夢患いの診療録 | ナノ
最奥が夢馬 1/5

 枕部まくらべ狩月かづきという男子生徒がいる。
 保健委員を務めており、保健室のベッドのそばでお手製のアロマキャンドルをとぼし、環境音楽を室内に流しながら、アイマスクの配布を行っている。どこぞのカルトへの勧誘を行っているのでは、と生活指導の教師から苦いお叱りを受けた際、「そんなにカリカリしてますけど、なにかストレスでもあるんですか?」なんていう、お前がストレスだよ≠ニ打ち返されること必至の特大魔球を投げかけた、意気軒いきけん高校の二年生だ。
 そんな、奇っ怪でうさんくさい男子生徒は、なにを隠そう僕である。
 桜も散った瑞々しい五月の、新たなクラスに慣れ始めるこの時期に、先のエピソードを聞きつけた同級生から、僕は遠巻きにされていた。ひとたび僕が廊下を歩けば、周囲はおずおずと道を開け、話しかけようものなら、相手は携帯スマホのバイブレーションさながらの挙動不審に陥る。生来の唐変木と口下手が祟った結果だった。
 そして、その生来の欠点が祟り散らかした末、僕はいま、お馴染みの保健室にて、ベッドに横たわる、クラスでも一番に気のいい同級生男子を前に、医療器具ちょうしんきをかまえている。
「僕がいい夢見させてやるよ」
 これは何プレイでもないことだけは、釈明しておく。
 話の発端はあの日に遡る。







 眠気を逆撫でるような、風の強い午後だった。草木はしなやかに揺れ、足元三十センチには砂埃が立ちこめている。
 そんな乾いたグラウンドを、蹴られたボールが右往左往する。幾人の足に弾かれてきたそのボールは、ある男子生徒のもとへと渡ったとき、勢いよくゴールネットへと吸いこまれた。どこにも反射しない、空の高さに負けるほどの歓声が、僕の鼓膜をしゃらしゃらと揺らした。
 現在、意気軒高校二年の体育授業課程ではサッカーを学んでおり、持ち時間いっぱい、運動のできる生徒とサッカー部の生徒がパスを回しあうのが通例だ。そして、運動の得意でない生徒は空気を読み、サポートに徹する。僕は、得点板の数字をめくる係だった。
 サッカーはそんなに点数の動く競技ではない。おまけに、僕のチームは負けペースだったので、僕はほとんど棒立ちの状態だった。広いグラウンドを縦横無尽に走る彼らをじっと見ているだけ。ついさっき華麗なゴールを決めた、爽やかな風貌の男子生徒が、また得点を入れた。これも、相手チームの得点。悔しそうな声を上げる僕のチームの傍らで、その男子生徒はチームメイトとハイタッチをしていた。鬼林おにばやし駆矢かけやという、弓道部のエースだ。
 鬼林は運動神経がよく、なんでもこなせるやつだった。弓道部なんていう玉蹴りとは無縁の部活に所属していながら、高い身長を存分に活かしたパフォーマンスを発揮している。
 元々、「小学校のころはクラブチームのバスケをしていた」うえ、「中学ではサッカーをしていた」らしく、今回の活躍もさすがといったところなのだとか。僕とは反対チームの得点を管理している二人組が話しているのを盗み聞いただけなので、よくは知らない。一度眠れば忘れそうな情報だ。
 ぼんやりと試合を眺めていると、鬼林の足が、クラスメイトの足に引っかかった。足を動かしあうサッカーではよくあることだ。バランスを崩した鬼林は地面に倒れそうになる。
 しかし、そのすんでのところで、鬼林はタッとステップを踏むように体勢を立てなおした。
 お見事、と思ったのも束の間、彼方から飛んできたボールが顔面に直撃。ぶん殴られたような重い音が響き渡る。
 数人が場外へと弾かれたボールを追う中、鬼林は片手で鼻を押さえ、立ち止まっていた。大きな手の下から、つうっと、血が垂れる。その様子を見て、幾人かが鬼林へと駆け寄った。
「げっ、鼻血じゃん。大丈夫か、鬼林」
「ああ」鬼林は体操服のポケットからティッシュを取り出す。「でも、なんかだせーな」
 鼻をティッシュで押さえる鬼林に、一人が「悪い。俺のせいだ」と申し訳なさそうな顔をした。鬼林の足を引っかけた男子生徒だ。鬼林は快活に笑って、「関係ないって。むしろ、転びそうになったときの俺、かなりかっこよかったくない?」と返す。馬鹿言ってんな、と肩を小突きつつ、その男子生徒は笑った。
 その様子を眺めながら、いいやつだな、と僕は思った。怪我を笑いに変える愛嬌と、相手の罪悪感を払拭する優しさが、鬼林にはある。男子体育の怪我なんて、ドライに片づけるのがほとんどなのに、鬼林の周りにこうもひとが集まるのは、ひとのよさが理由だろう。
 場外に押しだされる鬼林に、僕の隣で得点板を管理していた二人組まで、「ドンマイ」と声をかけていた。
「全然止まんないな、血」
「保健室行けば? 先生には言っとくし」
「そうするわ。鼻血って、冷やせばいいんだっけ。上を向けばいいんだっけ」
「……どっちも違う。とにかく根元を押さえて、安静にする」
 鬼林が呟くように言うので、僕はそれに返した。
 そんな僕の発言に、二人組は「ぎょっ」としていた。
 鬼林はきょとんとした顔で「そうなの?」と首を傾げた。
「詳しいな、枕部」
「僕、保健委員だし。それと、五時間目のこの時間は、保健室から先生が出払ってることが多いから、もしかしたらいないかも」
「まじかー」
「中に入れるとは思うけど、手当の方法とか救急箱の場所とかわかる? ついてこうか?」
「え、いいの? じゃあ、頼むわ」
 今度は、屈託なく答えた鬼林に、「ぎょっ」とする二人。僕と鬼林が背中を向けるのを、なにか言いたげに、しかし、決して口は開かぬまま、見送った。
 グラウンドから保健室までの距離は、そう遠くはない。運動場を出るための階段を上ると、生温くなったマーガリンのような色をした校舎が見える。保健室はその一階だった。
 昇降口から中に入るよりも、テラスのように外部と接する裏口から入ったほうが、歩く距離を短縮できた。そもそも、廊下側の扉には先生も鍵をかけるが、こちら側をかけ忘れることは多い。先生が退席していても使用できる唯一の入り口だった。
 道中、白詰草の密生を踏みわける必要があったが、地面は徐々に土気が多くなっていく。何年も前から、このルートで保健室を訪れ、緑を踏みわける人間がいたのだ。先達に則って歩いてゆけば、教室のドアとよく似た、硝子窓を嵌めこんだ銀扉の前に出る。
 僕は運動靴を脱ぎ、その扉を開けた。無遠慮に中に入っていくのに続き、鬼林も室内に足を踏み入れる。僕が適当に座るよう促すと、鬼林は、ベッドが並ぶエリアの真ん前にある、パッチワークキルトのソファーに腰かけた。
「やっば……ティッシュ真っ赤」
「いま新しいの出してるところ。血はすぐに止まるとは思うけど、もし、三十分経っても出っ放しだったら、さすがに病院行って。けっこう強くボール当たったみたいだし」
 衛生のため、保健委員は保健室にいるとき、白衣を着なければならない。ラックにかかっている白衣に袖を通し、ま)っさらティッシュボックスを鬼林に差しだした。冷蔵庫のスポーツ飲料も、コップに注いで渡してやる。保健室の利用者のために冷やされたものであることは知っていたのだ。ついでに僕の分も注ぎ、ソファーの前のテーブルの上に置く。
 デスクの棚からカルテを引っぱりだした。保健室には、怪我の報告書みたいなのがあって、先生が不在の折はそれを提出しなければならないのだ。僕もソファーに腰かけて、カルテにある今日の日付、時刻、怪我をした経緯などの項目を、シャーペンで埋めていく。
「鼻血は、貧血でぼうっとすることもあるらしいけど、鬼林は大丈夫?」
「なんか眠い」
「血が止まったらベッドで横になりなよ。先生には言っとくし」
「んー、大丈夫。最近、寝不足気味なんだ。貧血っていうか、それが原因だと思う」
「……寝不足?」
「そうそう。寝てはいるんだけどな、なーんか寝起きが気怠いっていうか」鬼林はおどけるように続けた。「これって五月病ですか? 保健委員」
 僕はシャーペンを走らせる手を止めた。
 空を飛ぶ飛行機のエンジンの音が消えていくほどの間。近くの物音よりも、遠くの音が感じられるような沈黙のあと、僕は「そういえば、」と切りだした。
「よくポケットティッシュなんか持ってたね、鬼林」
