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なにかが始まる、そんな予感を彼女は感じていた。

猛暑も終わりかけた、夏。だんだんと新緑は薄まり、炎のような赤が芽生え始める頃。
月明かりに照らされながら、暗闇に炎を宿す髪色をもつ女性ー市は静かに森を見つめていた。


『徳川の狸も、必死ね。』


ポツリとこぼすのは嫌みに似たなにかだ。
背後では三好青海入道ー紫の数珠を肩から下げる小太りの破戒僧ーと己の遣えている主である真田信繁ー茶色の髪に赤い羽織を羽織る年より幾分若く見える男ーが酒盛りをしている。この九度山に隔離され、信繁が隠居をよぎなくされた東と西を分けた大戦、関ヶ原の戦いより14年。各地に散らばる真田の重臣たちからの手紙を信繁から預かり頭のなかに叩き込んだ情報を消化して、先の言葉を放つ。

天下二分の関ヶ原で大敗をきし、徳川の世となった今でも、秀吉の忘れ形見である秀頼とともに天下を再度豊臣にと考えている武将がすくなくない。それは信繁とて同じだった。


「市さん、あまり考えこむと変な熱を出しますよ」
『あらやだ、小助さんは私をどれだけ幼子だと思っているの?知恵熱は幼子が起こすものよ』


考え込んでいる彼女に声をかけたのは穴山小助ー眼鏡をかけた色素の薄い髪をもつ優男ーだ。家計を預かっている身であるゆえ、そろそろ二人の酒盛りを止めようとやって来たのだろう。そこに考え込んでいる彼女を見つけて声をかけたわけだ。彼の言葉にくすくすと笑って、『少し散歩してくるわ』と告げてその場を去る。

ここは暖かい場所だ。ほんの数年前まで先代、真田昌幸と彼の腹心も存命していたが、とある事件で命を落とした。思い出すだけで、頭が痛くなる。自分の腕が戦いに使い物にならなくなったのもその事件のせい。


女の1人歩きは危ないとちょくちょくいう男もいなければ静かに向かうのは形だけの墓。
重臣の骨は埋まっているが先代の骨は埋まっていない形だけの場所。


『昌幸様、嵐の前の静けさ、というやつですかね』


彼女を快く引き受けてくれたのは彼だった。父親のように甘えていた記憶もある。
それでも守りきれなかったのだ。守ってはいけなかったのだ。すべては、彼の心のままに、


「そうですね、」


一人できたつもりではあったのに、背後からかけられる声と肩にかけられた羽織の暖かさに苦笑いがこぼれてしまう。『少し散歩していただけよ?』とわるびれもなく言った彼女に、現れた筧十蔵ー月のような淡い金色の髪をもつ青年ーは目を細めた。


「こんな夜中に、奇襲でもあったらどうするんですか。」
『信繁様のところには小助さんも青海さんも佐助もいるし、貴方もいるわ。』
「あなた1人では満足に戦えないでしょう?」
『失礼ね。みんな厳しすぎるだけじゃない。戦えるわよ』


彼女の太ももにはこの時代には珍しい小銃が二丁携えられている。装束によって隠れて見えないが緊急用の弾薬も袖の根本に潜ませさっそく武装はしているのだが、彼女は銃を使うことをあの日以来禁じられていた。


『焼け落ちようと、私の体よ。それは十蔵。一番私の使い時をわかっているあなたなら理解してくれているでしょう?』


月明かりに照らされて市の顔が妖艶に笑みをつくる。翡翠の瞳が細められれば十蔵はため息をつくしかない


「それでも、緊急時以外は使わない約束です。たかが裏柳生にくれてやるつもりもないでしょう?」
『使ったとてくれてやるつもりもないけどね』
「まったく…ほら、帰りますよ。」


病弱というわけではない。ただ乱発する小銃は彼女を身を焦がす。それを同じ銃をつかう彼がよしとしないだけだ。
守るための武器で己を傷つけては元も子もないのだが、彼女がそれを使い続けるのは申し子だからとしかいいようがないだろう。

さりげなく右腕をかばう彼女の肩を抱いてもときた道をあるきだした。



まだ、始まらない。



翡翠の瞳も、美しいダークブルーの瞳もまだ知らない



戦乱の世がもうすぐやってくる。



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