学校という封鎖された空間で、国語教師という立場は最も道徳的であるものだと思う。俺という例外を除いては。
ゆびきりげんまん
「先生、なんだか最近機嫌いいですね。」
何かいいことでもありました…?
最近の生徒が俺に良くする質問で、あながち的を得ているそれに答えるのを、俺は毎回戸惑ってしまう。なんでもない風を装い装い、けだる気な態度で生徒をあしらう。
くわえタバコに銀色の天然パーマ、瞳の色は赤く濁っておりおまけにいつもスリッパ。こんな教師のかけらも伺えないような男が、教壇を前にして道徳だ倫理だを語るんだ。世の中変わってしまったものである。
そんな男が今、夢中になるもののためにスピード違反までして帰路を急ぐなど誰が思おうか。
「っただい、ま……」
3階までの階段を一気に駆け上がり、急いでドアの鍵を開ける。呼吸で熱された眼鏡が急速に曇ってゆき視界を阻んだ。
「ぎんぱち…?」
リビングルームへと続くフローリングの先。扉から顔だけをひょっこりと出すと牛ろうは、今起きたのか寝ぼけ眼でこちらを見てくる。艶やかな黒髪から覗く小さな耳がパタパタと音をたてて揺れた。
「ただいまと牛ろう、起こしちゃった…?」
ぶんぶん、と顔を振って俺を向かい入れる姿に愛らしさを覚える。とある事情で引き取ることになった牛のと牛ろうは、外見の年齢にそぐわず中身はまだまだ子供という発育障害を負っているのだ。
細っこく白く伸びる手足に刻まれた生々しい傷後が、その惨劇を物語っている。タオルケットを握りしめ怖ず怖ずと俺の足元まで近付いたと牛ろうと目線を合わせるため、俺はゆっくりとした動作でしゃがみ込む。
「一人でお留守ありがとう。」
手触りの良い髪に触れると小さく上下に動くしっぽ。嬉しい気持ちを表現しているのか、さかんに振られるしっぽが時たまフローリングにたたき付けられている。
「ぎんぱち、だっこ」
一人のお留守はやはり寂しいのだろう。毎日毎日だっこをせがまれ、これが日課へとなってきていた。
小柄なと牛ろうを持ち上げるのは容易く、その軽さに毎回眉を潜めたくなる。銀色の天然パーマを気に入っているのか、だっこの度に嬉しそうにそこに触れる。
「と牛ろうはいい子でお留守できたかな?」
と牛ろうを抱きながらリビングのソファーに腰掛ければ、二人分の重さを受けたそこは小さく悲鳴を上げた。膝の上に乗せたままの状態で、背中をあやすように叩いてやると嬉しそうに角を擦りつけてくる。
「ちゃんといい子にしてたよー」
太陽のような満面の笑みを向けられ、その純白さに思わず目を逸らしたい衝動に駆られた。
「でも、一人は寂しいんじゃない?」
毎回のように尋ねるこの質問に、と牛ろうもまた毎回のように返事を返す。
「ぎんぱちがいるからいーの」
人に触れるのが怖いと牛ろう。一見優しさを含んでいるかのように見えるこの質問の本当の裏側を、この幼い少年は知ってはいない。
毎回のこのやりとりに、銀八が満足を覚えているなんてきっと知らない。
「と牛ろうにはぎんぱちがいればいいんだもん」
真っ直ぐすぎる気持ちの表れを示す少年の心はまだ幼い。
「ありがとう、と牛ろう」
その返事に、ほっとしている大人がいるなんて思ってはいないだろう。友達や仲間を見つけて欲しいとは心から思っている。
そちらの方が、留守番の寂しさを覚えることもない。それに、自分以外と触れ合うことはとても大切で、心を落ち着かせてもくれる。
でも、俺から離れていくように感じてならないのだ。優しいと牛ろうがそんなこと、と思ってはいる。いるのだが、だからこそ、その優しさを他人に不用意に振り回って欲しくない。
自分の知らない世界を作っていくと牛ろうが見たくなくて、でも見守ってやりたくて。今だ癒えない傷を盾に、俺は今日も自分を安定させる。
本当に、なんて大人でなんて教師なのだろうか。
「今から夕ごはん作るから、もう少し寝ていいよ」
優しく優しく、あやしていけば、と牛ろうは瞼をゆっくりと綴じ夢の世界へと落ちてゆく。
「おやすみ、と牛ろう」
前髪を掻き分けおでこにキスを送る。タイミングよくふんわりと、花のように笑う笑顔にまた愛おしさを覚えて。
いつの日か、友達が欲しいと言ってきたら俺はどうするのだろうか。一人の少年に囚われた気持ちが重たく全身へとのしかかる。
これ以上楔でがんじがらめにしないように、と思えば思うほど糸は絡まるばかりで。後戻りの方向さえ、遠く離れていて見えやしないのだ。
「いい夢を、」
寝息をたてる小さく開いた口に、蓋をしめた。
11.05.30
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聖職者なんてくそくらえ。
ぱっうし企画提出文