小袖
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 橙色に染まりゆく町並みに目もくれずに、書生は家路を急ぐ。
 浅黒い肌が夕陽を浴びて、より一層顔の陰影を濃くしていた。書生の額には、じんわりと汗の粒が浮かんでいた。勉学がしたい一心で東北の片田舎を飛び出してきた書生にとって、夕餉までの僅かな時間を無駄にすることは出来なかった。
 復習と予習。それから、安くはあるけれども生活を潤すためには必要な翻訳の仕事。睡眠を削ってでも読みきってしまいたい哲学書やら経済書やらが狭い部屋の中で山を作っている。書生にとって、一日は二十四時間では全く足りないのだ。そんな中にあって、それでも一瞬だけ、書生はその家の前に来ると早めていた歩を緩めるのだった。
 書生がこの道を通る時間、いつもその家の半分だけ開いた格子戸からは、柳がしなだれかかるように真白い腕が伸びていた。赤や黄色の華やかな小袖から、真白い――この世のものとは思えないほど、吸い込まれそうほどに白い腕が、まるで書生を誘うかのように黒い格子戸にしなだれかかっているのである。
 書生がそれに気づいたのは、いつの頃からであっただろうか。ある日突然に、脇目も振らずに歩いていた書生の目に、その白い腕がぼうっと浮かび上がって飛び込んできたのだ。橙色の光を浴びた白い腕は艶かしく、家に戻った後にも書生の眼裏から消えることは無かった。
 頼まれていた独逸語の翻訳をしている間にも、文章の合間にその白い腕がちらついて、普段であれば半時で終えられるその作業に、数時間もかかってしまったほどであった。
 以来、書生はその腕に焦がれていた。白い腕を見つめ、その前を通る度に妄想は膨らみ、激しい欲求となって書生を襲う。
 一度で良い。一度で構わない。あの腕に触れたい。あの腕に触れて欲しい。あの腕に撫ぜてもらえたのなら。
 そうして、その感触を想像しながら、書生は何度己を慰めたか分からない。それほどまでに、書生は真白い腕に焦がれ、欲情するのだった。 


 ある日のことだ。
 急な雷雨に、書生はいつも以上に急いで帰路に着いていた。傘も無ければ、被るような上着も持ち合わせてはおらず、ただもう自分の腕で、無駄だと分かっていながらも雨を避けるしか無かった。石のような雨の粒が、書生の体をびしびしと打ちつける。
 いつもの家の前に近づいたが、書生はこの雨なのだからと足早に去ろうとした。しかし、その家の格子戸からは、あの白い腕がしなだれかかっているのであった。
 驚いた書生は、降り注ぐ雨を気にも留めずに立ち止まった。
 いつもであれば、数歩距離をとって見つめているその白い腕を、今はまじまじと一歩分の距離で見つめている。腕には数滴、雨の雫がしたたっていた。ぷくんと透明な水の粒が、白い腕に玉のように浮いている。
 書生の胸に、急激にその腕に触れたいという欲求が過ぎった。
 つと、震える手を伸ばした瞬間、か細い声が聞こえてきた。
「もし」
 驚いた書生は、指先に触れるか触れないかの距離で、手を止めた。自分の欲の強さに驚き、慌てて伸ばしていた手を元へと戻す。その書生の仕草に気づいていないのか、格子戸の中からもう一度か細い声が聞こえてきた。
「もし、そこを行く方」
 周りをきょろと見回すが、そこにいるのは己しかおらず、書生は自分に声が向けられているのだということに息を呑む。
「わ、私ですか」
 雨のせいなのか、それとも興奮によってなのか書生の声は震えた。
「ええ、貴方です。このようなお願いをされては、ご迷惑だというのは重々承知しているのですが、私は雷が恐ろしいのです。今、この家には私一人しかおらず、この雷雨が過ぎ去る間、どなたかとご一緒して、この恐ろしさから少しでも楽になりたいのです。どうか、どうかご迷惑だというのは承知しておりますが、この雨が、雷が止むまで、この家で雨宿りをなさっては下さいませんか」
 腕の主は、震える声でそう訴える。涙の混じる怯えたその声に、書生が否と言うはずが無い。 
 書生は初めて、その家の中へと足を踏み入れた。

 

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