島津の盾は憧れの人


俺は兄弟と従兄弟たちが好きだ。
父にも母にも期待されず、城の者ですら俺に興味はない。誰にも見向き去れずにいた俺の手を引っ張って、知らない世界に連れ出してくれた。
俺にとって、一等大事な人たちだ。
そして最近、また一人特別な人ができた。

「ナマエ様」

誰よりも優しくて強くて格好いい、俺の叔父上は憧れの人だ。
いや、誰より優しいというのは少し疑問符が残る。出会った当初は追い出されたし、家に入れてくれなかったし。
けれど最近は変な顔をしながらも上げてくれるのだからやっぱり優しい人なんだと思う。
俺も、兄弟たちもナマエ様の事が大好きだ。



ふと秋弘が本から顔を上げると、その賑やかな話し声はすぐそこまで迫っていた。
この静かな部屋にいると遠くからでも物音がよく聞こえるというのに、今日は自分でも驚く程読書に集中していたようだ。
本来であれば集中が乱された事に多少なりとも苛立ちを覚えるが、今回はむしろ早く気づきたかった。

障子越しに見えた凸凹の人影がこの部屋の前で止まると、呼び声よりも先にスパンと凄まじい音を立てて左右に開く。

「秋弘、邪魔するぞ」

そのど真ん中に立つ人は逆光で顔には影がかかっていたが、秋弘には顔を見ずとも誰だか分かる。

「兄上!」

いつでも彼らの、自分達の先頭を歩くのは春久と決まっている。「おれたちもいるよ」それから陽気な調子で春久の影からひょっこりと夏樹が現れたのを皮切りに、兄弟たち全員が次々と顔をのぞかせた。

調子のいい夏樹と双子がしゃべりだすと、春久や冬家がなだめすかす。
葉の落ちる音でさえ拾えてしまいそうだった、恐ろしいまでの無音が一転して今度は嵐のような騒ぎようだ。
一見うるさいやりとりだったが、秋弘はこの賑やかさが大好きだった。
紙の上の物語をなぞるより、兄弟たちと一緒にいる事の方がよっぽど楽しくて、ワクワクする。本をすぐ様放り出して、秋弘もすぐに兄弟たちの輪に加わる。

「近侍はどうしたんですか?」
「撒いてやった。あいつらチョロいよなぁ」

双子が顔を見合わせて悪戯っぽく笑った。
大の大人が子ども相手にあたふたするのが時雨は特に面白いらしい。「今頃必死こいて探してるだろうよ」とニヤリと口角を持ち上げてみせる。

事実、開けっ放しの障子の向こうからは薄らと大人の叫び声のようなものが聞こえてきた。
おそらく春久達の住む部屋の方だ。
彼らには多くの近侍や女中がいて、少しでも姿が見えぬとなれば大騒ぎだ。

それもそのはずだろう。
島津の跡取りは春久が最有力候補だ。夏樹や双子、冬家に関しても同じ一族の人間として大事にされている。子どもでも分かる話だ。
秋弘には近侍はいても他人行儀だし、探してくれる人もいない。
それはもう慣れてしまったし、だからこそこの部屋に兄弟たちがいれば絶対に見つからないのだから秋弘にとっても兄弟たちにとっても好都合なのだ。

「今日はどちらに?」
「どちらにって決まってるじゃん。いつもの場所だよ。秋弘も行きたいでしょ」
「はい。もちろん」

まるで暗号のようなやりとりだ。
今ここにいる6人の間では、最早いつもの場所と言わずとも行先は決まっているようなものなのだけれど。

「ほら、秋弘もそう言ってるし今の内に行こうよ兄上!」
「うーん。最近頻繁に行き過ぎな気もするんだが……」
「もう今更じゃない」

ほらほら行こう、と急かす夏樹に背を押されるように秋弘と兄弟達は颯爽と部屋から逃げ出した。
双子、冬家も続き、これでいつもの島津兄弟が揃う。
この6人なら怖いものなしだ。
とは言えバレては元も子もない。部屋を空っぽにした彼らは、見つかるはずはないと思っていも警戒は怠らない。周囲に気を配りながらコソコソと盗人よろしく隠れながら城を抜け出した。

城から少し離れた場所にある閑静な地域。
その中にある小さな屋敷が、叔父であるナマエの家だった。
緑の垣根に囲われた落ち着いた屋敷は最初こそナマエの目を掻い潜るために庭や裏口から勝手に侵入したものだが、今は素直に正面突破だ。

「こーんにちはー」

間延びした夏樹の大声とあわせて玄関の呼び鈴を鳴らして少し待つ。
すると面倒くさそうなナマエか、部下のトモダチが扉を開けてくれるようになった。

「毎回その大声やめろって言ってんだろ」

今日はナマエが欠伸をしながら出てくれた。
大きく襟元を乱したままアクビをする様はあきらかに居眠りをしていたのだろう。
隠しもせずに目尻に薄ら涙を浮かべて玄関に並んだ兄弟たちをじろりと見下ろしてくる。
その時何故かドキリとしたのは秋弘だけの秘密である。

「だって呼び鈴だけじゃ開けてくれないじゃん!」
「そりゃ居留守するからな」
「ずるい!」

ぽかすか叩く夏樹をいなすナマエは最早諦めているのだろう。
扉も閉めずに気だるげな足取りで戻っていく。
春久達は「お邪魔します」と律儀に言いつつも、もはや勝手知ったる家のように屋敷に上がり込んだ。
ナマエの代わりに鍵を閉め、廊下を渡って庭で再集合する。今日は庭で剣の稽古だ。

「なんでこれをわざわざ人ん家でやるんだ」
「城の者に聞くよりナマエ様に聞いたほうが分かりやすいんです」

秋弘が振り返ると、縁側で横になっていたナマエがため息をついた。

「俺ん家は道場じゃねぇんだよ」

そう言いながら追い出す素振りはない。
彼が優しいのか甘いのか、それ以上に諦めが早いのかもしれない。
初日こそ追い出されたものの兄弟たちが毎回日を改めてくると分かるや否や鬼鉄刀で追い出されることはなくなった。あの緑の輝きが見れないのは少し残念だけど、こうして一緒にいられる方が素直に嬉しい。
竹刀を振るう手にも力が入る。

するとおもむろに衣擦れの音がした。
ナマエが立ち上がり、縁側から庭に降りてくる。
そして竹刀を一生懸命振る、もはやぶん回していた夏樹の背後に立つと、手ごと竹刀を握り込んだ。「体がブレすぎだ」一度、二度一緒に振って、すぐ隣で同じように素振りをしていた時雨や忠雪にも一言二言口を出す。
やっぱり教えるのがうまい。
秋弘は視線でその姿を追いながらも竹刀で風を切った。
きっとだらけたフリをしながらも人をよく見ているせいだろう。練習をしていれば視線だけはこちらを向いていて、細かい癖や一瞬の気の緩みすら見られている。最後には見かねて口を出してくるのだ。
一人でこの屋敷にこっそり通い詰めている秋弘には他の兄弟たちよりも顕著に分かる。その事にほんの少し愉悦を感じて、今度は下した竹刀の矛先が定まらない。

「おい秋弘」
「!はいっ」
「何ぼーっとしてるんだ?集中しろ」

突然の指摘に思わず肩が跳ねる。
顔を上げると少し眉間に皺を寄せたナマエと目があった。
いつの間に隣に、と一瞬戸惑ったがどうやら順番に助言をしているらしい。
次は自分の番だった。

「すみません」

集中、集中。念じてもナマエに見られていると思うと気持ちが落ち着かない。
雑念を振り払うように何度か竹刀を振るう。
隣に立ったナマエは動かないままだ。
何か言われるのだろうか。内心ドキドキしながらそっと様子を伺う。
ナマエはいつもやる気の感じられない、気だるげな顔をしている。さっきもそうだ。けれど前髪の隙間から盗み見た顔はほんの少し、微笑んでいるように見えた。
言葉がなくてもその微笑みだけでも十分だ。
そう思ったのに、代わりにぽんと頭に触れた大きな手が触れた。瞬間、胸に温かい何かがあふれた気がした。
体がふわふわと心地よい何かに包まれたような。今まで感じたことのない、不思議な気持ちだった。

(なんだろう、これ)

ナマエがすぐに離れていってしまったから、これが一体何なのか確かめようがないのだけれど。
空いた手で自分の頭を同じように触ってみても、同じようなあたたかさは感じられなかった。
代わりにナマエの微笑みが脳裏に鮮明に蘇って、今度はじっとしていられなくて、そこらじゅうを跳ね回りたくなる。
ナマエの笑顔がもっと見てみたい。もっと触れられてみたい。そうしたらこれが何か分かる日が来るのだろうか。

「ナマエ様、そろそろ休憩されてはいかがですか」

竹刀片手に秋弘が一人考え込んでいると、縁側から見覚えのある声が聞こえてきた。

盆を持ったトモダチは唯一この屋敷を出入りしているナマエの部下である。
ふんわりとした優しい雰囲気で、子どもには優しいがナマエを時々容赦なく叩き起こしたりしている。

彼が持った盆の上には遠目からでも分かるような色とりどりの和菓子と茶碗が載っていて、夏樹たちの目がキラリと輝いた。
トモダチが用意するお茶とお菓子は城で出てくるものに勝るとも劣らない逸品なのだ。
その兄弟たちの様子をナマエが見逃すはずもなく、わざとらしくあぁと疲れたような声を出した。

「そうだな。うん、休憩は大事だ」
「いや、ナマエ様さっきまで縁側で寝てんぐ「時雨っ」

失言しかけた時雨の口をすぐさま夏樹が手でふさぐ。

「何すんだよっ」
「いいか時雨。口出しは無用だ」

春久が声を落とす。自然と6人の声も密やかなものになった。

「余計な事言ったらまた追い出されますよ」
「それに俺たちだってそろそろ疲れたしお菓子食べたーい」

例えナマエがいつ何時面倒くさがってサボっていても、それを正直に言わなくていい時もあるのだ。
顔を突き合わせた6人は無言で頷きあい、早々に練習を切り上げた。

長い縁側に一列に並んで腰かけると、皆一斉に用意された甘味に飛びついた。
秋弘がちゃっかりナマエの隣を陣取っても、皆目の前のおやつに夢中でどうでもいいようだった。

今日のおやつは大きな饅頭らしい。
手のひらくらい大きなそれは、口を大きく開けて一口かぶりついてもまだまだ余りある。
訓練後の身体に染み込む甘さを味わっていると、ふっと気が緩むのが自分でも分かった。
それは皆も同じらしい。
隣で甘い菓子をいっぱいに頬張った夏樹が喋り、それを行儀が悪いと春久が怒る。さらにその隣では時雨と忠雪は勢いよく食べ終えて、わずかに咽ていた。
冬家がお茶を用意して事なきを得たようだったが、この短時間でこの騒がしさ。

ナマエは迷惑じゃないだろうかと振り返ると、ナマエは茶を啜りながらぼんやり庭を眺めていた。
長い睫毛を伏せた横顔は柔らかな日の光に照らされて、壁一枚を隔てた別世界の神聖なもののように思える。
実際は神聖なものとはかけ離れて、「なんだよ」と訝し気にこちらを向くのだけれど。

「いえ、あの。ナマエ様、一口食べますか?」

ただ貴方を見つめていました、などとはとても言えない。
誤魔化すように慌てて饅頭を差し出すと、「ん?」と穏やかな相槌が聞こえた。

「あの、饅頭の数が俺たちの分しかないので」
「そりゃトモダチが最初から俺を頭数に入れてないからだろ。あいつ俺の世話じゃ飽き足らずお前たちに食わせるのを楽しみにしてやがる」
「そうなんですか」
「だから余計な気を回さなくていい」

それはなんだかんだ言いながら面倒を見てくれる、上司に似ているんじゃないだろうか。
トモダチの方が分かりやすいだけだ。
根っからの世話焼きらしい今日は今も兄弟たちのお茶を注いでニコニコと見守っている。

