そしていつかの祝福を

「あっ、お兄さんだ。お兄さーん!」

 学校からの帰り道、お兄さんの姿を見つけて私はその背に呼びかけた。私の声に気が付いたらしいお兄さんはのんびりした様子で振り返って、「おー、名前か」と間の抜けた返事をくれる。私は大急ぎでお兄さんの元に向かった。

「こんにちはです、お兄さん! 今日は学校帰りですか?」
「ま、そんなとこや」

 お兄さんはくしゃくしゃと私の頭を撫でて来る。それがこそばゆくて、私は思わず身を捩った。

 お兄さんと初めて会ったのはもう数年ほど前になる。高校からの帰り道、こうして時折会うことがあって、それで話すようになり仲良くなった。
 ……とは言っても私がお兄さんについて知っていることは少ない。真昼間から私服で居る所に遭遇するので大学生かなとは思っているけど、憶測の域を出ない。私がこのお兄さんについて断言できることと言えば、その金髪のおかっぱが目立つことと、やたらお洒落さんってことくらいだ。

「あ、そうだ聞いてくださいよお兄さん! うちの高校こないだ身体計測だったんですけど、私去年より身長伸びてたんですよ! 一センチも! すごくないですか!? これはお兄さんを超える日も近いですね!」
「それはないやろ。お前俺とどれだけ身長差ある思うとんのや」
「ふっふっふっ……そうやって油断して、後で泣きを見るのはお兄さんなんですからね!」
「ほーほー、言っとれアホ」
「んああっ、頭ぐりぐりしないでくださいーっ! 縮むっ、縮む〜〜っ!」

 お兄さんに会ったら話そうとずっと思っていた身体計測のことを言うと、お兄さんは私の頭を撫でる力を露骨に強くした。……っていうこれはもう、撫でるって言うよりも押されてるって感じだ……!? ともすればその場に座り込まされそうな強さである。私に身長超されそうだからって大人げないっ! 大人げないぞお兄さん!

 ようやくお兄さんが手を離してくれたので、私は頭を押さえてお兄さんを睨み付けた。お兄さんはどこ吹く風で、しれっと舌を出してみせる始末だ。

「むぅぅ……あ、と言うかお兄さんっていくつなんですか? 成人してます? 成人してるんだったら成長期の私に抗う術もありませんね!」
「あ――……いくつやと思う?」
「……お兄さん、そういうのは合コンとかで女の子がやるから盛り上がるので会って、決してお兄さんのような男性が言っていいような台詞ではないと思うのですが……」
「本気で引くなや! 相っ変わらず失礼なガキやな!」

 思わずお兄さんから身を引くとお兄さんは怒鳴りつけて来た。いやぁ、だって……今のは正直どうかと……。

「ていうか分かんないから訊いてるんですよぅ。で、ホントはいくつなんです?」
「お前みたいに失礼なガキに教えるわけないやろ、アホ」
「ええっ、なんですかそれ!? じゃあ生年月日は!?」
「同じやろ。絶対教えたらへんからな」

 そんなぁ……。何度か訊き出そうとしてみても、お兄さんは「罰や罰、自業自得や」と言うばかりで一向に教えてくれる気配はない。自業自得と言うのならお兄さんの方が悪いと思うんだあれは……。

「しつっこいなホンマに……。……しゃーない、分かった」
「えっ!? 教えてくれるんですか!?」
「5月の10日や。生年月日な」
「ええー誕生日だけじゃ年齢わからな……えっ!? 5月10日!? ほっ、ホントですか!?」
「嘘ついてどうするんや。ホンマやホンマ」
「だっ、だって……5月10日なんてもうすぐじゃないですか!?」
「あー、言われてみればそうやな」

 ようやっと口を割ったかと思えば誕生日だけで、なんとか生まれ年を訊き出そうとしようとしたところではたとそれに気が付いてしまう。な、なんてこった……もうあんまり日がないじゃないか!? というか寧ろ何でお兄さんはそんなに落ち着いてるんだ!?