 僕の突飛な発言にも、鬼林は「ポケットに入れてるティッシュだからポケットティッシュって言うんだろ」と事もなげに答える。
「僕なら、体操服のポケットには入れない。まるで、鼻血が出るのを予知してたみたいだ」
「あー……」鬼林は口ごもり、逡巡、口を開く。「鼻血を出す夢を見てさ。実は、最近、見た夢の出来事がよく未来に起こるから、今日もなんかあるかも、と思って、体育のときも持ってたんだよ」
 僕は「……へえ」と、鬼林に視線を遣る。
 日差しに照らされ、染めたことのないような黒い短髪や、健康的な肌が、真っ白く輝いていた。鼻の周りには生乾きの赤がこびりついていて、眩いほどの白の中で際立っている。
 シャーペンの先を、カルテの備考欄へとスライドさせる。
「ちなみに、それはいつから?」
「ん? えーと、いつだっけ。四月に入ってからかな」
「どんな夢の内容?」
「はじめはいろんな夢だったよ。失くし物が見つかるとか、小テストの範囲とか、天気予報が外れて雨が降るとか。今日みたく、どっか怪我をするとか」
「その夢は痛みや苦しみを感じる?」
「そうそう、けっこうリアルなんだよ。ちょっとしんどいくらい。寝た気がしねーの、もしかしたらそのせいかもな」
「起きたときに引きずるくらい? 目覚めても、鼻血が出るんじゃないかって、気にしてしまうくらい?」
 からかわれていると思ったのか、鬼林は「悪いかよー」と苦笑いした。
 僕はカルテへと視線を落とし、備考欄に走らせた文字を指でなぞる。
 継続する未来予知。
 寝不足気味。
 現実との併呑。
―――うん。悪いね」
 僕の呟きに、鬼林は吐息のような声を漏らして固まった。双眸は見開かれ、困惑に揺らぎながら僕を射抜いている。
 開けっ放しにしていた銀扉から、産毛を揺らすばかりの風が吹く。青白んだスポーツ飲料の淵には、玉の緒のような気泡。一つ、二つと、儚げに消えていった。残るはあまりにも静かに凪いだ水面。石を投げ入れるように強く、僕は鬼林に言う。
「……予知夢は、さして珍しい夢じゃない。僕の知ってる人間にも一人、予知夢を見るやつがいる。だけど、そいつのは良性の予知夢だった。お前のそれは、おそらく、悪性の夢。つまりは悪夢だ」
 鬼林はおもむろに眉を顰め、「枕部?」と尋ねる。
「まだ軽度のものだから、自覚症状は薄い。だが、進行するにつれ、症状は悪化していく。悪夢の根源をなんとかしないことには解決しないけど、いまは初期治療でじゅうぶんなはずだ」
「……枕部?」
「手っ取り早いのは生活習慣の見直し。過度なストレスを避け、睡眠の質も上げること。常時服用している薬があるなら、精神神経系の副作用があるか調べたほうがいい。あとは、サプリメントを飲むとか。とにかくノンレム睡眠の時間を長くする必要がある。それから……ああ、そうだ」
 僕は立ち上がり、デスクの近くにある戸棚へと近づく。戸を開け、先生に頼んで保管してもらっている私物入れから、目的のものを取りだした。
「アイマスク。やるよ」
 鬼林は押し黙った。まるで石膏像のような沈黙。薄く開いた唇を動かすことなく、あるかなきかの吐息をするだけだった。
 数瞬ののちに、にっこりとした笑みを浮かべ、「心配してくれてんのな。サンキュ!」と鬼林は返した。しかし、アイマスクを受け取るそぶりはない。僕はもう一度強く差しだしたが、鬼林は「お、血が引いてきたかも。そんじゃ、俺、先に戻ってるから」と保健室を立ち去っていく。
 僕は、忙しないその背中を見送るだけだった。手に残ったアイマスクを見つめたあと、カルテに視線を移す。
「馬の耳に念仏ね」
 突如、背後から玲瓏な声が響いた。
 腰かけているソファーの後ろにあるベッドに、僕は目を遣った。カーテンで遮られていて、中の様子は覗けない。声のあったほうのベッドへと近づき、勢いよくカーテンを解放する。
 そこには、やはり、猟ヶ寺りょうがでら水散みちるがいた。




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