俺が何をしたって言うんだ 2


悪夢みたいな出来事があってから早数日。
独歩の日常は驚くまでにいつも通りだった。
朝は相変わらず満員電車に揉まれ、昼は一二三の弁当を食べ、夜は終電ギリギリの残業続き。その日常の一コマにすらあの夜の恐怖は感じられなかった。

てっきり怪しい黒服の二人組に命を狙われるだとか、そんな事を想定していたのだがとんだ杞憂だったらしい。
我ながらテレビの見過ぎかもしれない。
フッと自嘲気味に笑うと、隣の席に座っていた女子がドン引きした顔でこちらを見ていた。
とは言え警戒心がなくなったかと言えばそうでもなく。
独歩はいつにも増して早く仕事を片づけて、さっさと席を立った。

「お疲れさまです……!」

挨拶もそこそこにいつもよりは書類が減ったデスクから、会社そのものから逃げるように立ち去る。
早く出ねばハゲ課長に捕まって、またネチネチと嫌味を言われるのは目に見えているのだ。そして新しい仕事を押し付けられてしまう。

最早席にいなくとも、明日の朝には紙が一山増えているような気がするけれど今は知らんぷりだ。
歌舞伎町及び新宿は数ある区の中でも眠らない街として有名だが、それでも深夜となれば普段に比べれば人気は減るし、いたとしても水商売に酔っぱらい。
夢と現実が交錯するきらびやかな夜の世界である。
だがまだテレビ番組で言うゴールデンタイムの時間帯であれば夜の新宿は他と変わらない活気のある町だ。
人の目は多く、悪行もやりにくいに違いない。

(早く帰ろう)

家路につく人、飲みに繰り出す人。今夜の新宿もやかましい。
絡まる糸のようにぐちゃぐちゃになった人の流れの隙間を慣れた足取りですり抜けて、独歩は早足でマンションに向かう。
華やかな町に住んでいても独歩の生活はいたって質素堅実だ。
時折真横を通る馬鹿みたいに広い車線を走る車は新宿らしくどれも高級車ばかりなのに、自分は全く無縁の社畜生活。考えてもしょうがないとはいえ、ため息も出る。
今通り過ぎた黒塗りの車なんていくらするのだろう。
チカチカと赤いランプを点滅させて数メートル先に停車した車を独歩はうつろな眼をして眺めた。
運転席から下りてきた運転手はパリッと糊のきいたスーツを着こなしまさにドラマのような出で立ちだ。
白い手袋でドアを恭しく開ける様など惚れ惚れする。
何もかもが別世界過ぎて、通り過ぎる人々もまるで芸能人を見た時のようにチラチラと眺めて通り過ぎる。どうにも落ち着かない様子だ。
それはもちろん独歩も同じで、気にならないわけではない。

(よっぽど偉い人が乗ってるんだろうなぁ)

だからつい、ちょっとした出来心という奴で、通り過ぎざまチラッと車内を伺った事に深い意味などなかったのだ。
ただなんとなく、その偉そうな人がどんな人なのか見たかっただけなのに。
革張りのシートに長い脚を組んで座る、どこか偉そうな風貌。
それが見えた瞬間「アッ」と情けない声が漏れた。

「よぉ、今日はずいぶん早いお帰りだな」

頬杖をついて外を眺めていたその人が、ニヤリと嫌な笑みを浮かべて話しかけてくるものだから独歩の足はピタリと止まる。
それはあの夜蛍光灯の下で見た、危険人物そのものだった。
だが時と場所というものは印象に大きく影響を及ぼすのか、こうして対面してみるとただのエグゼクティブなスーパーサラリーマンのように見える。
ただ脳裏には一夜の最悪の思い出がよみがえり、心臓がズキズキと痛み出す。

(もしかして、もしかしなくても俺に話しかけてる!?)

両脇を振り返っても皆好奇心の眼差しを向けながらもそそくさと通り過ぎていくばかりで、独歩のように狼狽えた人は誰もいなかった。

「おい無視か?お前だよ観音坂独歩」
「アッ、えっ、おおおお俺ですか」

名前を知られている。
それだけでただでさえ悪い顔色がサッと蒼くなったのが自分でも分かった。

「そうだよ二度も言わせんな。ちょっと用事があるから面貸せよ」

男は独歩に向かってちょいと手招きをしてみせる。
何もおおっぴらに恐喝をされている訳ではない、むしろ中学生のカツアゲみたいな台詞だ。けれどどうしたって「来ないとどうなるか解ってるだろうな」なんて副音声も聞こえてくるのだから独歩の恐怖は煽られるばかりだ。
面を貸せなんて言われたら大体ろくな事はないのだ。
行きたくない。本当はものすごく行きたくない。
せめて人目がある今なら、今しか抵抗などできそうにない。
独歩はわずかな勇気を振り絞って声を出した。