剣術を教える、お茶を入れる。
同じ事をしているのに、城の近侍とは大違いだ。秋弘はいいなぁ、と思えた。
この人たちとの時間がずっと続けばいいのに。

「トモダチ、茶」
「私はお茶じゃあないんですけどね」

軽口を叩かれてもトモダチはさして気にも留めず、こちらにやってくるとナマエと秋弘の湯呑に茶をそそぐ。
ほわんと広がるお茶の香りはこの家によく似合う。

「ナマエ様が鍛錬場にいるというだけでも私は泣きそうですよ」
「お前の感動の程度は低いな」
「貴方のせいでしょう。ところで……」

トモダチはそこで言葉を区切ると、そっと口元を手で隠してナマエに耳打ちをした。
途端にナマエはほんの少し目を開く。けれどすぐに普段の、いや普段より機嫌の悪そうな表情になった。
すぐ傍で見ていなかったら気づけなかっただろう、些細な変化だった。

「よし、しばらく休憩。いいか、俺は疲れたから寝る。お前たちもここで思う存分ゴロゴロしてろ」
「はーい」

ゆっくりと立ち上がったナマエは夏樹の返事を聞く前に歩き出した。
それに付き従うようにトモダチも足音を立てず静かに消える。

残された秋弘たちは残念そうな顔を見合わせると、またお茶と菓子に食らいつく。
だが大人しくしていたのはものの五分で、満腹になった兄弟たちは早々にそわそわしていた。

「ねぇ、こんな時間から普通寝る?」

唇を尖らせた夏樹が、ジロリとナマエたちの消えた廊下を睨みつける。

「ナマエさまは昼寝はするけどわざわざ宣言して寝ないとおもいます」

続いて冬家が言うと、5人はうぅんと腕を組んで頭を捻る。「けどナマエ様だからなぁ……」時雨がぽつりと呟いた言葉には、皆すぐに頷いた。
ナマエならありえる。隙あらばゴロゴロしようとする人だ。
時々お茶を飲みながら寝ている時もある。
けれど今日ばかりは違うと秋弘はおずおずと挙手をした。

「でも、あの。さっきトモダチさんがナマエ様に何か耳打ちしてましたよ」
「何かあったのか?」

春久が険しい顔になって顎に手をやる。

「仕事の事じゃないですか?ナマエ様もトモダチさんも島津武士団の武士なんですから」
「じゃあ俺達が聞いてもよくない?なんでわざわざ嘘つくんだよ」

納得いかないと夏樹の顔にはもうこれみよがしに書いてある。
今にも飛び掛かってきそうな勢いをそらすように秋弘はスッと視線をずらす。
先ほどから春久は眉間に皺をよせたままだ。

「…………俺たちには言えない事かも」
「俺たち子どもですからね」

もちろんナマエが急にいなくなったのが気にならない訳じゃない。
だってあのナマエがトモダチに何かを言われてすぐ動くなんてめったなことじゃないのだ。
けどわざわざここにいろと言うのだから、そうした方がいいのだろう。
秋弘は自分にそう言い聞かせた。

「子どもならちょっと冒険したっていいんじゃない?」

夏樹が元気よく答えると、冬家が少し困ったような顔をした。
こう言うと様子を伺っていた双子もそうだそうだと乗ってくるのが分かっていた。
双子じゃなくて本当は三つ子なんじゃないかと思える程息が合っている。

「春久様もちょっとは気になるんじゃないですか?」
「別にちょっとあっちに行くだけですよ。なんなら俺たちだけでも」

と言う二人はそわそわして落ち着かない。待てと言われて我慢できない犬のようだ。
放っておいたら今にも走っていきそうで、それを察した春久が双子の首根っこを掴む。

「待て待て。分かったから一旦落ち着け」
「じゃあ早く行こうよ!こっそりね!」
「夏樹が一番うるさいですよ」

と秋弘が言うと、夏樹がぶすくれるものだから春久がハァとため息をついて俯いた。
途端に皆黙って春久の様子を伺う。なんだかんだいって、いつでも行先を決めるのは長兄である春久なのだ。
春久が言うと自然と勇気湧いて、なんだってやれるような気がする。
その春久が「静かにだぞ、静かに。それですぐ戻る事」と仕方なさそうに頷いた。

