はじめまして 1/4


――重力を、時限を超えて、別の世界へ行ったとしても、おかしなことではない。
 私はあのひとの言葉をぼんやりと思い出していた。
 目の前にいる等身大のセレナは興奮に目を見開かせていた。けれどすぐに正気を取り戻したような顔をして、倒れている私に近づいてくる。え、近づいてくる? あのセレナが? 夢の中の女性が? え? え? ちょっと待って。私は手をついて上半身だけ起き上がった。そんな私の顔を彼女が覗きこむ。
「…………怪我は、ない?」
 たっぷり間を持って放たれた声は、鼓膜を震わせたことなんてないくせに、やはり懐かしかった。美しい音だった。
 緊張しているのか顔が強張っている。
 それは多分、私も一緒だ。
「……平気」
 私の言葉にセレナはほっと肩を緩めた。それからぎこちなく目を合わせて、ゆっくりと口を開く。

「「はじめまして」」

 私も同じ言葉を同時に吐いた。見事に重なりシンクロした音は夜の町によく響いた。
 セレナは数瞬固まったけど、まるで解き放たれたかのように顔を綻ばせる。
「サヨ! サヨよ! 会えた! 貴女に! 夢でなく、本当に!」
 セレナは私を抱き寄せて叫んだ。こんなに明るくて大胆な女性なんだ。鼻孔をくすぐる匂いにときめきながら、私はまだ現実に追いつけないでいた。逸る鼓動を振り切って、私は口を開く。
「ねえ、なんで、だって貴女は私の夢の中のひとなのに」
「あら。あたしにとっての貴女も夢の中の女の子だわ」
「もしかして私は夢を見ているの?」
「もしくはあたしが夢を見ているのかも」
 私たちは同時に相手の頬を抓ってみた。
「痛い?」
「痛くない。貴女は?」
「痛くない。だってセレナの手、震えてて力籠ってないんだもん」
「そう言うサヨこそ。こんな触っただけで抓ったつもりなのかしら?」
 私たちの声は跳ね上がるように震えていた。お互いに、頬はみるみるうちに吊り上がり、耐えきれずに呼吸が漏れてしまう。
 もうどうでもよくなった。言葉による説明はいらない。目の前に彼女がいる。それだけでいい。私たちは二人とも全てを悟っている。伊達にずっと同じものを見てきていない。
 セレナは私の頬をそっと撫でる。そして親指を目尻に寄せて、まだ乾いていなかった涙をくいっと拭った。その行為に、自分がいまどういう状態なのかを思い出してしまった。
 光だけがぼやけた視界。瞳の湿気は振り払えないみたいだ。私の目にはまだ鮮明な輝きが見えない。きっと心も暗いまま。思い出せば思い出すほど肩が沈んでいく。
 そんな私を心配そうにセレナが見つめる。
「……痛い?」
 頬じゃない。そういうすぐに見えるところじゃなくて、服を無理矢理に剥かなければ見えないようなところのことを、セレナは言っている。
 そこを痛める私を誰もがおかしいと言った。もしくは、痛めないことを当たり前として私と接した。その心の差異に私は何度も何度も口を閉ざさざるを得なかった。
 セレナが切なそうに、堪えるように、自分自身の胸を押さえた。
 同じ感情を分かち合う私たちには同じ感情が宿る。お互いの。私の肌寒い感情を彼女にまで背負わせているのかと思うと、それだけでまた沈んでしまいそうになった。いけない。負のリピートだ。遠くのほうからまた甲高い鳴き声が聞こえるのもきっと幻聴じゃない。
「ずっと見てたから、あたしには、あたしだけにはわかるわ。サヨ」
 誰もわかってくれない。幸せは強制される。励ましてくれるけど慰めてはくれない。
 そんななかで、誰よりも私の胸に強く響いたのは、セレナの言葉だった。

