壊れた君へ、愛しの君へ


 今日は例年に比べて暖かい日だと、天気予報は言っていた。それ以外は、いつも通りの日。
 放課後の屋上にて彼女と待ち合わせ、そして予定通りに対面した。
 僕は笑顔でカッターナイフを握る。彼女の象徴である、無機質なカッターナイフを。
 そしてその刃を手首にあてがい、すっぱりと横に引いた。
 皮膚が切れた痛みが僕の体を駆け回る。真っ赤な血が体表を滑る。
 ――暖かい日。僕は詰襟の袖をまくり、冬服の彼女にそれを見せつけた。
 彼女はいつもの表情で、それを見ていた。
「岩下さん、好きです」
「私はどちらでもないわ、荒井くん」
「僕のことをどう思いますか」
「気違いじみてて面白い子ね」
 僕は岩下さんが好きだ。誰にどう思われていても、そうなのだから仕方ない。
 彼女を見かけると体温が上昇する。彼女のことを考えると頭の中がとろとろになる。いちいち心臓が高鳴り、唾液が溢れだす。風邪にでもかかったようにくらくらする。
 恋の病だ。身を焦がすほどの熱病だ。
「僕はこんなに苦しいんです。あなたの言う気違いじみた行動の原因はあなたですよ」
「あらそう。それは驚きね」
 こんな場面に遭遇しても悠然と構える彼女に、僕は心の中で賛美を送った。
 そして、右手のカッターナイフをぎゅうと握りしめた。
 ――三月に入った間もない頃、僕は人を殺した。
 彼女の目の前で、名も知らぬ二年生の頸動脈をカッターナイフで切り裂いて殺した。
 今僕の足元に倒れているのが彼である。生前の阿呆面はまるで夢物語のように消え失せ、代わりに血の気のない顔が顔面に貼りついている。
「まさか私にこんなものを見せてくれるとは思わなかったわ」
「だって、彼は邪魔者でしたから。こんな奴があなたに恋慕するなんてありえません」
「あら。私が彼になびくような女だと思って?」
「いいえ。その上で殺したんです。目障りでしたから」
 彼のような軽薄不思慮な男は嫌いだ。見ていて反吐が出る。それに加えて彼女をものにしようと企んでいるなど、僕に殺してくれと言っているようなものだ。
「これで僕は人殺しです。一人殺してしまったんです、今更何人殺そうが変わりありません。ね、岩下さん」
「私を殺しても、それは変わりないわね」
「ええ。けれど僕はあなたを殺したりはしない。少なくとも今は」
「ふうん。今は、ね」
「はい」
 少しの間彼女は黙っていたが、やおら僕に歩み寄ると、その白くて細い指で僕の頬をぬぐった。
「私を殺したいと考えるようになる前に忠告しておいてあげる。血はしっかりと拭き取りなさい、後始末を忘れる粗忽者に私を殺すことなんてできないわ」
 その感触は頬に熱を与え、僕の本能を刺激する。
「はい…。ありがとうございます」

 そして今に至る。
 僕は屋上にて自分の手首を切り、血飛沫を飛ばしていた。
 ここには誰も来ない。呪いがかかっているから、誰も近寄れないのだ。だからこそ、僕は屋上を逢引の場所に選んだ。
「これが僕の愛の形です。応えてくれますか? 岩下さん」
「あなた、そのままでは死ぬわよ」
「いいんです。僕を忘れないでいてくれたなら、僕はあなたのために死にますよ」
「だったら死んでちょうだい。私が殺してあげる」
 屋上の床に背中が触れた。
 春一番が彼女の墨色の髪を白い空に吹き上げ、黒い線を描き出す。
 胸の上には彼女の体があって、眼前には彼女の瞳がある。
 そして首筋には、彼女が所持していたカッターナイフの冷たい刃が当たって―――いた。
「不埒な妄想をしたかしら」
「正直に言います。しました」
「身の程をわきまえた発言ね。いい事だわ」
 僕の左手首をしっかりと掴んだ彼女の掌が血にまみれていた。
 ぞくぞくする。ああ、僕はこれから岩下さんに殺されるのだ。心踊る。
「あなた、近くで見ると余計に肌が白いわね」
 どこを見ているというのだろう。僕はさらに興奮した。
「さぞかし血が似合うでしょうね………あの時みたいに」
 カッターの刃がつんつんと皮膚を刺す。焦らさないで、一気にやってくれればいいのに。
 僕の心拍数は急上昇し、呼吸が荒くなる。右手に握ったカッターナイフから力が失せてゆく。
「急に目が潤んできたけれど、熱でもあるのかしら? 頬もなんだか赤いわ」
「…そう、でしょうね……高熱です」
「あなたの表情といい仕草といい、淫靡だわ」
 その言葉で、熱が上がった。本格的に僕は壊れてきているのかもしれない。
「…あなたって本当に、どうしようもない子ね…」
 彼女が間近まで迫る。
 カッターがさらに深く突き立つ。
 僕は目を閉じた。視界が暗くなる――。
 ――なんだか分からないものの奔流で、僕は窒息死しそうになった。
 口を塞いだのが岩下さんの唇だと悟った時、天にも昇る心地だったと同時にこのまま死んでもいいとも思った。
 夢見心地の僕を冷たい風が覚ます。眼前には影のある微笑みがあり、呆ける僕を見下ろしている。
「ほら、これで今までのあなたは死んだわ。私に殺された」
 彼女の指が首筋を撫でたかと思うと、血に染まった白い指が差し出され、ようやく僕は首からカッターが離れていることを知った。
「誓いなさい。私以外の誰も殺さず、私以外の誰にも殺されないと」
「……あ」
「私は私が愛した人にしか殺されないわ。あなたにそのチャンスをあげるの。分かるかしら?」
「はい……」
 あなたに本当に愛された時、僕はあなたを殺せる。その命を――僕の所有物にできる。それはあまりに甘美で、贅沢で、重すぎる資格だった。
「いい子ね」
 固く握られた手首は、もはや僕を死に誘う力はないだろう。首筋からの出血に至っては微々たるもので、彼女のために死んでやろうという僕の目論見をことごとくかわしてくれていた。
「約束よ。あなたは死んではいけないの」
 小さな女の子がわがままを言うように、さらりと言ってのける。けれどその拘束が、僕をこの世に係留する。
 岩下さんはポケットに手を突っ込むと、取り出したものを首筋と手首の傷に貼りつけた。
「……絆創膏ですか?」
「そうよ。血は残さないようにしないとね」
 彼女の白い手によって、二つの傷に真っ白な包帯が巻かれていく。清潔な包帯が赤い跡を隠し、僕の肌を隠していく。
 ああ、そういえば今日は三月十四日。――ホワイトデー。
「岩下さん、早速ですがデートしませんか」
「どこに行くの?」
「あなたの好みのお店でお茶でも。何か甘い物をご馳走しますよ」
 僕の粋な計らいに気づいたのか、岩下さんは艶めかしく笑って応えてくれた。
「あら嬉しい。じゃあ行きましょう、早くしないと日が沈んでしまうわよ」


White and red

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