「なんでもっと早く教えてくれなかったんですかー! これじゃあ大したことできませんよー!」
「わざわざ祝ってくれ言うて教えるのもアホみたいやろうが。つーか、別にお前にそんなん期待しとらんわ」
「ううう……パーティーとかしたかったけど時間的にも無理そうだし……お兄さんの誕生日は全力でお祝いしたかったのに……今からできることってなると……」
「そーかそーか。黙っとって正解やったな」

 お兄さんは疲れたような息をどっと吐いた。うう……お兄さんの誕生日にやりたいことはたくさんあったのに……これじゃあ何にもできないじゃないか! 全くお兄さんは薄情だぞ!

「……でも、もったいないなあ。私、今までもお兄さんの誕生日スルーしちゃってますよね……。これは今までの分もまとめて祝うような気持ちでいかないとですね!」
「別にええわ、お前にんなもん求めてへんし。ちゅーか騒ぎ過ぎやろ」
「でもなんていうか、お兄さんって初めて会った時からぜんぜん老けた感じがしないんですよね。何ででしょう、お洋服頑張ってるからですか?」
「…………老ける、て」

 ―――あれ?
 なんか、今……一瞬だけど、お兄さんの口元が強張った気がした。えっ、何だろう。私、そんなに変なこと言ったかな? お兄さんの眸がいつもとは違う感じで細められて――まるで私を見定めるみたいな視線に私は思わず息を飲んだ。

「………あ、の」
「なんや老けるて、けったいな言い草やなあ、ええ?」
「あっ、貶してるわけじゃなくて褒めてるんですけど! えっと、年齢の衰えを感じさせない、みたいな……?」
「それのどこが褒めてるんやボケ、余計に悪くなっとるやないか」
「あうっ」

 ――だけど、あっと思った時にはもうお兄さんはいつもの調子に戻っていて。
 お兄さんがぐりぐりと私の眉間を指で押してくるから、私はそれどころじゃなくなってしまう。そのままお兄さんの指が私の額を弾いて、ピシッとした痛みがおでこに走る。慌ててお兄さんを見ると、お兄さんはまた「自業自得」と言いたげな目で私を見下ろしていた。……よく見る、いつものお兄さんの表情だ。

 ……さっきの、何だったんだろう。なんだか心臓がざわってした。もしかして……お兄さん、怒ったのかな? 老けるとか言ったから? うう……ホントにそういう意味じゃなかったのに……。

「……でもパーティーが出来ないって言うなら、せめてプレゼントは用意させてくださいね! 任せてください、お兄さんにピッタリなものを選んでみせますよ!」
「だからいらん言うとるやろ。……お前あれやな、人の誕生日祝うの好きなタチやろ」
「あはは、分かります? 私、友達にプレゼントとかあげるの好きなんですよ。そういうの選ぶのって楽しくないですか?」

 とにかく怒らせてしまったのなら申し訳ない。そのお詫びも兼ねてプレゼントは豪勢にしようと私はひとり決意する。……まあでも、私バイトとかしてないから、大した金額のものは買えないんだけど。

「当日は期待しててくださいね、お兄さん! お兄さんがめちゃくちゃ気に入るものプレゼントしますから!」
「そーかい。期待せんで待っとるわ」

 呆れたようにお兄さんがまた嘆息する。その横顔を眺めて、私は思わず頬が緩んだ。えへへ……お兄さんのプレゼント、何がいいかなあ。考えるだけでワクワクして来る。

 ――と、歩きながらそんなことを話していた私たちだけど、いつの間にかうちの近くまで来ているのに気が付いた。お兄さんとはいつもこの辺りで別れるのだ。お兄さんはこの曲がり角を私とは逆の方に行くのだけど、そう言えばお兄さんの家ってどこなんだろうなあ。この辺ってけっこう独り暮らし用のマンション多いし、そのどれかなんだろうか。

