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「…………もう本当に怒っていませんか?」
「はじめから泉さんに怒ってなんかいないから、ほんとうに」
「ほんとうですか?」
 わざと、しおらしく、同情してもらえるように
 私は自分の左手首の形を確かめるように握っていまだに落ち着かない様子の観音坂さんをしっかり見据えて水辺の魚のようにスルスルと逃げていこうとする瞳をとらえた。もう肌の細胞の根深いところまで染み付いてるのではないかと疑うほど濃い隈に囲まれている瞳は深く底の見えない川の色をしていた。私はたいていの光は通さないようなその深い緑色がおぼろげながらも私の姿を写しているのを確認すると、今度は観音坂さんの今度は私の方から逃げるように右斜め下の方へ視線を逸らしてみせた。わずかに目を伏せた時に泣いてるのかもと勘違いさせるために一人暮らしをはじめてすぐに育て始めたはいいものの季節が変わらないうちに枯れて土だけになってしまったハーブの鉢植えのことを思い出すことも忘れなかった。ダメ押しで、涙をこらえるときのように鼻をそっと啜り上げると、視界の端で唾を飲み込んだ観音坂さんの喉仏が大きな波をつくるように上下したのが見えた。そろそろ頃合いだろうか。
 私はもう一度か細い声で「怒っていませんか」と尋ねると観音坂さんは激しく首を縦に振った。
 友人の策を試すだけの会話の主導権を握ることができたとわかると、私はしなをつくるのをやめて観音坂さんに向き直った。
「実はずっと気にしていたんです。お昼のこと」
「昼って……」
「お菓子の件ですよ。本当は毎日デパートや高そうなお店で売っているようなものを頂いてばかりで、なんだか申し訳ないなってずっと思ってたんです」
「あれなら、その別に、気にしてないから。でも、たしかによく考えてみたら俺みたいなやつからお菓子をもらったら引くよな」
 自分が言った言葉に自分で傷つくなんて少しも得になることのない器用なことをやってのける観音坂さんに私はいやいやと手を小さく振った。
「そんなことないですよー。別に引いたとかじゃなくて、特に理由もないのに高そうなものを週に何度もいただいてしまうのが申し訳なくて。お菓子はおいしいものばかりだったので、それはそれで嬉しかったんですけど」
 本当のところがひとさじ、あとは嘘だ。よくそんなことが言えるものだと口にしながら自分でも呆れているのがわかった。それでも観音坂さんは喜色を表情の変化が乏しい顔にのせていた。
「本当に?」 
「ええ、お菓子嫌いな人なんていませんよ。それでも、やっぱり、言いにくいんですけど、いただけるものってほとんど似たようなものばかりじゃないですか」
 初めて気がついたと言わんばかりに観音坂さんは目を大きく開いた。もしかして、この人は自覚がなかったのか。
「そうだったんですか。なるべく被らないように店も選んでいたしそんなつもりはなかったんですけど」
「観音坂さん、気がついてなかったんですか?今日はクリームパンで昨日はエクレア、たしかこの前はワッフルでしたよ。なぜか生クリームが必ず入ってるんですよ」
 おかげで当分その手のお菓子は見るのも嫌になって、あれだけ足繁く向かっていたコンビニのスイーツコーナーを避けるようになっている。
「本当だ。店の人がやたら人気だと言っていたし、人が並んでいたから間違いはないだろうと思っていたんですけど。言われてみたら、みんなそうだ」
「それでですね、さすがにそういったお菓子はもう」
「ですよね!ちょっと考えればわかることでしたよね。一体俺は何を考えていたんだ。すみません。次は違うものを、そう言えばこの前一二三が」
「ちょっと待ってください。お菓子をもうもらいたくないんです」
「え」悲壮感に溢れた声が漏れた。まずい。おねだりどころじゃなくなってしまう。私は手を掲げて、待ったのポーズをした。
「違います。観音坂さん、そうじゃないんです。結論だけ言わせてもらうと買っていただくならお菓子じゃないものがいいんです」
「それなら、何がいいんですか」
 観音坂さんの川底のような目が一気に光を得て、ギラリと光った。あまりの変わりように私は狼狽えたが観音坂さんは一瞬でも見逃すまいと目を大きくして次の言葉を待っていた。
「観音坂さん。得意先の先生たちからお菓子をいただいてるんじゃなかったんですか?」
 観音坂さんは呻いた。わかってはいたが、やっぱり自分で買っていたのか。
「でも、今回は泉さんが食べたいものを俺に用意させてください」