「えっと……俺今日はやることが「明日にしろ」えぇっ」

あっさりと却下された。
却下された挙句、黙って見守っていた運転手に有無を言わない笑顔で背を押されて車内に押し込まれた。

「ちょ、ちょっと待ってください一体なんなんですか」
「訳なら後で説明してやるよ」

まともに抵抗らしい抵抗ができなかったのは推しに弱いという事もあるが、彼らはなまじ見た目がいいだけに、ここで騒いだ所で通行人からはこちらがおかしな人間に見られると思っていた。
そも独歩は一社会人ではあるが、一部には顔と名前が知られている。
変な所で騒ぎを起こしてチームに迷惑をかけるのは非常に不本意である。

(どうにかして平和にやりすごさないと……)

不本意にも乗ってしまった車内を改めて見回すと、タイヤの上だというのにそこはホテルのようだった。
車内には黒い革張りのコーナーソファがあり、その向かい側にはいくつもの細長いグラスやシャンパンのボトルが並んだ膝の高さ程のカウンターが備え付けられている。
薄暗い空気の中で輝く青白いライトと照らされたグラス、カウンターの側面についたシルバーの手摺の輝きが眩しい。
側面には横長に伸びた窓があり、ゆるやかに流れる新宿の景色を映し出す。
いつの間にか指定席に戻った運転手がアクセルを踏んでいたらしい。
エンジン音すらも静かで、変な所に感動してしまう。

「あの……この車はどこに行くんですか」
「どこにも行かない。ちょっとばかしここらをドライブするだけだ」
「そ、そうですか……」

広い車内だ。
いくらでも、どこにだって座れる程広い。
なのに独歩と男は二人並んで後方の座席に座っていた。
独歩は俯いたまま鞄を膝の上において、さらに拳を作った両手を揃える。典型的なガチガチに固まったポーズのまま動けない。
ここは男の領域なのだ。下手な動きはできない。
なにより男が気だるげにもたれかかってくるせいで、触れた端から思考が読み取られていそうで怖かった。

「そんなに固くなるなよ。用事なんて五分で終わる」

真横から突き刺さるような視線を感じて、ぎこちなく首を捻るとにっこりとした笑顔と目があった。
あの夜は恐ろしくていまいちよく分からなかったが、顔立ちは良いらしい。
綺麗な微笑みは絵に描いたようだが、度が過ぎると一気に胡散臭く感じる。
独歩はごくりと唾を飲んだ。

「じゃあその用事っていうのは一体なんなんですか」
「あぁ、今日はお前の写真を撮りにきた」
「は?」

意味が分からなくて、自然に素っ頓狂な声が飛び出した。
写真を撮るとはなんだ。いや、そもそもなんでそんな事をするために連れてこられているのか理解が追い付かない。
思い切り顔を顰めて、身体ごと男の方へ向き直る。
相変わらず男の笑顔は何か裏があるとしか思えないほどにこやかだ。だが、どこかのスイッチをオフにしたらしい男の微笑みは次の瞬間には静かに消えた。

「五分で終わりたかったら黙って言う事聞いとけ」

ガチャリと音がしたかと思えば片手に冷たい感覚がした。

「てててて手錠!?」

どこかに忍ばせていたのだろうか、忍び寄った男の手が素早く独歩の片手に手錠をかけてしまっていた。
もう片方の手錠を持ったまま男が立ち上がったせいで、独歩も釣られて立ち上がらざるを得ない。
引っ張られた腕が金具に擦れて思いのほか痛かった。

「逃げられるとは思わないが、抵抗されると鬱陶しいんだよ」

広いとは言え車内は数歩で移動ができる距離だ。
男は独歩を連れて一歩でカウンターの前にやってくると、手錠の鎖をカウンターの手摺にくぐらせる。
そして男が手錠を引っ張ると、独歩と手摺の距離は半ば無理やり縮まった。
立っていられず膝をつくと多少楽にはなるものの、彼を足元から見上げなければいけないのはひどく屈辱的だ。
床に着いた自由な手でぎゅっと拳を握る。
悔しい事に床すらもフワフワしていて、痛くもなんともない。

「なんでこんな事」

独歩は抗議しようとしたが、男の顔が思いのほか近くにあって声を失った。
膝をついた男が独歩の手を掬いとり、あっという間に背中に回す。

「なんでも何も心当たりあるだろ」

背中からガチャンとまた金具が嵌る音がする。
同時に両手首に揃いの冷たさを感じて、ゾゾゾと背筋が震えあがった。
心当たりなら確かにある。
あの日聞いた会話がきっと聞いてはいけないナニカだったのだ。一瞬、反論する喉が詰まる。
手摺が杭代わりになって、後ろ手に嵌められた手錠が動く度に悲しく擦れた。

「は、外してください!」
「やる事やったらな」

そう言いながら男は独歩の顔を食い入るように見つめた。
目にもまぶしいライトの逆光で顔には暗い影が落ちているのに、ニヤリと笑った白い歯ははっきりと見えてしまう。

「ヒッ」

男を見上げると、顔が勝手に引き攣ってしまう。
野生の動物に出会ってしまった時より、きっと今この人に見降ろされている方が何十倍も恐ろしい。
どうにかして逃げられないかと半ば本能的に後ずさろうとしたがカウンターと背中合わせになるばかり。窓の外に映る景色も流れるのは一瞬で、もう逃げ場はないのだと現実に頭を殴られたような気分だった。
そしていよいよ男の角ばった手がこちらに伸びてきた。
たまらず顔を背けようと目を瞑った瞬間、顎を強く捕まれる。

「いいねお前。その顔ゾクゾクする」
「たったた助けて一二三ー!!!」

なんだかもう泣きそうだ。
独歩の悲痛な叫び声が男のツボに入ったらしい。
声だけ聴けば爽やかな笑い声と共に顎を拘束していた手がパッと離れた。
おそるおそる瞼を持ち上げると、潤んだ視界の中で男が口を開けて笑っている。

「別にとって食いはしねぇよ。そもそも男を食う趣味もねぇ」
「じゃあなんで」
「言っただろ。さっき写真を撮るって。……まぁ、写真って言ってた所でお前が想像するものじゃないだろうが」

言っていることが一瞬理解できなかった。
男が雑にベルトを外す音が耳に触れる。途端、心臓がギクリと固まった。

「ちょちょちょっと!?」

呆気なく抜かれたベルトがゴミでも投げ捨てるようにポイッと放り投げられる。
次いでスラックスのジッパーまでもが軽く突破されてしまい、独歩の焦りも加速した。

「なぁに、ちょっと脱いでもらうだけだって」

男の顔はまだ笑いの余韻が残っていたが、それでも眼光の鋭さは残っている。「上剥いても面白くないしな」と呟きながら上から下まで舐めるように見、気を取り直して独歩の腰骨に指をそえられた。
パンツのゴムの内側にまで入り込んだ親指が思いのほか冷たくて、ビクッと震える。

(嘘だ嘘だ嘘だ)

半ば現実逃避を始めた脳が想像する最悪の事を男は平気でやってのける。
何の迷いもなくパンツごとスラックスをずり下ろし、座り込んでいて引っかかった場所も強引に引っ張った。そのままベルト同様に足首からすっぽぬかれるのかと思いきや、スラックスも靴も足首に留まっている。

「お前肌白すぎないか?ちょっとは運動しろよ」

曝された太腿をぺちぺちと叩きながら男が小馬鹿にしたように言う。

「なんで写真を撮るだけなのにこんな事」

人生最悪の羞恥プレイだ。中途半端に脱がされるのは全裸にされるよりもひどく屈辱的だった。
あっという間に全身が燃え上がるような恥ずかしさに苛まれる。
同時にひどく腹立たしい。
思い切り抵抗して男の事を蹴りつけてやりたいが、動けば更に痴態を曝す事は確実だ。
しかもスラックスが邪魔でまともに足を広げるのも難しい。
せめてもの抵抗に膝を立てて腹の方に寄せた。

「そりゃ目的がこれだからな」

男はポケットからスマホを取り出して、丸いレンズを独歩に向けた。
カシャッと耳慣れたあの音が鳴って、「ほら」と言いながら縦長の画面がこちらに向く。独歩は座り込んだまま、すぅっと顔から血の気が引いていくのが分かった。まるでレイプ物のAVみたいな写真だ。

「この前の逆ギレも悪かないが、お前はこっちのがよっぽどイイな」
「け、消してくださいッ!」
「嫌に決まってんだろ。俺の目的はこの写真を作る事なんだから」

顔色ひとつ変えずに、またカメラを向けてくる男に独歩は絶望的になった。
こんな写真がもし流出なんかしたら何もかもが終わりだ。
自分の人生が社会的に抹殺される事はもちろん、チームを組んでいる寂雷や一二三にも迷惑をかける。
なんとしてもこの写真だけは消さねば。
世間の目に触れさせてはいけないものだ。
涙目でレンズをギロリと睨みつけると、男は余裕綽々で自撮りをしている。
そしてシャッター音を聞き飽きた頃、おもむろに独歩の鞄を漁り出した。
目的のものを取り出して、それを独歩の目の前に突きつける。

「あ!俺のスマホ!?」
「ちょっと借りるぞ」

煌々と光る画面に独歩の顔が映ると、勝手にロックが解除される。
顔認証になんかしなければよかったと後悔しても後の祭りだ。
無防備になったスマホを自分の物のように指でなぞり、男が何かをしている事を独歩は歯がゆい思いで見つめる事しかできない。
男の用事は案外早く済んだ。
連絡先を開いた状態を独歩に見せながら、見覚えのない名前をタップする。
それが男の名前だと分かったのは、男が自分のスマホをいじった途端、独歩の画面が控え目に震えたせいだ。

「これ、俺の携帯な。三コール以内に出なかったらこの写真バラまくから」
「エッ」
「お互い秘密を握ってんだ。仲良くしような」

その時はそんな馬鹿な話があるか、と思ったが数日後にはどうやら本当にそうでもあるらしい事を独歩は嫌でも実感せざるをえなかった。

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