「貴女は、悲しいことを悲しいと思えないことが、こんなにも悲しいのね」

 決壊したものがもう一度こぼれる。今度は静かにではなく、確かな嗚咽を漏らしていた。
 癇癪を起した赤ん坊のように泣く私をセレナは優しく抱きしめてくれた。本物の同情が流れこみ、分かち合う切なさが流れこみ、そして大きな愛しさが流れこむ。大丈夫よ。あたしが守るわ。なんの心配もいらないわよ。すぐに行くから。私が一方的に感じているだけの温かな思いのはずだった。けれどそれが、夢の隔たりを超えて、じかに押し寄せる。心臓(ハート)に蔓延るものは、もう悲しみではなかった。私自身が、熱く迸るように浮かび上げられる。これが何物なのか、私は知っている。何度も何度も間接的に味わってきた。そしてこの世界の誰もが永久であるように望んでいるもの。
 私の喉が叫ぶ痛みが解けたそのとき、新たな嗚咽があたりを囲んでいた。
 それもいくつも。狂気的な泣き声だった。一番手前にいる長い鼻と大きな耳を持つピンクの怪物が、今にも襲いかかってきそうに体を震わせている。ついさっきまで沈みきりだった心が呼び寄せた悪魔。桃色の制度。不幸の象徴。
 セレナは目を見開いていた。
 私は転がっていたハルバードを持って立ち上がる。それを見てセレナも銃を構えなおすけれど、見慣れないそれらに気を焦らせているのは間違いなかった。現れたときに倒したやつらは彼女を見ていなかった。背を向けている獲物を倒すなんてのは容易い。けれど今は違う。感じる恐怖も一入だ。しゃなりしゃなりと歩み寄り、不気味な顔で近づいてくる。
「Pink-elephant(まぼろし)……?」
 セレナ呟きのあと、すぐにピンキーは攻撃してきた。間一髪でそれを避けて、私はハルバードを振りかぶる。トンと跳んでピンキーの肩に着地。首を刎ねるように刃をかざした。
「そんなかわいいものじゃないよ」
 飛沫を上げるように消えていくピンキーから離れる。でもこれで終わりではない。奥にはまだまだ鮮やかな影が見える。
 私はセレナのほうへと振り向いた。
「幸福な世界にようこそ」
 ピンキーが大声をあげて襲ってくる。セレナはピンキーの目玉を確実に狙い撃ち、私のサポートをしてくれた。視界を奪ってふらふらとするピンキーの懐に潜りこみ、ハルバードを振るう。小物のピンキーは銃でも十分殺すことができる。私たちは二人きりで次々とピンキーを倒していった。
 少しでも気を抜けば死んでしまう。私が魔法の注射(くすり)で抑えこみ、忌避していたセレナがずっと感じていたもの。いきなりなくなるわけがない。私の膝はふとしたときに震え、握る力を緩めるとハルバードはどこかへすっぽ抜けそうだ。セレナも似たようなものだろう。彼女の世界には存在しない化け物相手に、ここまで冷静に対処できているだけでも十分と言える。
 私はハルバードのピックを手前のピンキーに引っかけ、そこを軸に回りこむように回転、奥のピンキーに蹴りを食らわせる。吹っ飛んだピンキーにセレナの銃はとどめを刺し、私は引っかけていたピンキーを遠心力を用いて地面に叩きつける。銃の弾倉を入れ替えている彼女を庇いながら攻撃を続ける。彼女が目配せをしたとおりに私はハルバードを振り上げだ。私のハルバードの斧部に飛び乗った彼女を宙にぶん投げ、発砲することで助力を強める。ふわりと高く浮いた彼女は大きなピンキーの肩口に乗りこみ、頭を真横から連続発砲した。ぐらりと倒れるピンキーの奥から飛びこんできたもう一匹を私が仕留める。彼女は私が動きやすいように身を屈めていてくれた。
 少しでも気を抜けば死んでしまう。
 だというのに、私のなかで高揚感のようなものが芽を出していた。
 隣で銃を撃つセレナを見遣る。
 相手がなにをしたいのか、自分がなにをすればいいのかが本能でわかる。わかりすぎて、なんだかおかしい。こんなときなのに笑ってしまいそうだった。それはセレナも同じのようで、口角が微妙に吊り上がっている。雪崩れこんでくるものも私とおんなじ。
 私たちは背中を合わせながら敵を見据えた。
「聞いて、サヨ」
「なあに?」
「あたし、こんな気持ちで戦うの初めて」
「みたいだね。なんだか幸せそう」
「貴女ももう本調子?」セレナは弾むように笑った。「愛と正義の戦士、ここに凱旋」
「むしろ戦ってる最中なんだけど」
 跳ねるように地を蹴りあげてピンキーを蹴散らしていく。
 たくさんのピンク色の腕を上手く掻い潜り、急所を突いた。



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