緩やかにいま堕ちていく
僕らは、途方もなく深く暗い沼の中で、互いを溺れさせながらもがいている。
「あなたは浩太じゃない。浩太じゃないのに……」
すすり泣く声すら、僕以外の耳には届きさえしないのだ。
***
昔、僕には兄がいた。
僕とは正反対に明るく朗らかな人物であり、引っ込み思案な僕の面倒を見てくれた、優しい兄が。
その兄は、屋上より墜落したことでその若い命を散らし、僕を含めた家族は深い悲しみに包まれた。
実に淡々と滞りなく進んだ告別式はよく覚えている。
兎角、大切な家族を喪った僕の心は、それ以来大きな空虚が幅を利かすようになったのである。
「浩太はすごくいい子だったのよ」
「死んだなんて何かの間違いなの……」
「浩太、浩太浩太浩太…」
肩に寄りかかった黒髪の、馥郁たる香りが鼻腔に滑り込んだ。阿片でも吸い込んだように軽くくらくらする。
「どこにいるの、浩太」
「……兄さんはどこにいるんですか」
彼女は答えず、左手を微かに震えさせた。
そして僕の首に手を回し、抱きつく。
僕もそっと彼女の背中に腕をかけて、黒髪を弄んだ。
さらさらと流れるように手の中を滑りぬけていく、滑らかな髪。
(そういえば、兄さんもこんな風に綺麗な髪をしていた)
「あなたと浩太は全然似ていないのに……どうして」
「……兄とあなたも、全く似ていませんよ」
けれど、どうして。
僕はこんなにも落ち着いてしまうのか。
彼女には昔、弟がいた。
真面目で素直な彼は高校に入ってすぐいじめられるようになり、次第に精神を病んでいったという。
愛しい弟の死に、気丈な彼女もだいぶ苦しんだらしい。
一体どれほどまでに弟を想っていたのか、その思いの丈を僕は知る由もない。
彼女は肉親の死という妄執に捕らわれ続けている。つまるところ、僕と少し似通っているのだ。
(兄さんは、今の僕を見てどう思うのだろう)
(きっと彼女の弟も、兄さんと同じことを思っている)
(だけどこの人はそれを知ることはない)
赤く腫れた双眸の、黒く淀んだ瞳の中に、僕がいる。
「……姉さん」
「やめて……」
抱きついた姿勢のまま、首を横に振ったのが分かった。
「ちっとも似てないわ……」
体に伝わる熱とは裏腹に、腕の中で縮こまる彼女の体は、ひどく小さく思える。
思いつめるあまり余計な重さまで背負ってしまっているような、重量を感じる。
「……ずっと浩太とこうしていたかった」
ああ、僕だって兄さんにこうされていたら、どれだけ安らいだことか。
「あなた、浩太には似ていないくせに、私とは似ているの」
「あなたこそ、兄には似ていないけれど、僕とそっくりです」
神様は残酷だ。
どうして彼女は兄に似ていなくて、どうして僕は彼女の弟に似ていないのだろうか。
せめて僕が彼女の弟に似ていたら、彼女はもしかしたら笑えたかもしれないのに。
(あなたに涙は似合わない)
(どうか僕の為に笑って下さい)
(あなたの泣き顔を見ていると、ひどく胸が苦しむのです)
Cry in the dark