銀貨と林檎(2/5)




 イヴと少女がいたのは、地上から五百メートルほども離れた地下の、とある場所だ。そこは、ガラクタを継ぎ接げたような鉄骨やトタンの壁面が、いくつものネジや歯車により一連のドームとなっている。その天まで突き抜けた鉄筋階段は、あちこちが酸化して赤錆まみれだ。
 二人はどうにか地上にまで登れそうな足場を選び、登っていった。天辺まで辿り着いたイヴは、天井の蓋をぼこりと開ける。そこからはとてつもない汚臭がした。イヴが顔を覗かせてみると、いくつものパイプや空洞が連なる下水道だった。
 鼻を摘まみながら、二人は体を穴から引きずり出す。ピチャン、という水音が甲高く反響していた。奥に地上へと続くような梯子と、マンホールらしき黒い蓋が見える。後ろに少女がいるのを確認しながら、イヴはその梯子を目指した。
「あたしたち、こんな深いところにいたのね」少女は呟く。「やっぱり、ねえ、わからないわ。さっきまでいた、あそこはどこだったの?」
「どこだと思う?」
「どこだとも思わないよ。地獄や天国でないことだけはたしかだけど」
「仮称として、“亜終点”と呼んでいる」
「亜終点?」
 物問いたげな目を向ける少女を無視して、イヴは梯子に手をかける。少しだけ湿ったそれは掴むのを躊躇わせたが、そう我がままは言ってられない。手の次は足をかけ、響くような音を鳴らしながら登っていく。
「ここを出たら宿を探すぞ。最低限の寝泊まりができる場所ならどこでもいい」
「んま。それはどうかしら。スラッシュクロス屋敷やローウッド学院にでも転りこんでしまったら、堪ったものじゃないわ」
「愛に死に、病に死ぬ?」
「死ぬのは痛くて怖いもの」
「俺と君は、ヒースクリフでもキャシーでもない。精々、第三者のロックウッドだ」
 そうやって断じつつ、イヴは感心していた。自分の知る物語になぞらえて、歌うように冗句する彼女に、純粋に驚いたのだ。
 頭のわるそうな少女だと思っていたのに、きちんとした教養はあるらしい。第一印象や生まれ備えた雰囲気から、それほどの小粋があるようには見えなかった。素が盆暗なのか喋りかたが悪いのか、とイヴは苦笑する。
 天井が近くなった。マンホールの蓋を外そうとイヴは力をこめるが、なかなか開かない。そりゃあそうだ。雨が降っても地上に水が溢れないよう、こんな分厚い蓋をしてあるのだ。重くて当然で、片手で押し上げようとしても、それは無駄というものだ。
 イヴはふむと息をつく。
「問題がある」
「またなぞなぞ?」
「違う」イヴは苦笑して続ける。「蓋が開かないんだ、地上に出られない」
 イヴの言葉に少女は「それは難しい問題ね」と返した。
「だが、考えはある。そこで、君に借りたいものがあるんだが、かまわないか?」
「いいよ。それが答えなら」
 イヴが振り向くと、少女は白い歯を見せていた。イヴは「失礼」と言って、少女の髪を浸していた石油を指で拭い取り、マンホールの溝に塗りたくる。溝は真っ黒に埋まり、時折ぼたりと重く液体が垂れた。
 イヴはなるべく体を安定させる姿勢をとり、マンホールの蓋を両手で突きあげる。石油が潤滑油の役割を果たしたおかげで、ガコンという鈍い音のあと、蓋はなんとか持ち上がった。
 蓋を地上の脇に寄せて、イヴはその穴から外を見る。
 人通りの少ない路地だった。煉瓦の建物には金属のパイプが蔦のように這っていて、緩んだネジの隙間から濁った蒸気が漏れている。見上げると、曇ってはいるが空がある。二人は地上に辿り着いたのだ。
 イヴと少女は体を引きずり出し、風のある空気に全身を触れさせる。少女は嬉しそうに空を見上げた。灰色の空のなにが楽しいのかはわからないが、その姿は無邪気で悪い気はしなかった。
「宿を探す前に、その格好をどうにかしよう」
 少女は空を見上げていた目をイヴへと戻し、それがら自分の姿を見る。石油は滴るのをやめていたが、服にしぶとく染みこんで特有の匂いを放っていた。とてもじゃないが宿側に泊めてほしいと言えない。言えたとしても泊めてもらえるはずがない。汚れた子犬のようなその姿は同情を誘うが、誘うだけ誘っておいて嫌悪が湧きたつ類のものだ。
 少女はまたイヴに目を戻す。イヴは苦々しく眉を寄せているが、口元と目は笑っていた。
「こんな格好じゃあ、たとえお金を持ってたって、お店のひとは相手にしてくれないものね」
 先ほどと同じ台詞を、少女は言った。





 石油を剥いた彼女の肌は白かった。
 ホースと蛇口を借りて、水圧で黒を削ぎ落とした少女は、イヴの買ってきた女物の服に身を包む。
 片腕がグローブ袖になっている、ベルトで引き絞られた深緑のセーターに、白いフレアスカート。膝丈のブーツを履き鳴らせば、どこにでもいそうな平凡な少女だ。
 泊まることになった安いホテルの一室、化粧台に置かれたドライヤーで、長い長い黒髪を乾かしている。イヴのブルネットの髪よりもよっぽど黒い髪。頭部まで石油に塗れているとイヴは思っていたが、地の黒だったらしい。ドライヤーのスイッチを切ると、少女は黒いまんまるな目をイヴに向ける。それは空腹を訴える子鹿のような目だった。
 イヴはついてくるようにと促して部屋を出る。小さな安いホテルとはいえ、一階にはレストランがあるのだ。少女はぼんやりとイヴを眺める。そこのコックや支配人となにやら話しこんだかと思えば、イヴは「席はこっちだ」と真ん中のテーブルへと足を向かわせる。少女は幾何学模様をあしらった、木製の椅子に座りこんだ。メニューからグラタンとバゲットを注文し、デザートには梨のジェラートを頼む。対面に座るイヴはといえば、一番安いサラダと一番安い紅茶を、二人分注文しただけだった。
「お腹すいてないの?」
「お金がないんだ」
「へえ、そうなんだ」
 どこか他人事の口ぶりで、少女は答えた。テーブルの上に置かれたグラタンに顔を綻ばせる。すぐにスプーンをカトラリーボックスから取り出して「いただきます」と食べはじめた。
 チーズのいい匂いがイヴの鼻を掠めた。もぐもぐと美味しそうに目を瞑る少女を見て、有るか無きかの苦笑を浮かべる。自分に持ってこられたサラダにフォークを突きたてた。口に運ぶと、野菜とパン屑とドレッシングが、口内をさっぱりと満たしてくれた。
「お金ないって言ってたけど」
「言ったけど」
「どうやって泊まれたの?」
「宿泊代はあったんだ。なかったのは食事代」
 イヴは答える。一応、配慮する思考はあったのかと、イヴは思った。サラダを咀嚼するイヴと、己の前のグラタンを見遣って、少女は「食事があるけど」と呟く。
「交渉した。代わりに明日は朝から晩まで皿洗いだぞ。楽しみだな」
「んま。おにいさんってすごいのね」
「他人事みたいに言ってくれるけど、君も皿洗いをすることになってるから」
「おにいさんってすごいのね」
「なにが?」
「そんなことを思いつくなんて。賢くてすごい」
 きらきらと静かに煌めく少女の瞳に、イヴは「そうかも」と言った。あどけなさの残る少女の顔立ちには、まんまるな目を見開かせる、興味津々な表情がよく似合う。





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -