紅焼熊掌−熊の掌の煮込み−

 不吉な台詞を残した新堂さんを後に、私は廊下を歩いていた。
 窓の外の濃紺は黒へと変化していて、校舎内をさらに不気味に染め上げている。
 既に時間は七時を回っているだろうか、もしかしたらもっと長い時間が経っているかもしれない。
 私はバールを軽く振りながら、周囲に気を配りつつ足を進める。とは言っても、目的地は特にない。
 武器の調達は不必要だし、何かを探せと言われているわけでもないので、教室を見て回る必要もないからだ。
 そうなると、どこから来るかも分からない刺客の襲来を待ち受けるしか選択肢がない。
 福沢さんと新堂さんを撃退したので、残りはあと五人。果たして次は誰が来るのやら。
「んー…お腹空いたなあ」
 臨戦ムードをぶちこわすような一言を無意識に言ってしまった。
 そう言えばお昼から何も食べていない。それで晩ご飯のメニューを予想してたら気絶したんだった。
 今日の夕食の内容が切に気になる。家族は私を心配しているだろうか? こんな時間まで帰ってこなかったらさすがに心配してるよね。
 十二時までには帰りたいなあ…。お風呂も入りたいし。
 あーあ、なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないんだろ。
「日野の奴、マジで呪おっかな」
 許すまじ。あのくそ眼鏡野郎め地獄に堕ちればいいのに。地獄のサッカーにボールとして参加すればいいのに。そして鬼に尻蹴られまくればいいのに。
「くっそー、私が死んだら日野と愉快な仲間たちのせいだー!」
 私の怒声は廊下に空しく木霊した。…それがいけなかった。
 背後から足音が聞こえたのと、耳障りなモーターの駆動音が聞こえたのはほぼ同時。それに一瞬遅れて私の視線が後方に向く。
 そして、さらに一瞬遅れて私の口がぱっくりと開く。顎が外れたのではないかと思ったくらいの、大口。
 怒りに打ち震える私が呼んでしまったそれは、下手なお化けや幽霊よりも鬼気迫る雰囲気を従えて、暗い廊下の向こうからどたどたと駆けてくる。
「田口さぁあああぁん! 見つけたよォおおぉ!」
 その声とともに私の脳は臨戦モードに、否、逃走モードに移行した。
 自分でもよく分からない、文字にして書き起こすのは到底無理と思われる奇声を発しつつ、私は廊下を疾駆する。
 背後から迫りくるモーター音の正体。それは―――ああ何てことだろう、血に飢えたチェーンソーの雄叫びだ。
(やばいやばいやばい! あれに当たったら絶対やばいって! 運が悪いと首チョンパだって!)
 ああ神様。神様仏様ご先祖様、もうこの際悪魔様でも悪霊様でも教祖様でもいい。誰か助けて。
 そう願ったのが仇となったのか、私の悲鳴を聞きつけたのは後者だったらしく、意地の悪い結果が私の眼前に突き付けられた。
 むやみにオカルトに頼ってはいけない。私が生涯誓うと心に決めた瞬間であった。
「ひっ!?」
 電動鋸を携えた巨漢の殺人鬼から逃げる私を留めたもの、それは。
 長い前髪の下から陰惨な眼光を飛ばす先輩―――白い肌の猫背男。
「おや……?」
 そいつは、私を見て一瞬嬉しそうな顔をして、すぐにその表情を消した。
 後ろに余計なものがくっついていることに落胆したんだろう、露骨に嫌そうな顔だ。
(…しめた!)
 横をすり抜けてしまおう。新堂さんほど腕っぷしも強くなさそうだし、うまくいけば逃げきれるかも。
 ……そう思った私のなんと愚かなことだろう。ぶん殴りたい。
「のわぁっ!」
 セーラーの襟が掴まれ、私は間抜けな格好で転倒した。背中をしたたかに打ち、その痛みで悶える私の耳元で冷ややかな声がする。
「逃げられると思ったんですか?」
「あーーっ! ひどいじゃないか荒井君、その子は僕が先に見つけたのに!」
「捕まえたのは僕です。ですからそれの電源を切って向こうに行って下さい、集中できません」
 …辛辣だなあ、この人。同じ部活の人にも冷たいだなんて。友達少なそう、と直感的に思った。
「えー……」
「なんですか。いいから向こうに行って下さい。この人は僕が殺しておきますから」
 ギラリ、と、セーラーの襟を掴んだ手とは反対側の手が何かを持ち上げた。
 刃が30センチはありそうな、ごつい裁断鋏だった。……研いできたばかりのような綺麗な刃をしていたのは言うまでもない。
 ヒエッという声が喉の奥から漏れて口の中で反響した。
 チェーンソー男(名前を忘れた)はまだ未練がましそうな顔をしている。おもちゃを横取りされた子供のような、年齢に見合わない感じの表情が逆に不気味だ。
「…いやだ」
「……何か言いましたか?」
「いやだよ、荒井君!」
 チェーンソーがうなり、空気を切り裂いた。
 間一髪、襟を引っ張った荒井さんの方が素早かったおかげで、私は傷一つつかなかった。
「いつもいつも僕ばっかり我慢させられてるんだ、今日ぐらいいいじゃないか。ねえ荒井君、譲ってよお」
「…人にものを頼む時にはふさわしい態度があるのでは? それを抜きにしても、あなたに譲るのは嫌ですが」
「じゃあ荒井君を殺してでも奪っちゃうよ! せっかく友達になれるって思ってたのに、残念だなぁ!」
 奇天烈な笑い声とともにチェーンソーが振り下ろされる。
 それと同時に、私は彼の名を思い出した。
 ―――細田さん。あのメンバーの中では一番トロそうと軽く思っていたのが間違いだった。
 この人が今の所一番危ない。体が大きい分、危険度がさらに増している。狂気に精神を支配されてるようなものだ。
「荒井さん離して下さい! このままじゃ私死にます! 死んじゃいますって!」
 襟を離してもらえるかも、というささやかな希望は木端微塵に消し飛んだ。荒井さんは私の手を乱暴に掴み、なんと廊下を駆け出し始めたのだ。
(とうとうこの人までご乱心!?)
 鋏男に手を引かれて逃走、追手は太ったチェーンソー男という、ホラー映画もびっくりな状況に身を置かれている私はなんなのだろうか。
(神様、いっそ今日をやり直してー!)
...
Top
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -