Please call me "Eat me!
聖ウァレンティヌス司祭の命日。
無断で兵士の婚礼を執り行い、法に背いたとして死刑に処され、ローマにおいて一人の司祭の命が失われた日。
本来ならば彼の死を悼むべき日になるのだろうけど、ローマから遠く離れたこの島国日本では、冬の名物たる祝祭の日と位置付けられている。
2月14日。この日付を聞けばピンとくるだろう。
女性は思い人への贈り物のために奔走し、男性は思慕の証と言うべき甘い味を期待する日。
―――バレンタインデー。
祝祭と言ったが、祝うのは恋人がいる男女ぐらいのものだ。
一方的に贈り物を待つだけの身である男性諸君にとっては、甘いお菓子でなく苦い記憶しか残らない。
僕もそうだった。2月14日を忌み、浮かれる人々を見て沈んだ気持ちになっていたものだ。
しかし今年のバレンタインデーは、僕にとっての祝祭日であった。
***
「やあ、荒井くんじゃないか」
寒風吹き荒ぶ下校の道、僕はあまり会いたくない人と会ってしまった。
風間望というこの人物は、三年生、つまり僕より年上なのだけど、どうもこの人を「風間先輩」と呼ぶのは気が引ける。そういう人物である。
「なんだい、今日という日に辛気臭い顔をして。こっちにうつってしまうよ」
「それはすみません。何かいいことがあったんですか」
「おっ。聞いてくれるかい? 荒井くんにしちゃ殊勝な態度だねえ」
聞きたくなくても聞かせてくるくせに。正直言って、寒いので早くここから去りたい。
「見てくれよ、これ。何だと思う?」
風間さんは言いながら、両腕に抱え込んだ紙袋を示した。
溢れんばかりにはみ出ている、カラフルに包装された物体から察するに、彼の求める答えは明白だ。
「チョコレートでしょう」
「その通りだよ! いやあ、今日はいろんな子からもらっちゃってねえ。『これ、受け取って下さい!』とか『風間先輩、好きです!』とか言われてさ。とても今日中には食べきれないよ。ま、チョコレートは腐らないからいいんだけどね」
「はあ。そうですか」
「荒井くんは……見たところ何も持ってないようだけど。いやいや何も言わないでくれ! 言わなくても僕には分かるよ。ズバリ、誰にもチョコレートをもらえずトボトボと帰路についていたというところだろう! その辛気臭い顔もこれで合点がいく。まあそうしょぼくれるんじゃない、僕も君のような可哀想な男を見過ごすほど冷血ではないからね。どうだい、このチョコレートの一つ、君がもらったものということにしてもいいんだよ。一万円でどうだい? たったそれだけの出費で君はチョコレートをもらったという名誉を手にする事ができ――」
「結構です。では急いでいるので、さようなら」
これ以上無駄足を食うと約束の時間に間に合いそうにないので、僕は足早に風間さんから遠ざかることを決めた。
それを抜きにしても、聞いていて不愉快な話であったし。
後ろから“ああ、待ちたまえ! なんなら五百円でも”という声が聞こえた気がするが、きっとそれは空耳だ。
***
「あー、荒井先輩!」
風間さんのもとから去り、心持ち早足で歩いていた僕の背中に、聞き覚えのある声がぶつかってきた。
少し億劫に思いながらも振り向いたその先に、猫のようにパッチリした目の後輩がいる。
「荒井先輩、今から帰るんですか?」
「いえ、これから用事があります」
「えっ、まさか荒井先輩、デート!?」
「……そういう想像はご勝手にどうぞ」
彼女は福沢玲子と言う。あの集会に参加した語り部の中で唯一の一年生である。
愛想がよく快活で、容姿も優れている部類に入ると思う。さぞかし男子生徒の心を捉えて離さない、魔性の女といった具合だろう。
僕に積極的に接してくる、なかなか貴重な女性だ。面識がある分接しやすいというのもあるだろうけど…。
「ねえねえ荒井先輩、今日って何の日か知ってます?」
「バレンタインデーでしょう。知ってますよ」
「きゃはははっ、やっぱ荒井先輩ならそれぐらい知ってますよね。それで、チョコもらったんですか?」
「……あなたに言う理由が?」
「やだ、そんな顔しないでください。もらってないのならホラ、一つあげますから」
義理ですけどね、といささか得意げに言いながら、福沢さんは鞄の中から包みを一つ取り出した。
包みの中身は、言うまでもなくチョコレートだろう。ただ、義理チョコにしては少々包装が過剰すぎる気がした。
「どうも」
「新堂先輩と、風間先輩と、ついでに細田先輩にもあげたんですよ」
ああ、僕と同学年の細田くん。
彼は福沢さんのことを好いているようだったし(少なくとも僕よりは)、さぞや喜んだことだろう。
そう考えると、この後輩もなかなか罪作りなことをするものだ。
「では、僕は急いでますので、これで」
「はい。サヨナラ、荒井先輩」
一陣の強風が吹き、僕は腕時計を見た。
約束の時間まで十分もない。
「荒井先輩! 私、荒井先輩のこれからの用事、分かっちゃったかもしれませんよー!」
女の子は恐ろしい。
あの人といい福沢さんといい、どうも僕の周りには恐るべき女性が多いように感じたのだった。
***
やや急ぎ足で歩いた結果、どうにか僕は待ち合わせ場所に着けた。
時刻は指定されたより五分ほど早い。先に来れたと安心したその時、僕は顔をひきつらせた。
時計の下のベンチに、彼女が座っていたのだ。
ラクダ色のマフラーを巻き、制服の上からコートを着こんだ黒髪の女性――岩下明美が、僕より先に、待ち合わせ場所に着いていた。
どう言い訳したものだろうと逡巡しながら、僕は彼女に近づいた。
「……お待たせしてしまったようですね」
「かれこれ三分ほど待ったかしら。危なかったわね、荒井くん。あなたがもう二分ほど遅ければ、今頃大変な目に遭っていたところよ」
どうやら命拾いしたらしい。
やれやれ、あの二人と会わなかったら、もう少し早目に着いていたのに。
「それで、遅くなった原因はあるのかしら?」
「ええ。途中で風間さんと福沢さんに会って、話し込んでしまって」
「風間くんと福沢さん? へえ、福沢さん……」
「証拠もありますよ。これ、福沢さんからいただきました」
ポケットの中からそれを出した時、僕は自分の失態を悔いた。
これ、見せない方がよかったのでは。岩下さんの事だ、何か勘違いしてもおかしくない。
「チョコレートね。紛うことなきチョコレート」
「確かにそうですが、義理チョコですよ。新堂さんや風間さんや細田くんも同じものをもらったらしいですし」
「あら、言い訳なんか必要ないわよ」
「岩下さん、僕は本当のことを言っているだけです」
「そういう意味で言ってるんじゃないの。荒井くん、私が怒ってると思ってるでしょう」
「……はい」
「私がこの程度のことで目くじらを立てるわけないわ。そんなのよりもっといいものを用意してるから」
言いながら、彼女は荷物を持って立ち上がった。
「行きましょうか、荒井くん。私の家に」
かくして、僕は未だかつて踏み入れたことのない“女の子の部屋”という領域に、若干十七歳にして臨むことになったのだ。
――彼女の部屋は、想像以上に小奇麗だった。
家そのものもかなりいい物件だったけど、部屋は彼女の趣味をダイレクトに反映しているようで、より優美な雰囲気に満ちていた。
僕はその部屋の中、ガラスのテーブルを前にしている。
「お待たせ」
ほどなくして、岩下さんがドアを開けて入ってきた。
その手には盆に乗ったカップ、ポット、そして――
「私の手作りよ」
箱に入った、ハート形のチョコレート。ラズベリーらしき赤い果実が乗っており、ずいぶん凝った作りだ。
「ありがとうございます」
「食べてみてくれるかしら。感想が聞きたいの」
「はい。いただきます」
箱から取り出し、口に運ぶ。
咀嚼するとぱらぱらと砕け、口の中で甘くとろける。……美味だ。名のある店で買ってきたと言われても疑わないくらいの味、と率直に感じた。
「おいしいです。とても」
「そうでしょう。頑張って作ったもの」
「僕のために、そこまでしてくれたんですか」
「ええ。まず、唾液を溶かしたお湯で湯煎をして」
“!?”
僕は自分の耳を疑った。
いくらなんでも、そんなはずはない。
僕の希望的観測を置いてけぼりにして、彼女はつらつらと語り始めた。
「そうそう、火は髪の毛と爪を燃やして焚いたわ。それで沸かしたお湯で湯煎して、隠し味には私の血液を……」
今手に持っているチョコレートを落とすまいと、必死になっていた。
体温で溶けたチョコレートがどろりと指に付いて、いつ滑ってしまってもおかしくない。
「それからそこに乗ってる赤いのはね、果物じゃなくて私の――」
そこで、僕は初めて気づいた。岩下さんの左手に、包帯が巻かれていることに。
チョコレートが滑り落ちかける。慌てて掴み直そうとした手を、彼女の手がチョコもろとも握りしめる。
「私のお味、いかがだったかしら」
「え、あ――」
僕はそんな倒錯した男じゃない。なんて、言えなかった。
この人の血肉なら口にしてもいい、と思っている自分が恐ろしかった。
けれど、そんなものよりもっと恐ろしかったのは、目を爛々と輝かせながら僕を見つめる、岩下さんだった。
「――本当に、そんな事を」
「あら。そんな顔しなくたっていいじゃない。全部冗談なのに」
「……え?」
「私はそんなことしてないわ。妙な細工をして、お腹を壊されたらたまったものじゃないから。細工したいのは山々だったけどね」
「それじゃ全部、嘘だったんですか」
「いやだわ、嘘だなんて。演技と言ってほしいわね」
へなへなと力が抜けた。
この人は真面目な顔をしてとんでもないことを言うから、本当に苦労する。
「本当だと思ったの?」
「思いますよ……。あなたならやりかねない」
「驚かせてごめんなさいね。ちょっとしたサプライズのつもりだったの。それは純度100%の、嘘偽りないミルクチョコレートよ」
改めて、右手に持ったチョコレートを見つめる。
どこからどう見ても、チョコだ。
僕はそれに乗っている赤いラズベリーのようなものを摘み取り、口に運んだ。…すっぱい。血の味も、生臭みもない。やはりこれはラズベリーなのだ。
「おいしい?」
言いながら、岩下さんが手の包帯を取る。その下の皮膚には傷はおろか、ささくれすら見当たらなかった。
「はい。とても」
岩下さんはにっこり笑った。
チョコレートのように甘く、チョコレートを溶かすような温かい笑顔で、笑ってくれた。
『私、いつか言ってみたいの。私を食べて、って』
『残念ですけど、今の僕に食人の嗜みはありません』
『あら、食べてみなければ分からないじゃない。もしかしたら、私の体はとても甘いかもしれないわよ』
Melty