長編小説『星夜見桜』番外編です。
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武はいつだって、私の代わりに涙を流す。別に私は、自分自身が感情が薄いなんて思ったことは無い。ただ昔から、何故だか涙が出ない人間だった。幼い頃は必死で堪えていたのだろうが、年を重ねるにつれ、涙を堪えることに、慣れてしまったようだ。
母の葬式の日も、そうだった。
棺桶の中に死装束で、血の気のない顔をして横たわっている母を見た途端、取り返しのつかない事になったんだと、幼心に痛いほどに理解したものだ。
胸に大きな穴が空き、そこを冷たい風が吹き抜けていた。体に力が入らなくて、目の前の光景も何もかも、全く頭に入ってこない。呼吸もうまく出来ていなかったんじゃないかと思う。
そして、どうしようもなく、目頭が熱くなって、こらえ切れない何かが溢れて来ていた。でも、私は何故だかその熱いものを、自分の中にしまいこもうとしていた。唇を噛み締めて、力を込めて。
今でもなぜだかは分からないが、泣きたくなかったんだと思う。泣けば、どんどんと悲しみが波のように押し寄せてくる気がして。無力な自分に、嫌という程直面させられる気がして。泣きたくなかった。
しかしあの時、幼馴染は、武は、堪えるように下を向く私の目の前まで来たかと思えば、その幼いながらの大きな瞳を涙で一杯にしていた。いや、もう留めきれず溢れきっていたか。奴の頬に伝う水滴はそれを顕著に表していた。
「桜……っ!桜……」
何も言うでもなく、ただずっと私の名前を呼んでいた。嗚咽が混ざって、途中から何を言っているのか分からなくなってしまっていたが。その愛らしい顔をクシャクシャに歪めて、私の手を握り、人目なんて憚らずおいおいと泣いていた。
それは、私にとってどんな慰めの言葉や、弔いの言葉よりもひたすらに胸に響いた。
幼くて、当時はよくわからなかったが、泣きじゃくっている彼を見ていると、何故だか私も、堪えていた涙が再びジワジワと溢れてくるように思えた。そこで初めて私は泣いた。その幼なじみ程ではなかったが。私の手を握る小さな手を必死に握り返して、頬に伝う水滴を拭うことすらもせず、声を殺して、俯いて、泣いた。
今だって、そうだ。
「……なんで、お前が泣く。」
目の前の幼馴染の、少し日に焼けた頬に伝う涙を拭ってやる。昔と違って、今は武の涙を呼び水に泣いたりはしない。
「……桜……。」
可愛がっていた野良猫が死んだ。別にダンボールなんかに入っているような、弱々しい子猫ってわけじゃない。元気でいたずらっ子で、時たま学校の道場の前で昼寝なんてしてるもんだから、弁当のおかずを適当に残しておいてやったら、存外気に入ってくれたようで。
謝礼だと言わんばかりに、こちらに腹を向けて寝そべるその姿に、不覚にも癒されてしまった。
そんな小さな友人の姿が、ある時からはたと見なくなった。猫なんて気まぐれなものだから。そう思って気にしないでいたが、どこか後ろ髪を引かれる思いだった。
そして、最後に見た日から三日後。
学校の裏門前の道路に、なんだか見覚えのある毛並みが見えたんだ。それを認めた瞬間は、サッと血の気が引いた。急いで拾い上げ、裏門へ引き返した。
「桜……。」
昔から変わらない、いや、昔よりかは静かに泣くようになったか。ずっと、何を言うでもない、鼻を鳴らしながら私の名前を呼ぶ。いつだってそうだ。武は私以上に私のことに感情を露わにする。私が嬉しい時は私よりも喜んでその顔を破顔させ、私が侮辱された時は私よりも激昂する。
そして、私の心が沈んだ時は、私よりもその顔を曇らせる。
小さな埋葬と葬式を済ませて、帰り道。ようやっと収まったのか、奴が鼻をかむのをまって、尋ねる。
「なんでお前がそんなに泣くんだ。」
別に、あの猫と親しかったわけでもないだろうに。
そう続ければ、武は涙で濡れた声で途切れ途切れに言葉をつむぎ始めた。あーあ、これは明日、目腫れるぞ。
「桜、ちっせー頃から、泣くの下手くそだったからな。」
それを言うなら武だってそうだろう、いつだって笑って、隠して、終いには溜め込みすぎて、屋上から飛び降りようとまでしたじゃねーか。
「いっつも我慢して、耐えてるから。俺も、自分のために泣くの、下手だからさ。だったら俺の涙、桜のために使おうと思って。桜が悲しい時は、俺も、俺が泣いてやろうって。」
そう言って、あの時みたいに涙でグシャグシャになった顔で、今度は雨上がりの太陽のように笑った。
そうか、お前の涙は私の涙を映していたのか。先程までポロポロと涙をこぼしていた武の姿を思い出し、少し、ほんの少し納得した。確かにあれは、私の姿だった。
「でも、いくら下手でもさ、涙は溜まっていくんだから。……今なら、ちょっとくらい、泣いてもいいと思うぜ。」
そう言ってポンポンと頭を撫でられるものだから、私の中に押しとどめ続けていた涙の蓋が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、長いこと栓で塞いでいた涙は一筋、二筋、こぼれただけで止まってしまった。でも、今はまだこれでいいんだと思う。
隣を歩く幼馴染も、同じことを思ったんだろう。そっと、流れ落ちた涙の二筋を拭って、再び私の髪をすくように撫でた。
横顔を見れば、彼の未だ少し濡れた瞳に、夕日が美しく映えていた。
雨は、星の涙を表す。
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