名無しの画家の知恵と約束 2/8



「アイオネ、君も先のことを考えたほうがいいんじゃない?」ハロルドは冷静に示唆した。「ふられて傷心気味なのはわかるけど、君は画家なんだろう? なら君は、絵を描くしかない」
「わかってるさ」
 だからヒストリカも夜にあんな話をしたんだろうと、アイオネは確信していた。
 あのときは、自分のことを考えてくれたんだと、嬉しく感じていたのに。
 全くその通りに歩んでやるのは癪だったが、どうにも魅力的な話だったので下手に反骨するのも躊躇われる。だからといって、割り切れずに引きずってしまうのが人間だ。
 失われた初恋に再会して、もう一度恋をして、そして二度と消えてしまった。
 これ以上の不幸があるだろうか。
 中途半端に、無惨に引き千切られた情熱は、きっとこの先も祟る。黄金オーレオリンの絵の具をパレットに出すたびにその髪を思い出し、顔料の青金石ラズライトを砕くたびにその瞳に思いを馳せる。いつの世も変わらない。描いたものよりも、描けなかったものに執着してしまうのだ。届かないというのは、それだけで魔性である。あの真っ白い『大魔女』の前に立ったことのあるアイオネには、それがよくわかっていた。
「しばらくはここにいてもいいよ」ハロルドは善意を以てアイオネに言う。「ご存知の通りベッドには空きがあるし、なにより、君と話すのは楽しいからね」
 アイオネは答えられなかった。答えられなかったというほうが正しい。いきなりこんな状況になってしまい、思考が鈍っていた。この状況にすぐさま適応できるハロルドのほうがおかしいくらいだ。
 結局、自分がどうするべきか探るように、アイオネは外へ出ることにした。
 やはり、町中がヒストリカ=オールザヴァリの復活の話でもちきりだった。耳を傾けるまでもなく流れこんでくる。消えた『大魔女』、現れた《大魔女》に対する興味に尽きていない。たとえ嘘であっても面白い、と言ったところだろう。もうこの際『大魔女』消失云々はさておいて、面白い展開になってきたと胸を弾ませるばかりだ。
 アイオネはそれらを無視して歩き進めた。
 論じ合う大人たちとは打って変わって、子供たちはいつも通りの遊び盛り。何人かの少女がきゃらきゃらとした笑顔でロンメルポットと縦笛を奏でる。それよりも背丈の小さな子たちは煉瓦を積んで戯れたり、しゃぼん玉を吹かしたりしていた。
 アイオネはぷかぷかと町へ広がっていく泡の宝石を見つめる。
 べらぼうに大魔女の復活を囁く大通りを歩くより、暢気にしゃぼん玉を吹かす子供たちといるほうが正しいことのような気がした。ふっと苦笑に肩を落とし、アイオネはしゃぼん玉で遊ぶ子供たちに近づいていく。
「面白いことしてるな」
 バケツにしゃぼん玉液を作り、手作りのストローを吹かしていた子供たちのうちの一人が、近づいてきたアイオネに警戒の顔を見せる。一番年嵩の、地味な色のワンピースを着た少女だった。
「まさかパパとママに告げ口する気?」
「おやおや、どうしてだ?」
「勝手に家の洗濯糊と石鹸を持っていっちゃったから」
 なるほど。しゃぼん玉液に使った材料のことを言っているのだろう。表面に薄い虹色の膜を浮かべる液体を見て、アイオネは悟った。
「いい方法がある」アイオネは続ける。「君たちのパパとママよりも先に、俺と仲良くしよう。俺は友達を売らない男だぜ」
 子供たちはしばらく顔を見合わせたあと、嬉々とした表情でストローの一本をアイオネに渡した。それをアイオネが食むと麦藁の匂いと風味が口に広がる。
「お兄ちゃん何者ー?」
「通りすがりのしゃぼん玉の妖精だ」
「しゃぼん玉の妖精ってなにができるの?」
「双子のしゃぼん玉を作れる」
 アイオネがぷくうっと二つ繋がったしゃぼん玉を吹かす。
 それを見た子供たちは「つまんねー」と口を揃えて言った。
「お兄ちゃん僕たちと遊ぶくらい暇なの?」
「おうとも。暇だぞ。むしろ世の中忙しすぎるんだよ」
「朝から騒がしいもんね」
「大人って大変。私だったら新聞よりも教科書を読むほうが勉強になると思うのに」
「さてはお前さん、しっかり者だな? 洗濯糊と石鹸をくすねた悪党とは思えないほどだ」
「消えたり現れたりするひとより今晩のごはんのほうが気になるよ。あと明日のおやつ」
「兄ちゃんヒストリカ=オールザヴァリって女のひと知ってる?」
「知り合いだ」
「そっかあ」
 アイオネはしゃがみこみながら吹かし続けた。しゃぼん玉液の出来がいいのか思ったよりも長く宙を舞う。久しぶりに遊んだがなかなか楽しい。赤い輪郭の中に景色を映しこむ緑と青紫。光沢のある黄色へと色を変え、輝くような透明になった瞬間にぱちんと消える。儚い遊びだが、平和で暢気な時間だった。荒んだ心が穏やかになる。宙に浮かんだしゃぼん玉とのどかそのものの空を見つめる。
「次はこれを描くかなあ……」
「兄ちゃん、白詰め草の茎で作った輪っかがあるんだけど使う?」
「よしきた」
 しゃぼん玉を作る媒体としてはなかなかに大きいその輪っかを受け取り、バケツに突っこんだあと扇ぐように振るった。アイオネの頭以上の大きさのあるしゃぼん玉がぶくぶくと膨れ上がり、危なげに漂っていった。子供たちは歓声を上げる。
 そのしゃぼん玉をゆったりと目で追っていくと、驚愕すべきものがアイオネの視界に入ってきた。思わず身を隠すように子供たちの背後へ下がった。
「兄ちゃん?」
 返事などできず、アイオネは視界に入った人影をとくと見つめ、目を逸らせずにいた。
 一人は物静かそうな男だ。左目を隠すほど伸びた黒い前髪、俯きがちな視線。もう一人は甘やかされて育ったかのような鼻につく風貌をしている。栗毛にグレーの瞳を持つ彼は、金ボタンが煌めくフロックコートを着こんでいた。間違いない――《裏切りの魔法使い》・ザッカリー=レヴェリッジと、《背徳の錬金術師》・ドリスタン=ナヴァロだ。
「……おい」動揺のせいかアイオネの声は少しだけ震えていた。「俺は友達を売らない男だ。お前らはどうだ?」
「うーん。そうねえ。私のママはとっても美人なんだけど、お兄さんはどうする?」
「洗濯糊と石鹸が消えたと勘違いしているだろうから、それは夢だと説いてやるな」
「なら私たちも売らないよ。だって友達だもんね」
「君は将来いい女になるぞ。間違いない」
 知ってる、と少女は笑った。
 アイオネは口元に人差し指をあてながらそろりそろりとその場を離れる。
 幸い、あの二人はアイオネに気づいていないようだった。アイオネの顔を覚えているかは怪しいところだったが警戒していて損はない。二人からは見えない建物の影に隠れ、軒先の下から様子を伺う。
 二人はなにやらあたりを伺っていた。まさか匂いで自分を追ってきたのではと思ったが、完全に匂いは消している。念のために、アイオネはもう一度、体臭を確認してみたが、やはり香水の強い匂いしかしない。芳しさを前に、体臭はあっけなく敗北している。
 ならば何故こんなところに――と、よくよく考えてみてみると、そうおかしなことでもないことに気づいた。彼らも言えば人の子だ。普通に生活もするだろう。たまたまこの町のこの通りで目的の店を探しているのかもしれない。たとえば肉屋でビーフを漁り、いい野菜やポテトなんかを探している可能性もある。欲深ければ、ワインにあうチーズも必要になるだろう。となれば、彼らの夕飯は赤みのビーフステーキで決まりだ。
 警戒して損したとアイオネは踵を返そうとしたが、一歩踏みこんだところで足を止める。
 だけどいまもなお、ヒストリカが二人の手の平の上だとしたら?