「それじゃお兄さん、私はここで! また今度―――」
「名前」

 お兄さんに別れを告げて帰ろうとした私の方に、お兄さんの腕が伸びて来る。
 音もなくお兄さんは私の頬に手を伸ばし、そっと私に触れた。――その手付きがあまりに優しくて、私はなにも言えなくなる。ただ黙って、お兄さんの大きな手を見つめるしかできなかった。
 お兄さんの体温が指先から伝わって来る。――お兄さんは何かに耐えるように口を噤んでいたけど、やがてゆっくりと口を開いた。

「お前、俺がもし……」
「え? 何ですか?」

 いつになくお兄さんの声は静かで、傍を通った車に掻き消されてしまう。うまく聞こえなくて尋ね返すけど、

「……いや、何でもないわ。寄り道しないで真っ直ぐ家帰りや、もうすぐ暗くなるで」
「なんですかそれ、めっちゃ子供扱い……」

 小学生にでも言いつけるような口調にむっとしたのも束の間、お兄さんはそのまま手を私の頭に乗せてぽんぽんと撫でて来た。その一連の動作に私はまた言葉を失ってしまって、そうこうしている間にお兄さんは私に背を向けて歩いて行ってしまった。

 ……何だったんだろう。お兄さんは私に何が言おうとしたのだろう。
 分からない。分からないけど――でも、なんだかその先を聞きたかったような……聞きたくなかったような、複雑な気分だった。次会ったら今日のことを訊いてやろうかどうしようかと考えながら、私は帰路につくことにしたのだった。


 :


「お兄さん!!」

 自分の想像より大きい声が出てしまって驚いたけど、でも今の私はそんな些細なことを気にしていられる場合ではなかった。
 5月10日の、学校帰り。いつもの場所に探し求めていたお兄さんの姿を見つけて、私は大慌てでお兄さんに駆け寄った。お兄さんはそんな私とは正反対にゆっくりと振り返る。

「……名前か」
「よっ……よかった、会えて! このところ全然会えなかったから、今日も会えなかったらどうしようかと――」

 今までだったら少なくとも週に一度は会えていたのに、なぜかここ最近ばったりと会えなくなってしまったから不安だったのだ。プレゼントが渡せなくなったらどうしようかと思ったけど、なんとか今日は会えてよかった。
 急いで走ったから息が苦しい。呼吸を整えながらお兄さんに話しかけると、ふと、お兄さんがやけに大きいバックを持っているのに気が付いた。――お兄さんも私の視線に気が付いたのだろう、小さくバックを持ち直した。

「……これから……旅行にでも、いくんですか?」
「そんなところや。だからあんま時間がなくてな」
「えっそうなんですか!? じゃあ、えっと――お誕生日おめでとうございます、お兄さん!」

 お兄さんの言葉にはっとして、私はスクールバックから取り出したプレゼントを押し付ける。お兄さんはそれを見て眼を瞬かせた。

「なんやこれ……手紙?」
「バースデーカードです。……えっと、結局なにも思い付かなくて……お兄さんってお洒落だから私のセンスのものじゃ使ってもらえない気がして、それで、とりあえず一番誕生日っぽいやつを……」
「…………………」

 ……お兄さんの反応は芳しくない。差し出された、バースデーカードの入っている封筒を見て固まっているようだった。……うう、やっぱりカードだけじゃ格好つかないかな……。でも本当に思い付かなくて……。 

「け、結局カードだけになっちゃいましたけどっ、でもこれ売ってたやつで一番高いのなんで! 開くと曲が流れて、絵もバーン! って出て来るやつで、それで、それで……っ」

 ――お兄さんの手が頭に降って来て、私は慌てて紡いでいた言い訳じみた言葉を止めた。
 私は顔を上げた。お兄さんはすぐに手を離して、私から封筒を受け取るとにやりと笑った。

