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むせ返るような花の匂いに目を覚ました。
知らない天井が僕を見下ろしている。
ここは……?
起き上がった僕の視界に映ったのは――赤。
血のように赤い花が、僕の周りを取り囲んでいた。
起こっている状況が分からなくて、ただ呆然とそれらを眺めていた。
毒々しいほどに赤い花。
この花がここにある理由も、なぜ僕がここにいるのかも分からなかった。
体も、頭の中もからっぽで。
そのからっぽの中を赤が支配していく。
真っ白の僕の全てを、赤が埋め尽くしていく。
赤い花。
赤い花。
赤い花。
僕を取り囲む赤い花。
不意に扉が開かれた。
驚いてそちらに目を向ける。
入ってきたのは、腰まである黒髪を靡かせ、白いワンピースを着た女性だった。
銀の盆を手に持っている。
彼女は、僕と目が合うとにっこりと微笑した。
「気がついたのね」
そう言うと、赤い花の中を一歩一歩、僕の方へと近づいてくる。
赤い花の中を、白いワンピースの女性が歩く。
赤と白。
それはとても美しい光景だった。
女性は僕の前までやってくると、ベッドの端に腰を下ろした。
銀の盆に載っている皿の中の液体が、たぷんと音をたてた。
それは真っ白いシーツの上に零れ落ち、小さく赤い染みを作った。
「気がついて良かったわ」
女性の細く長い指が、僕の頬へと伸ばされる。
真っ赤に塗られた爪が視界の隅に映った。
花と同じ色をした爪が。
僕は、女性の膝の上に載せられている盆の上の皿に目をやった。
そこには赤い液体があった。花と同じ色をした液体が。
これは何の液体なんだろうかと、僕はまじまじと見つめた。
すると、頬にあった手が、僕の顔を女性の方へと向けさせた。
首の骨がこきんと鳴る。
唐突に、女性は尋ねた。真っ赤な艶のある唇を、丁寧に動かして。
「アネモネってご存知?」
僕は首を振った。聞いたこともない。
「そう。ご存知ないの……」
そう言って唇を歪めた。
……笑った、のだろうか?
「アネモネは、ヴィーナスが愛した青年、アドニスの血から生み出された花。石榴のように、血のように赤い花」
唄うように呟く女性の言葉に、僕は周りを取り囲んでいる花たちに目をやった。
石榴のように、血のように赤い花――。
僕の目の前にある花たちの色は、まさにそれだった。
「この花はね、私の愛する人が贈ってくれた花なの。あの人は今、遠い所にいるのだけれど、帰ってきた時にこの部屋いっぱいにアネモネが咲いていたら結婚しようって言ってくれたのよ。だから私は、この花を枯らさないように毎日毎日気をつけているの」
外見からは考えられないような無邪気な微笑を女性は浮かべた。少女のように頬を紅潮させている。
「お水をあげる時間や日光にあてる時間。いろいろなことに注意しているわ。特に肥料には気をつけているのよ。見ていて」
そう言うと、女性はアネモネを一つ花弁からむしり取った。
そして、そこに皿の中の液体を垂らす。皿の端に指をあてて。
液体は、女性の指を濡らし、茎へと落ちていく。女性は、指に付いた液体を真っ赤な舌で舐め取った。
僕の背中を、ぞくりと何かが駆け上っていく。
「見てちょうだい」
女性の指した方を見ると、花弁をむしり取られた筈のアネモネに、先刻と同じように花がついていた。
血のように赤い花がついていた。
けれど、先刻よりもどこかどす黒くなっていた。人間の血の色に、より近くなっていた。
「不思議でしょう。この肥料は特別なの。素晴らしいでしょう。でも、この肥料は取るものによって一つ一つ色が変わってしまうの。気に入った色が出ても、すぐにその肥料はなくなってしまうわ」
女性は、悲しげに嘆息する。
「これも良い色が出ているのだけれど、もうなくなってしまったの。このお皿で最後。でも、もう少し赤い方が良いと思わない?もっともっと赤い方が……」
女性は、僕の耳元でそう囁いた。
何事かを叫ぼうとした時、僕の目の端に真っ赤なものが映った。
綺麗な紅色の――水?
首筋が、燃えるように熱い。
紅色の水が、女性の白いワンピースを赤く染め替えていた。
そして、女性は満足そうに唇を歪めた。
次に僕の視界を支配したのは、漆黒の闇だった。
赤い花。
赤い花。
赤い花。
僕の血で咲く赤い花。
あの中のどの花より、美しく赤く咲いてくれているだろうか……。
<了>
花言葉:期待、はかない夢、薄れゆく希望、君を愛す