学の受験勉強の詰めに入っているのか?勉強熱心なのはいいことだが、あまり無理をするなよ。暑いからこその夏休みだからな」
くすりと、幻は笑う。
精悍な顔だちだが、微笑むヘイゼルの瞳は優しくて、正一の胸はトクンと跳ねる。
「僕みたいな人は、結構多いんです。家にいると何となくだらけてしまうので、学校にいる方がちゃんと勉強出来るって」
だが、その場所に高等部の自習室や図書室ではなく、大学の図書館を選んでいるのは、少しでも幻の傍にいたい…と思うからだ。
「そういうものか。それで…、今日はどんな質問だ?」
「あの…。僕が目指している大学は、外国語は英語以外でもいいんです」
正一は、とても勇気が要る、と思いながら、小さな声で言った。
「…イタリア語でも」
幻は、驚いた様子で正一を見た。
「珍しいな。大抵は、理系学部なら、英・数・理だと思うのだが」
「はい…。中国語と、ヨーロッパの主要言語なら、英語じゃなくてもいいんです」
ヘイゼルの瞳を見つめ返すのは、勇気が必要で、頬が火照って…
「僕、イタリア語で受験しようと思うんです」
「それでいいのか?」
当然に、幻は聞き返した。
「入江なら、英語は勉強しなくてもほぼ満点を取れるだろう」
「大学入試レベルなら、そうだと思います。だから、今僕が敢えて英語の勉強をする意義は、あまりありません。英語は大学院で英語の論文を書くときに、専門用語を学ぶくらいでいいと思います」
「…………」
しばらく沈黙した後、幻はくくくとおかしそうに笑った。
「入江らしいことだが、友人の前では言うなよ」
「は、はい。間違いなくイヤミだと思われそうなので」
正一の英語力は、今飛び級してアメリカの大学に入学しても通用するレベルのはずだ。
「大学に入学したら、外国語を2つ以上選択しなければならないそうです。ここでも英語を外して、国連公用語のフランス語、ロシア語、中国語、…日本では重要視されるドイツ語、その中の2つから選ぼうと思っています。だから…」
今は、少しでも、貴方の傍に、いたいから…
「大学受験は、僕の…すきな、イタリア語を選択して、今のうちにたくさん勉強しておきたいんです」
(あなたが、すきです)…
「そうか。オレの講義をきっかけに、貴女がオレの故国に興味を持ってくれたのは嬉しいことだ。オレは、大学受験にイタリア語を選ぶという学生を指導したことはないのだが、入江にやる気があるのなら、出来る限り力になろう」
「はい…。ありがとうございます、先生」
嬉しくて、正一は笑った。
あと1年半ほど。正一は、憧れの恩師の、出来るだけ近くにいたかったから。
「入江」
長身の幻が椅子から立ち上がり、その身長差にどきんとする。
そして、その大きな手がそっと正一の額に触れたので、正一はかーっと真っ赤になった。
「…やはり、少し熱があるようだな」
正一は、幻の手の感触を夢のように思いながら、自分の怠さが暑さの所為だけではなかったのだと、初めて気付かされた。
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