 ハロルドが囁いた言葉が滲むように思い出された。
「……まさかなあ?」
 でも、もしそうだとしたら。
 ヒストリカが消えたことと、二人が現れたことに、なにか関係があるとしたら。
 アイオネは意を決して歩みだす。少し目を離しただけだというのに、二人の姿はどこにも見えなかった。無論、撒いたつもりなんて彼らはこれっぽっちもないだろうが、アイオネは「やられた」と舌を打つしかなかった。
「……あ」
 そこで、アイオネは思い出す。
 がさこそとポケットを漁っていれば、運よくそれは見つかった。
 ヒストリカに寝こまされていた際、手慰みに描いた、ザッカリー=レヴェリッジとドリスタン・ナヴァロの似顔絵だ。
 意外にも、その顔はよく描けている。一目でも彼らを見たことのある者は、一発で判断できるくらいには、似せることができていた。
 その似顔絵を手がかりに、アイオネは地道に二人を探していった。二人が向かっていった方向を中心に、すれ違う人々に似顔絵を見せて、そこから枝分かれする箇所を地道に。もうほとんど探検で、そして立派な探偵業だった。アイオネは数時間かけて周囲を調べた。
 もしも本当に、彼ら二人にヒストリカが捕まっていたとしたら。
 そう考えると恐ろしく、その行為をやめようとはどうしても思えなかった。
 けれど、結果は言うまでもなく明らかだ。もし下手に見つけていたとしたらいまごろ無事では済まない。運がよいのか悪いのか、アイオネは平和に昼を棒に振った。
 もう無駄かと、アイオネは来た道を戻る。
 賑わいのある通りへ行けば、人の流れは一方通行に、とある場所へと向かっていた。
 不思議と騒がしい。賑わっているのではなく、騒がしいのだ。不審なくらいのざわめきにアイオネは眉を顰めた。
「あっ、さっきの兄ちゃんだ」
 その人の流れとは逆方向に歩いている子供たちを見つける。親にでも見つかったのか、さっきまで吹かしていたしゃぼん玉遊びから引き上げるところだった。
「もう帰るのか」
「うん。帰れって言われた。お前たちは見ちゃだめだって」
「見ちゃだめ……?」アイオネは雑踏を見回しながら呟く。「この先になにかあるのか?」
「そうだよ。聞いてないの? 町の掲示板の壁新聞でも発表されてたよ」
 アイオネは町を隈なく歩き回ったので情報を聞き逃し、見逃していたふしがある。だから気づかなかったのだ。時間を気にすることもなかった。今はもう、夕刻だ。

「ヒストリカ=オールザヴァリがこれから処刑されるんだって」

 アイオネは駆けだす。
 目指すは人の流れの向かう先。好奇心で強張った背の数々を押しのけて。
「嘘だろ、嘘だろ……っ!」
 ほとんど無意識に、そんな乱暴な声が、アイオネの口から飛びだす。
このざわめきの意味に、早く気づくべきだった。
 公開処刑――元は見せしめのために行われた形式だったが、いまや民衆にとっての娯楽だ。
 処刑を行う広場には多くの民衆が集まる。場所が刑場という点以外ではイギリシア地方も似たようなもので、見物客があまりに多く、圧死する事件まで起きたほどだ。発表から執行までに時間がなかったため今日はそうでもないだろうが、もし日を改めていれば広場どころか近くの建物一体が見物客で貸切状態となったはずだ。行為としては褒められたものではないので、見るに堪えない者は広場を避け、親は幼い子供たちを家に帰す。そして、多くの希望者は広場へ集う。
 広場のほうへ向かうアイオネの足がぴたりと止まる。
 止まらざるをえないほどの人の群れが広がっていたのだ。
 本来なら公開処刑など興味もないであろう者たちまで集まっている。それどころか、処刑状況を素描しようと用意している者までいた。大盛況のお祭り状態。さすがの大魔女は大人気だった。
 アイオネは回りこんで、入ることのできそうな場所を探す。



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