**

城をするりと抜け出す兄弟たちなのだから、忍び足は得意技だ。
お互い無言で目をあわせてから、音を立てないように極めて静かに渡り廊下を渡る。
そして玄関に近づくと、小さいながらに話声が聞こえてきた。
ナマエとトモダチと見知らぬ声色。
平坦なように聞こえるけれど、どこか刺々した含みを感じる声色に秋弘は不穏な緊張を感じた。
城にいる大人たちの、遠くから洩れ聞こえるひそひそした話声に似ている。
なんだか嫌な感じ、と胸の内で呟きながら玄関手前の曲がり角で足を止めた。
兄弟たちはそれぞれ立ったりしゃがんだりして、音源である玄関をそうっと覗き込む。

そこには玄関前に立ちふさがるナマエとトモダチがいた。
それからナマエの背中越しに、大柄な武士が五、六人ずらりと並んでいる。
秋弘は顔を見てもいまいちピンとこなかったが、この領内の武士は総じて島津の武士である。
つまりは城に勤める人間だ。
案の定「あっ」と夏樹が小さく声をあげた。

「あいつら追いかけてきたんだ!」
「誰ですか?」
「俺のっていうか、俺達の教師だよ。剣の稽古とか、座学とか……」

あぁなるほど。秋弘はひとりごちる。城にいれば島津家の人間として教育を受ける。
その講師役の男たちがあの武士なのだろう。
秋弘と他の兄弟たちは何かと区別されがちで、そういった従者たちと秋弘とは時々顔を合わせる程度だった。
いかにも堅物で、面白くなさそうな顔ばかり。もちろん自分の教師とて偏屈な老人で大差がない。秋弘にとってはどちらも嫌な大人で一括りだ。

なんて面倒な奴らがいるんだ。顔を顰めると、双子が少し焦った声色で言った。

「どうする?俺達がここにいるのバレてるぞ」
「ナマエ様に突き出されるかも」
「いやちょっと待て。様子を見よう」
「兄上?」
「突き出されるならもうとっくのとうに家の中にやつらを入れてるだろう。けど様子がおかしい」

よく見ると、いつも気だるげなナマエが珍しく堂々とした振る舞いになっている。

「……何かあったんですかね」

冬家の言葉に、秋弘も小さく首を傾げた。
この家主であるナマエが腕を組んでふんぞり返っているのはまだしも、地位の低い武士たちが苛立ちをどうにか抑えた顔で玄関に詰めているなど異様そのものだ。
しかもそのうちのひとりが、まるで親の仇でも見るような目つきでナマエを見据えているではないか。

(ナマエ様何を言ったんだ?)

あんな怖い顔で睨まれたらびっくりして動けなくなってしまいそうだ。
けれどナマエは気圧されるどころか、「はぁ」とわざとらしい大きなため息をついた。

「で、俺としては用事が終わったなら帰って欲しいんだが」
「いえ。承諾していただけるまで我々は帰りません。今後は若君たちには関わらないでいただいきたい」

えっ、と声が出そうになって慌てて声をひっこめた。

「数日様子を見させていただきましたが、剣術などは本来城で学ぶべき事です。貴方のやり方を学んでしまえば若君たちの型が定まりませぬ」

あの人は何を言っているのだろう。秋弘は目を丸くして男を見やる。
剣を教えてくれるのは俺たちが教えてくれと言ったからだし、この家に入ってくるのも自分たちが半ば押し掛けるからだ。
関わるも何も、勝手にナマエ様を責めるのは筋違いだろう。
そう思っていると、ナマエは小首を傾げる。
背中に流れた長く艶やかな一束の黒髪がゆらりと揺れた。

「型も何も俺も同じ島津なんだから流派は同じだろうが」
「そっそれはそうですが、しかし」
「それに俺の目には俺が教えた後の方が上達してるように思うが。前より明らかに剣さばきが良くなっただろ?」

まぁまだまだ使い物にはなりゃしないが、とナマエが笑いながら言う。
最後の一言が聞こえても、秋弘の頭の中では同じ場所がリフレインしていた。
前より上達している。剣さばきが良くなっている。それは自分の事だけではないかもしれないけれど、秋弘にとっては自分の事のように思えた。
稽古で自分にだけ何も指導の言葉がなかったのは、ナマエから見ても上達していたからかもしれない。

(やっぱり俺たちの事ちゃんと見てくれてたんだ……)

