熱病に至る
屋上に登るたびにいつも思う。
いったいこの世はどうなっているのだと。
若者、特に僕の周りの高校生は三月のウサギよろしく色恋にうつつを抜かし、あちらこちらでランデブーとアヴァンチュールに興じている。
あんな鬱陶しいもののどこが面白いんだろう、と感じる僕の心は日ごとに渇いていき、今ではこの屋上で雲を眺めるのに精を出すようになっていた。
ここはあまり、というより滅多に人が来ない。だから、僕はここが好きだ。
鉄柵に手をかけ、下界を見下ろす。
(好きな人もいたかもしれない。)
(だけど初恋なんて、とうに忘れてしまった。)
知り合いである日野さんに頼まれ、七不思議の集会とやらに出席することが決定したのは、もう一週間は前になるだろう。
放課後の時間を犠牲にする羽目になり、最初は面倒に思っていたものの、当日までにきちんと話を用意し、重い足を引きずるように新聞部室に向かったのを覚えている。
もうみんな来ているだろうか、という僕の予想は外れ、部室には一人しか来ていなかった。
(あ……)
滞った空気の中心にいるかのようなその女生徒を目にして、僕は立ちすくんだ。
墨汁を垂らしたような黒髪、それと対照的に白い肌といった美貌に目を奪われたのも事実だが、それだけではない。
声をかけるのをためらってしまうような危なげな空気をまとっている気がして、口を開くことができなかったのだ。
棒立ちになっていると、突然、ぴくりともしなかった彼女の視線が、僕の視線とぶつかった。
直感的に目を背けそうになったその前に、彼女の口が開く。
「あなた、新聞部の人?」
「……いいえ、違います」
「じゃあ、日野くんに呼ばれて来たのね」
それだけ言って、彼女は視線をそらした。そこでやっと呪縛が解けた気がして、僕は彼女の向かいにある椅子に座った。
「……今、何時か分かるかしら」
「さあ……多分、四時は回っていると思いますが」
「まだホームルームが終わっていないのかしらね。それにしても遅いったらないわ」
静かに、しかし明らかに憤りを含んでいるであろう声色で、そう呟く。
どうやら彼女は少し機嫌が悪いらしい。このままだと僕に被害が及びそうな気がして、何か気の利いた一言でも言った方がいいのかと思索していると、それを断ち切るような無神経さでドアが開いた。
僕と彼女、二人分の視線が同時に扉の向こうに行く。
「あれ? 君たちしか来ていないのか。まったく、新聞部は何をしてるのやら…」
知らない男子生徒だった。背の高さからして、おそらく三年生だろう。
いやに高飛車そうなその三年生は、ドアを閉めてスタスタと歩き、彼女の席と一つ離れた椅子に腰をかけた。
「んん? 君、綺麗な人だね。名前、何て言うの?」
僕の存在など忘れたのか、三年生はいきなり彼女を口説き始めた。
一体どういう神経をしているのだろうかという僕の疑問は知られることなく、彼女は気だるげに答える。
「岩下明美」
(いわした…あけみ。)
僕と彼女が出会ったのは、この日である。
──今日でそれから一週間。
いわゆるマンモス校であるこの学校で彼女一人を見つけるのは容易ではなく、普通に出歩いているだけで彼女の顔を見ることは全くなかった。
なぜ自分はこんなにも彼女に執着しているのだろう。
これが恋だというのだろうか?
(何て事だ、これでは今まで見下していた連中と同じ穴の狢じゃないか。)
そう考えても、彼女に出会ってからというもの心の渇きがすっかり潤いに満たされていることは否めない事実である。
僕は相も変わらず屋上にいた。相も変わらず、誰もいない屋上に。
空はすっかり夕焼け模様である。運動部の活動ももう佳境に入っている頃だろう。
そろそろ帰ろうと、足元に立てかけておいた鞄を取り、屋上の通用口の方を向いた瞬間、
(……え?)
黒髪を風になびかせた岩下明美の姿が見えて、僕は驚愕した。
「あら」
気楽な声――野良猫でも見つけたような気楽な声で、彼女が僕の存在に気づいた。
「荒井くんじゃないの」
「……どうしてここに」
「ちょっと忘れ物を取りにね。そしたら空が綺麗だったから、屋上に上がってみようと思ったの」
「そう……ですか」
いきなりの闖入者に、僕は緊張していた。
少しでいいから会いたいと思って
いる時にはいなくて、予想外の時に現れるなんて。
「荒井くん、いつもここにいるの?」
「え、ええ」
「屋上が好きなのね」
「ええ、まあ」
そこで会話が途切れる。
ふと、彼女の顔をうかがって見ると、彼女は空に物憂げな視線を浮かべていた。
淡いオレンジの光に照らされた顔は、そこだけが別の空間であるようにも思えて。
(綺麗……)
僕はその形容しがたい美しさに、縫いつけられたように動けなくなっていた。
「相沢さんはここから人を突き落としたんでしょう?」
気づけば、彼女の顔はこちらを向いていた。
二つの目から放たれる怪しげな視線が、僕をしっかりと射抜いている。
「あ…」
相沢さんは、確かにここで人を殺している。
薬を嗅がせて──殴って気絶させて――ここから、落として。
「忘れたの? あなた、集会で話していたじゃないの」
「そう……ですけど――相沢さんがどうかしたんですか?」
「あなたと相沢さんが、よく似てると思っただけよ」
「え?」
「人を突き落としたい……あなたもそんな事を思ってるんじゃないかしら」
「そんな冗談、」
冗談を言っている顔ではなかった。
集会の時に見せていた、あの冷酷な笑みが、貼りついたようにそこにあった。
「――僕は相沢さんとは違いますよ。だって僕は、人を殺したことがない」
「そうなの。だったら――私がここから飛び降りたら、悲しんでくれるかしら?」
そう言って、おもむろに柵に手がかけられる。
呆気にとられている内に、セーラー服が柵を乗り越えていた。
夕日に照らされた彼女の姿は、例えようもなく凄艶で―――僕はそこに世界の終わりを垣間見た。
「心残りなんてないわよ。いつ死んでもいいよう、日々を過ごしているのだもの」
「……岩下さん、」
「突き落としたって構わないわ。何なら自分で飛び降りましょうか」
「やめ……」
「やっぱり自分で落ちるわ。じゃあね」
彼女の片足が中空に浮く――
「――やめてください!」
「……面白い子だわ、あなたって」
頭上から声が聞こえる。
覆い被さった彼女の体が、僕の顔に影を落としていた。
「さすが男の子ね、私を引っ張っただけでこっち側に戻せるなんて」
体が熱い。日光に暖められたコンクリートの地面に焼かれているせいもあるが、それだけじゃない。
「ねえ、荒井くん。私がここから飛び降りようとしたことは、秘密にしておいてほしいの」
白魚のような手が頬に触れて、緊張を高める。
「いいかしら?」
「は……い」
「約束よ。絶対に破らないでね」
「は、はい」
破ったら、僕の命は無くなるも同然。
何度もうなづく僕を見て、彼女は満足げに笑うと、腰を浮かした。
「それじゃあね、荒井くん。またいつか会いましょう」
「…さよなら」
「さよなら」
何事もなかったかのように歩き去っていく彼女を見送ると、憑き物がとれたように思えた。
先程までの体の熱さが嘘のようだ。
(…恋は精神的な病。まさにそうだ)
やっと自覚した自分の鈍感さに恥じ、鞄に手をかけ帰途につくことを決めた。
(恋は病熱、ならば。)
(この病が進行したら、僕の体は癌のように蝕まれていくんだろうか。)
Fall,Fall