氷の頬




男と会う約束をした。
ここだけの話、あの馴れ馴れしい滑稽な男でも、仕事続きの日常の合間にほんの少し、それくらいなら彼のために時間を割いてみるのも悪くないような気がしたのである。
しかしいざ約束の日が訪れてみると、数日前の自分が抱いたその甘い考え自体が酷く馬鹿げているように思えてきた。
いや、正直なところ少し怖くもあったのだ。
あの間抜けな能天気は少なからず俺のペースを崩す。
気がかりはさっそく仕事に支障をきたし始めた。デスクワークの傍ら何度か携帯電話を手にとってみたものの、断るのに使える気の利いた言い訳も思いつかずに元に戻すといったことが続いた。集中力をかき、自然と能率が落ちていく。
そうこうしているうちに定時を過ぎ、さて今から向かっても待ち合わせの時間に間に合わないだろうと分かった瞬間、ホッとしてしまっている自分がいて。
俺はようやく携帯を開き、“悪いが仕事が長引いていけそうにない”といった内容の簡素なメールを打ち込んだ。
結局事務所を出たのは八時をいくらか過ぎてからだった。
すっかり日が落ちて外の空気は肌寒く、天気は夕刻までと一転してしとしとと雨が降り始めていた。
傘を持参していなかった俺は近くのコンビニエンスストアでビニール傘を買い、オフィスビルの立ち並ぶ通りを心ばかり急ぎ足で目的地へと向かう。
どうせ今頃待ち合わせ場所着いても相手がいるはずがないと分かっていたからそんなことができたのかもしれない。
ドジなくせに格好ばかりつけたがる、コアなレジェンドファンの、子供みたいな現役ヒーロー。お調子者で誰にでも気安くて、そのくせ自分のことにはてんで後ろ向きなあの男が俺は少し苦手だった。暗がりで生きてきた自分に比べ、彼はあまりにも純粋すぎた。
十月も中頃を過ぎれば夜風が冷たく感じられた。俺は軽くコートの襟を掻き合わせ、まばらに落ちたメイプルの葉を踏みしめながら、ビルの角を曲がり広場へ続く階段を上る。
綺麗にライトアップされた忌々しいレジェンド像の噴水が近付いてきた。
俺は植え込みの陰にちらほら見えるベンチにキョロキョロと視線を走らせ、白い帽子の男を探したが、やはり姿はなかった。
およそ待ちくたびれて帰ってしまったのだろう。
俺は明るい広場にくるりと背を向け、来た道を戻ろうとした。

「――よっ」

――驚いた。振り返ったその先に立っていたのは紛れもないあの男だった。
俺はあんぐりと口を開け、バッグやパンツの裾を雨で濡らした彼をまじまじと見た。

「もしかして、待っていたんですか?……ずっと?」
「ん?まぁそんなに待ってないけど。ほれ、その辺でちょっと寄り道とかしてたしよ」

虎徹は若干バツが悪そうにぽりぽりと顎を掻きながらへらりと笑った。

「そう…ですか」
「おう!」

俺はコツン、と靴底を鳴らして虎徹に一歩近づいた。水滴をたっぷりつけたビニール傘が彼の黒い傘と重なった。

「――嘘が下手ですね」
「へっ?」
「こんなに冷たくなってるのに」

雨の中を長時間屋外で過ごしたあろう虎徹の頬は寒気と湿気ですっかりに冷え切って、まるで氷のようだった。しおらしく人を待つだけのためにこんなになるまで耐えてしまうなんて、この男はやっぱりよく分からない。
――分からないけれど、彼を見ていると胸の中が申し訳なさでいっぱいになった。





「遅くなって、ごめんなさい」

濡れて冷たくなった虎徹の手をそっと握りしめると、ぎゅっと握り返してくれた。
ただそれだけのことなのに何故だか胸が熱くなって、涙が溢れそうだった。





20110820
the moon」様へ



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