「ありがとな、名前」
「……! はいっ、気に入って貰えてよかったです!」
「そう言や、お前の誕生日はいつなんや」
「私のですか? 私は――」

 お兄さんに礼を言われたのが嬉しくって、私はそのまま訊かれた通り自分の誕生日を伝える。私の返答を聞くとお兄さんは頷いて、

「そうか。覚えとくわ」
「はい! あ、そうだお兄さん。私っ、」

「―――おい、真子。そろそろ行くぞ」

 ――ここ数日で貯まった話をしようとした瞬間、それを拒むように覚えのない声が割り込んで来た。シンジ、と言うのは誰だろうと思いつつなんとなく振り向くと、そこに居たのは当然ながら知らない人達だった。
 というか、なんだか不思議な組み合わせだった。性別も違っていれば年齢層もバラバラに見える。何の集団なんだろう……想像もつかないや。中学生っぽいジャージの女の子も居ればセーラー服の人も居るし、男の人たちは学生って感じじゃないし……。

 思わずその人達を見ていると、その中の一人――ガタイのいいお兄さんがこちらを睨み付けているのに気が付いた。最初は私が睨まれているのかと思ったけど、違う。これは……。

「おう、いま行くわ」
「……お兄さん? ……あの人達、お兄さんのお友達ですか?」
「ま、そういう感じや」

 ――シンジと言うのがお兄さんの名前だったのかと、そう言えばお兄さんの方は私の名前を知っているのに私は全然知らなかったと、そんな今更なことを考えながら私はお兄さんにそう訊く他なかった。お兄さんはまた曖昧に頷いて、それにようやく、自分がお兄さんのことを何にも知らなかったこと――自分が遠ざけられていることに気が付かされた。

「………あの人達と、一緒に行くんですか?」

 お兄さんが持っている大きなバックと似たようなものをその人達も持っていて、これから皆でどこかに行くのかなという雰囲気だった。それをそのままお兄さんに尋ねるとお兄さんはまた頷いた。

「そう言うわけや。もう行くわ」
「あ………」

 お兄さんが私の横を通り過ぎてその人達の方に向かう。……私にそれを引き留めることなど出来るはずもなく、ただお兄さんの背を見送るしかできなかった。――だけどいよいよお兄さんがその謎の集団と合流しそうになったところで、私はようやく我に返った。

「お、お兄さん! あの……」

 ――いつもみたいに「また今度」と言おうとして、何故か言葉が詰まった。何故だろう、分からない。分からないけど……なんだか、叶わぬ約束になってしまいそうな気がしたのだ。
 もう二度とお兄さんに会えないような――そんな筈ないだろうに……ないと思いたいのに、どうしてだかそんな気がしてならなくて……私は、いつもの二の句を告げなくなった。

 ちょっと足を止めて振り返ったお兄さんだったけど、すぐにまたこちらに背を向けるとひらひらと後ろ手に封筒を見せつけるように揺らした。

「これ、ありがとうな。名前」

 お兄さんはそのままその人達とどこかに向かって行った。私はお兄さんたちの姿が完全に見えなくなるまでその場を動き出せず、そしてその頃になってようやく、私は本当にお兄さんと次に会う約束しそびれてしまったのだということを知った。
 そして――そのせいなのだろうか。その日から、私はお兄さんの姿を見つけることができなくなった。




 それから毎年、誕生日に一通の手紙が送られてくるようになった。差出人の記載のない便箋には毎年違う種類のバースデーカードが入っている。でもそのどれもが、私じゃ絶対に買わないだろうなっていうお洒落なデザインのカードだった。――それはもう、ある意味で送り主が名乗っているに等しかった。学校の友達にこんなセンスの子はいないし、私の知る人でこれを選びそうなのは――

 お兄さんが今どこで何をしているのかは分からないけど、でもきっとそれなりに元気にやっているんだろう。……今は、それだけで十分だ。
 いつかまた、会える日が来るだろう。それがどれくらい先になるか分からないけど、でもきっと生きていれば再開も夢じゃないだろう。

 いつかまた、会うことができたなら。――あれから5月10日が近くなる度に買っているバースデーカードたちを一気に押し付けてやるんだからと、そんなことを思いながら私は今年も届いたカードを机に飾るのだった。

「誕生日おめでとうな、名前」

 そんなお兄さんの声が聞こえてくるような気がして、私は今年の5月10日も届かぬ祝福を彼へと送る。