Natalya(2/6)




 思えば彼女は誰よりも現実を見ていたように思う。この暢気で能天気で無邪気そうに見える、年下のセレナータよりもずっとあどけない少女のような少女は、自らを奮い立たせ鼓舞させるような希望を、一度だって吐いたことがなかった。きっと明日はいい日になる、そんな言葉が誰よりも似合いそうな馬鹿げた彼女は、その夢の一輪だって、その夢の片一枚だって、この世界この現実に振り撒かなかった。
「今の状態じゃあどうやったって逃げられないだろうし、とりあえずお話でもしてようか」
 それでも、セレナータは、オズワルドの言葉に落ちつかせられていた。希望の一筋も許さない彼女の言葉に、心を安らがせていた。
 ――そうじゃない。ここまできてもなお、自分は彼女に迷惑をかけている。彼女は自分を、落ちつかせてくれているのだ。
「ねえ、好きな季節は?」
 それが歯痒くもあり、けれど同じくらい嬉しくもあった。セレナータはふっと微笑を浮かべる。彼女の言葉に、甘えることにした。
「……春が好きです」
「寒いのは嫌だもんね。好きな本は?」
「『ギュルヴィたぶらかし』」
「あたしは『不思議の国のアリス』、『ジャックと豆の木』が好きだよ」
「少し前に『夏の夜の夢』も読みました」
「んま、メイデーのお導きだわ」
「え?」
「好きな歌は?」
「えっと、多分……オズワルドさんが知らない歌です」
「じゃあ、教えて」オズワルドはおねだりをするような声で言った。「あたしに教えて。その歌。ちょっとは気が紛れるでしょ?」
 オズワルドは寝転がった体勢のまま、ダレスバッグの位置をゆっくりと手探る。車がハイウェイを抜けて、カーブを曲がると、その拍子に垂れた片腕がダレスバッグと接触した。その中をごそりと漁る。もしかしたら、備えているのかもしれない。
 現実的な浮き沈みもないオズワルドの声が、まるで隙でも伺うように、静謐に呟き出される。
「希望がないととてつもなく暇なのね。少し前のあたしは、そのことをわかっていなかったのよ」





 蝕むように雲の影を朱く染める斜めの太陽は地下を潜る“亜終点”では意味のない空の経過だった。けれど、時間としては非常に重要で、オズワルドとセレナータが連れ去られたと発覚してから十二分に時間は過ぎていた。イヴは少し息を整えて目的の彼を探す。
「ジャンヌ・ダルク。俺たちを救え」
 急かすようなその声に、鉱石ラジオを弄くり回していたジャンヌが振り向いた。
 ここはジャンヌが棲家とするコンクリート群のある一角で、木面タイルの床とたくさんの機材、カーテンのように壁面を覆う色とりどりの布地が目印となる小さなスペースだった。防犯もなにもない無法地帯のここでは、遠くから足音が聞こえることは珍しくもなんともない。
 近くに来るまで放っておいた彼だが、思わぬ来客に薄く口を開く。
 その思わぬ来客であるイヴは彼の返事を待った。
 イヴのつんと通った鼻筋は汗を掻いている。おかしそうに睫毛が揺れていた。胸元に下げていたゴーグルがエメラルドの光を宿してゆらりと揺れる。
 淡白な表情をした彼の目が不思議そうに瞬かれた。
「救えとは、神に祈るようなことを言う」
「諸用だ。いくつか省かせてもらうが仲間が拉致された」
「拉致?」彼は愉快そうに反復した。「こりゃ傑作だ。あのお嬢ちゃん、いつかやらかすと思ってたさ」
「オズワルドだけじゃない。ヘマをしたのはきっと俺だ。お前に解析して欲しい物がある」
 会話をするのも煩わしいと、イヴはその三点だけを述べて、ジャンヌの使うテーブルに近寄った。そこには複雑に入り組んだ設計をされた機器やぐるぐると廻る天体模型、さっきまで調整していた鉱石ラジオが犇いている。
「追跡用発信機、型番はDs-10」
 その発言にジャンヌは初めて深刻そうな目をした。その目でイヴを一瞥して、それから不遜に口角を吊り上げる。
「その型番がなにを意味するかわかって言ってる?」
「アンプロワイエ及び政府内閣が使用する発信機。ワイヤレス。スティグマと同じ特殊電波を発している」
「それを解析しろだって?」
「居場所を特定してほしい。お前ならできるはずだ」
 いきなり現れたイヴにいきなりのことを言われたジャンヌ。哀王越しでしか話したことのない相手によくもまあここまでの態度をとれるものだとすら思った。
 銀光りするラジオのアンテナをつんつんと突っついて、ジャンヌはふてぶてしく返す。
「危ない橋は渡りたくない。それにどうやって居場所をつきとめる?」
「既存の、それもおそらく私用でない電波帯だ。衛星回線をハックしろ。王家御用達の貴賓枠が用意されているはずだ」
 強引な物言いにジャンヌはハッと吐息にも似た乾いた笑みをこぼした。イヴを嘲っているようにも、自分を嘲っているようにも感じられる。どちらかはわかりかねた。この男の顔の筋肉から真実の感情を読み解くのは、ひどく至難な業だった。
「おーやだやだ。知りたがりくんの考えはおっかないったらない。そんなワイルドなことして俺になにか利益は出る?」
「上手くいけば衛星回線をお前個人のものにできる。縦横無尽とはまさにこのことだろう。この世の立体方位はお前のものだ」
 彼はなにも返さなかった。ただ数瞬目を瞑り、眇めるように首を軽く竦める。なかなか素直でない反応だった。けれどイヴは感謝に目を細めた。
「なにがあったのか、詳しく聞かせてくれ。いいバックグラウンドミュージックになりそうだ」
 ジャンヌは乱雑なテーブルを整理しながら尋ねた。イヴは見事な曲線を描く天体模型を、指で撫でながら答える。
「置いてけぼりを食らった。魚を釣ったことはなかったが、俺はどうやらヒッチハイクなら得意らしい」
「幻滅しそう。もっと賢い話を聞きたかったんだけどなあ」
「期待外れで悪いが、お前も残念なことを言う、ジャンヌ」イヴは模型のなかで一番小さな惑星を取り除くかのように弾いた。「俺はそんなにすごいやつじゃないんだ。俺のことを賢いって思ってるやつは、ただの夢見る馬鹿野郎だよ」





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