「今のうちにトイレ行っときな、三月」
「了解っす」


深夜か早朝か判断のつきにくい時間帯。あたしと先生と三月は空港にいた。少し早く着きすぎたこともあってか、あたしたち以外に人がいない。ガラス張りの外は真っ暗で、こんな時間帯のフライトを好む人間もいないだろうと、そう思えた。
ふわふわした軽やかな足取りで三月はお手洗いへと向かう。クラゲが宙を浮いているみたいだ。外が暗いこともあってか、まるで深海のよう。クラゲが深海にいたかどうかは定かではないけど。


「口の調子はどうだ、騒禍」
「だんだん感覚戻ってきた」
「ならよかった、さっきの薬が効いたみたいだな……」


ソファに座るあたしと先生。公衆電話や消火栓の赤いランプが視界にちらつき、薄暗いあたりを不気味に彩る。
着慣れたカーキのミリタリーコートが肌寒い。このコートはこんな寒い地域には適さない。割と薄手だし通気性もいやに抜群だ。


「寒いなあ」
「そんなカッコしてりゃなあ」
「先生だって割と普段着じゃん。お互い様だよ」
「俺のはこう見えて結構あったか素材なんだよ」
「まず先生の髪型が炎盛りだからね、バッチバチだもん」
「静電気で立たせてんだよ」
「本当にバッチバチだったか」


先生は眠たげに欠伸をしていた。こんな時間帯に無理に起こされたならそれも頷ける。


「なあ騒禍」
「ん?」
「頼むから、もう勝手に外出たりしないでくれよ」
「いいよ」


あたしの即答に、先生は目を丸くさせた。


「わかった、もう先生を困らせたりしない、家にいる」
「……………」
「どうしたの、そんな顔して、そうして欲しかったんじゃないの? 先生」
「…………いや、まあ、そうだけどよ」
「第一。だからこうやって家に帰ろうとしてるんじゃない。うたぐり深いなあ先生は」


あたしが微かに笑うと、先生は何も言わず、ただじっとこちらを見つめてくる。
視線はまるで羽根箒やわたあめのようで、どこか居心地が悪い。背筋に鳥肌が走った。


「なに、先生」
「いや、なにって」
「背中がむず痒くなるようなことをしないでよ。手が届きそうで届かないこの痒み、まったく、猫の手でも借りたい気分」
「そこは孫の手だろ」
「猿の手でも借りたい気分」
「どんな気分だ」
「憂きー」
「お前寒いわ」


そうだよ、寒いんだよ、と。
あたしは肩を竦めた。
そしてそこで。
いきなり携帯が鳴った。
あたしの携帯だった。
携帯の初期設定に含まれているバレエ楽曲、『くるみ割り人形』の中の一編、『葦笛の踊り』のサウンドである。


「お前……空港では電源切ろよ」
「まだ機内じゃないからいーの」


えっと……誘くん?
携帯には“カンパニー”の文字。プライベートではなくカンパニーの電話からかけてくるなんてどうしたんだろうか。
あたしは少し考えたあと電話に出る。


「もしもーし、ディスイズ騒禍スピーキン」
『ディスイズキューテンキュースピーキン』
「はぁ?」


意外な人間からの電話にあたしは驚いた。てっきり誘くんかと思っていたのに、まさかその秘書、キューテンキューだったとは。
受話器の奥では『おい、ユラユラするな』『すみませ〜ん』なんて会話が聞こえてくる。この腑抜けた声は、電話番の音無無音のものか。


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