褒められると、もっと認められるように頑張りたいと思う。
けれど認めて欲しいのはナマエと兄弟たちであって、城の教師たちではないのだ。

「なんですって?」
「それに自慢じゃあないが俺は座学も大得意だ。お前らより賢い自信がある。剣術も座学も俺が教える方がうまくいくと思うんだが。あぁでもそれじゃあお前たちはお役御免だな」

ナマエの声に笑いが混じる。その声に呼応するようにトモダチもわずかにくすくすと笑い声をもらすのだから、男たちはいよいよ怒りを抑えきれなくなってきたようだった。

「わ、若君たちの教育に口を出さないでいただきたい!」
「口を出さざるを得ないだろ」

背筋がヒヤリとするような冷たい声色だった。

「お前たちは教育係と言ってはいるが、護衛も兼ねてるだろう。なのにあいつらに出し抜かれて、教育も護衛もあったもんじゃない。大方子どもの頃から自分の傍に置いて影響力を高めておきたいとかそんな事考えてんだろ、顔に出てるぞ」

つらつらと並べ立てられた言葉はあながち外れてはいないらしい。
男たちがぐっと言葉に詰まったのが見える。図星をつかれた顔だった。顔を真っ赤にして口をわなわなと震わせて、次の言葉を探している。
大の大人がいくつも年下の男に言い負かされているのは見ていて気持ちがいいくらいだった。

「あいつらに余計な事吹き込んで見ろ。俺が直々に叩き切ってやるからな」
「ナマエ様」
「事実だ事実。子どもの内から取り入ろうとする奴は多いんだぞ」

うんざり、とその背中には書いてあるようだ。トモダチが視界の端でやれやれと額を抑えている。それでも止めないあたり、トモダチも同じ事を考えているのだろう。

「そうですけど。ちょっと口が悪いですよ」

小さく注意されると、ナマエは一瞬だけ振り向いてから「これのどこが悪いってんだ」と小さく悪態をつく。
トモダチがいるとナマエは少し子供っぽくて、秋弘はさらに親近感を覚えた。

「とにかく。とやかく言われる筋合いはないね。ここは俺の家だからな。俺は好きにやらせてもらう」

ナマエの迫力に負けたのか、男たちもそれ以上は何も言えずに黙ってしまった。
怨みをぶつけるような睨みがやり場をなくして、ナマエの顔からスッと逸らされる。そしてそれは何気なく、柱に隠れていた秋弘とばっちり合致してしまった。

「若君!」

しまった見つかった。
ナマエの肩越しに、男たちがこちらに向かってこようとしているのが見えて秋弘は慌てて顔をひっこめた。
見つかったなら連れ帰られるに違いない。そして間違いなく怒られる。
兄弟たちは「どうする?」と諦め半分の顔をしながら柱から様子を伺っている。
秋弘も再びそろりと様子を伺うと男たちはいまだ玄関で足止めを食らっていた。

ナマエはわざとらしく片手を壁について寄りかかっている。
まるで入るなと言わんばかりのポーズだ。
仮にもナマエが島津家の人間だからだろう。これ以上強く出られないらしい男たちはそれ以上は入るつもりはないようだった。

「若君、迎えに参りました。ささ、帰りますぞ!」

必死な形相が恐ろしい。夏樹が一歩後退した。

「でも……」
「まだ少しいいでしょう。今日はもう予定はないはずだし、ナマエ様と戦術を練っている最中です」

秋弘だってこんな連中と帰るなんて嫌だ。
夏樹を後ろに庇い、緩やかに首を振る。
一番声の大きな男の額に青筋が浮かんだような気もするが、それなら尚更帰りたくない。

「秋弘様、しかしですねぇ」
「おーおー終わったら俺が城まで送ってやるからお前らは返っていいぞ。むしろ帰れ」
「しかしっ」
「お前らより俺の方が強いんだから帰り道も安全だぞ。理にかなってるだろ?」

そう言ったナマエは「じゃあな」と気の抜けた挨拶と共に男たちの肩を押しやる。
反論など最初から聞く気もなさそうだった。
全員を玄関の外まで追い出して、すぐにぴしゃりと戸を閉めてしまった。

しばらく男たちは玄関の前で何かを言い合っていたが、やがて諦めたらしい。
人影も見えなくなった。
おそらくは城に戻ったのだろう。
家の近くにいればナマエが気づいて容赦なく追い出すはずだ。

「言っちまったし、適当に時間潰したら城まで送ってやる」

静かになった玄関に背を向けて、振り返ったナマエは呆れかえった様子だった。
普段面倒くさがってばかりのナマエが、あんな話をするなどさぞ嫌だった事だろう。
それでもあの男たちに引き渡さずにいてくれた事が、例え自分のためだったとしても秋弘たちにとっては嬉しくて仕方がなかった。

「城にくるの!?それなら泊まって俺たちと一緒にねよ!」
「やだよ。寝首かかれたくねぇ」

一気にだらりとした雰囲気を帯びたナマエに向けられる夏樹や双子たちの視線は興奮と歓喜でキラキラしている。
まるで憧れの、英雄でも見ているみたいだ。
もちろん秋弘もそんな兄弟たちの一人だった。
自分もナマエの近くにいきたい。それからお礼と、これからも剣術を教えて欲しいと言いたい。
だけど我さきにと兄弟たちを差し置いて自分が喋るのはどうなんだろうか。
行きたい、けど。ゆらゆら揺れる黒い尻尾をそわそわした気持ちでじっと見つめてしまう。

すると、まるで念が通じたようにくるりとナマエが振り返った。「秋弘、どうした」この人は本当は読心術でも使えるんじゃないだろうか。
うまく言葉にできない時、一人でいる時、いつも必ず見つけ出して名前を呼んでくれる。
秋弘はナマエの横に並んで、いつまでも見つめられる美しい顔を見上げた。

「あの、さっきはありがとうございました。嘘言ったのに、俺」
「あぁ。戦術の話な。気にすんな。あいつらはお前らの言葉がなきゃ帰らなかっただろうよ」
「それで、えっと、あの」

秋弘はつい口ごもった。言いたかった言葉がうまく出てこない。
ナマエは不思議そうに首を傾げている。早く言わないとまた歩き出してしまいそうだ。

「その、俺やっぱりナマエ様に稽古をつけてほしいです。それから戦術も、教えてほしいです。魂色が違くても、これなら問題ないでしょう?」

ナマエはトモダチとんとした表情で、すぐかすかに片眉をあげた。
嫌そうな顔をするのは想定済みだ。
何も素直にナマエがうんと頷くとは思ってもいない。むしろ承諾する方が驚く。それはそれとしてやっぱり落胆はしてしまうのだけれど。
しょんぼりと肩を落とした秋弘はナマエが少し気まずそうに目を泳がせているのに気づかなかった。

「ねぇナマエ様。俺も教えて欲しい!本当に俺たちの先生になってよ」

夏樹がねぇねぇと服の裾を引っ張る。

「お前もかよ」
「お前もっていうか俺たちみーんなそうだと思うよ」

それを合図に再びナマエは歩き出した。とはいえゴールの縁側はすぐそこだ。
再び同じ場所に腰を下ろして、6人は期待のまなざしを一点に向ける。
ナマエは「あれはその場のノリだろ」と漏らしながら湯飲みに口をつけた。
時間がたったそれは冷めていたらしい。部下の名前を呼ぶ前に背後から手が伸びてきて冷めた湯飲みをひょいと持ち上げる。

「いいじゃないですか。それくらい。どうせ貴方暇でしょう」
「仮にも上司になんて言いぐさだよ」

兄弟たちの湯飲みも手早く回収して、トモダチは新しいお茶を配る。
文句を言いながらナマエは大人しく湯呑に手を伸ばしていた。

「貴方には役目があった方がいいんですよ。そうじゃないといつまでもぐうたらするでしょう」
「役目?こいつらのお守りが?」
「「お守りじゃなくて先生!」」

双子が絶妙なタイミングで被る。
ナマエとしてはどちらでも変わらないのだろう。渋い顔をしたまま、お茶を啜る音だけが聞こえる。
そうして気が済むまでお茶を飲んだ後、ナマエはふぅと温かな息をついた。

「考えてみたらお前ら結局どうせ押しかけてくるだろ」

たしかに。秋弘は心の中で頷いた。
ナマエには迷惑かもしれないけれど、いや迷惑に違いないけれど。秋弘はこの人を頼りたいと思ってしまう。
それに結局の所、ナマエは許してくれそうな気もするのだ。

「要約すると、先生になってもいいって事ですよ」

トモダチがふふっと笑う。

「本当!?」
「いや都合よく変換するんじゃない」

わーいと手を挙げて喜ぶ夏樹をナマエが咎める。
トモダチを真に受けて素直に喜びを表す弟たちの反面、何も言わない春久の様子を伺いみると、喜びと悩ましさが混ざり合ったような、なんとも複雑な顔をしていた。
春久は立派な人だから、きっとナマエ自身の事や城の講師たちの事を考えているに違いない。
ナマエも春久に気付いて「おや」と前のめりになる。

「そこに納得のいかなさそうなやつがいるが?」
「いえ。俺はその……教えて欲しいと思ってはいますが、ナマエ様のご迷惑になるような事は嫌です」
「そりゃ今更だな」

春久はうっと言葉を詰まらせて黙り込む。
なんとも気まずい空気に、シュンと落ち込んだのは兄弟全員だった。
勝手に押しかけているのは事実で、素直に受け入れられた訳じゃないのだ。半ば面倒くさがって放置しているナマエがダメと言って行動に移せばもうここには二度と来られなくなってしまう。それだけは嫌だ。
どうにかならないのだろうか、とナマエを懇願するように見上げるとナマエの目は珍しく真面目で、春久をじっと捉えている。
そしてすぐに脱力するように後ろ手をついた。

「あのな春久。お前子どもの癖に色々考えすぎじゃないか?子どもの内からそんなだと疲れるぞ」
「え?」
「子どもなんだから大人の事なんか気にせず好きにしたらいいだろ」

それは春久にとっては雷に打たれたような衝撃だったのだろう。
ポカンと口を開けて、呆然としている。秋弘も驚いた。
まさかナマエがそんな風に言うとは思わなかったからだ。

「それじゃあじゃあ遊びに来てもいいですか」

すぐさま秋弘が言った。

「おー……ん?」
「好きにさせてください」

兄である春久には息を抜く場所が、弟たちには自由になれる場所が、自分の声を聴いてくれる場所が必要なのだ。それは城ではなくここがいい。
ナマエの反論より早く、秋弘は縁側でぶらぶらと揺らしていた足を正座に変える。
「おい秋弘」
「先生、よろしくお願いします」
何かを頼むのに礼儀は必須だ。
縁側で深々と頭を下げる。やっと我に返った春久も両膝を揃えて深々と頭を下げた。

「俺からも、どうかお願い致します」

続いて夏樹、冬家、双子たちもぺこりと頭を垂れる。
さすがに黙って見ている事ができないらしいナマエがうんざりしたようにはぁと息を吐くのが聞こえた。

「おい、とりあえず分かったから頭あげろ。俺が悪い事してるみたいだろうが」

恐る恐る顔を上げると、ナマエは眉間に皺を寄せていた。
秋弘でもちょっと分かる。怒ったり、うんざりしている訳ではない。
ただ本当に少しの罪悪感を感じているだけなのだろう。
秋弘が小さく笑うのと同時に、早速とばかりに双子が言った。

「よし、じゃあ先生の許可ももらった事だし早速先生を交えて新しい戦術を考えようぜ!」
「俺たちの必殺技な!」
「先生の意見も聞きたいですね」

それはいい案だ。秋弘はすぐにうんうんと頷く。
必殺技でも連携技でも、基礎的な話だってなんだっていい。
兄弟たちと、ナマエとトモダチと膝を突き合わせて話すのはきっと楽しいに違いない。
兄弟たちと遊ぶ以上に胸が弾んで自然と笑顔がこぼれる。惜しみない期待と興奮の眼差しをナマエに向ける。
するとナマエは気難しい顔のまま「許可っていう許可を出した記憶がないんだが」と半ばあきらめ調子に呟いた。

「そもそもお前ら明日から城抜け出せないかもしれないんだから、まずはそれが課題だな」

その一言に6人が同時に渋柿を食べたような顔をしてしまったのは言うまでもない。
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