 再び観音坂さんはぎらつかせた目で今度ははっきりと私になにを求めているかを尋ねてきた。
 このままおねだりをしてしまってもいいのだろうか。唇を軽くかんだところで答えが出てこない。
 もう観音坂さんにしようとしていることは友人が言っていたおねだりとはかけ離れていた。いや、かけ離れるどころか、要求という直接的なものに変わろうとしていた。これが正しいのか、そうじゃないか私には判断がつかなくなっていた。だが、ここで怖気付いて逃げたらなにも得られるものはない。すでに賽は投げられている。私はひとつゆっくりと息をついてから、口を開いた。
「お肉、とか食べたいです」
 意気込みとは裏腹に私の要求は少々かすれたような声となって、観音坂に伝えられた。
「肉、でいいんですか」
「肉でも、いいんですけど。えーと焼肉、しゃぶしゃぶ、すき焼き、寿司、天ぷら」
 私は久しく口にしていない贅沢なものを思いつくまま上げていった。どれも食べようと思えば食べられるが、自分の舌が満足するようなものを店で食べるとなると途端に難しくなるものばかりだ。言っている側から、観音坂さんが奢ってくれるはずがないのがわかった。だが、観音坂さんは無茶な要望に私が思っていたように嫌そうな反応を一つもしなかった。眉を動かさず、ただ聞いていたのだ。
「肉ばっかりだし、後半から日本にきた外国の観光客が話す覚えた日本語みたいになってるけど」
「それがいいんですよ」
 業界では十指に入る企業といえど、末端の事務員の給与なんてたかが知れている。知っている贅沢の仕方もsushi,tempra,geisha...が精一杯だ。
「そうですか」
 観音坂さんは息を漏らすように笑うと口元に手を当てて少し考えてから、こちらをまっすぐ見据えてきた。上げられた顔はいつになくすっきりとしていて、目の明かりが先ほどとは明らかに違っていた。
「店探しておきますから、行きましょう。泉さんいつ空いてますか?」
「え、本当にいくんですか?」
 まさか。と嘘であることを願うように尋ねたが、そんな希望はあっさりと崩れた。
「泉さん、お肉食べたいんですよね」
「それは、まあ」人のお金で美味しいものを食べられるに越したことはない。
「ごちそうしますよ。いつ空いてますか」
 予定なんて空で覚えているが、それでも予定があることを期待してスマートフォンに記録しているスケジュールを確認した。転職活動以外は見事に空白だった。
「明日なら金曜日だし、なにも予定は入ってないので」
「それじゃあ、明日の夜に。………俺の方が泉さんより仕事遅くなるだろうから、携帯の番号教えてもらってもいいでしょうか。ないとは思うけど、連絡つかなかったときにお互いに困ってしまうので」
「ああ、そうですね」
 私はいわれるがまま連絡先を観音坂さんに教えた。観音坂さんは会社支給ではなく私のと比べると少し古い型のスマートフォンの画面を大事そうに撫でると、ゆっくりと歯をのぞかせて笑った。
「楽しみですね」
 果たしてそうだろうか。
「そうですね。明日、これで仕事頑張れますね」
 思ってもいないことが私の口からするりと流れた。


 社用車に忘れ物をしたという観音坂さんと別れて一人になった私は観音坂さんと話して五分も経っていないのにほとんど一日の仕事をやり切ったかのように肩にずっしりと疲れが乗っかった。慣れないことをするのはやっぱり無理があるらしい。それでも、経緯は私が想定していたものとはずいぶんと違ってしまったが美味しいものをご馳走になるのだし、おねだりは成功といえるのだろう。
 私はスマートフォンのメッセージアプリを開いた。
 お肉をご馳走してもらうことになった。
 自分の身に起きたことをそのまま友人に報告すると、すぐに彼女から「よかったね。タダメシじゃん」と返事がかえってきた。あっさりとしたリアクションに私は愛用しているウサギのキャラクターのイラストを返した。
 ウサギは青空の背景でパステルカラーの八分音符を撒き散らしながら飛び跳ねるながらウインクを決めて、私の代わりに友人が言ったとおりにことがうまく運んだことに満足していることを伝えてくれていた。さらにウサギに触れるとウサギはイラストの通りぴょこぴょこと長い耳を揺らしながら飛び石を飛ぶように右へ左へと跳ねるアクションをした。
 私は心にもないことを喜ぶウサギの動きを封じるように親指でそのウサギをつよく押した。


  
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