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そのお詫びはシュークリームで





 一族郎党皆殺し。
 ありとあらゆる休憩を返上して、どうにか今日の仕事を終わらせた私はオフィスの出入り口の傘立ての前で、私は思いつく限りで一番物騒な言葉を頭に浮かべていた。
 いつもなら置き傘で溢れかえっている傘立ては、予期せぬ大雨のおかげで間引きされていた。その数少ない傘の中に私の傘があるはずなのに、ない。心持たない人間が持ち出していたというわけだ。
 雨に濡れてもいいか。と自分に訊く。
 窓の外から聞こえてくる、水溜りでまだら模様になっているアスファルトの上を躊躇なく走り抜けていく車のタイヤが転がる音が物語る雨の強さ。ここから一番近いコンビニまでの距離。心許無いにもほどがある自分が履いているヒールの高さと細さ。
 どう考えても傘がなければ、月給の決して低くない比率を占める代金を払うヘアサロンの美容師に、あらゆるところから雨水を滴らせて化粧をドロドロに崩したおぞましい姿で出迎えられることになってしまう。それだけはなんとしてでも避けたい。だけれども、傘立てに私の傘はないのだ。
 詰んだ。
 たかがビニール傘、されどビニール傘だ。無くしても構わないようにと、そこらのコンビニで買ったものを置き傘にしていたが、持ち手には自分でも抵抗感が生じてしまうほど可愛らしいファンシーな柄のマスキングテープを巻いて、勝手に持っていかれないようにするための策は講じていたのだ。それもこれも、自分が不便を被らないためと手間をかけたのだ。なのに、それを踏みにじるように置き傘は予報になかった激しい雨を理由に持ち出されてしまった。ますます私の置き傘を持ち出していった誰かの不幸を願わずにはいられなかった。
「すみません。傘おかせてもらってもいいですか?」
「ああ。観音坂さん、お疲れ様です。ごめんなさい。どきますね」
 私が傘を差さずにこの雨の中を歩く覚悟ができずにウダウダとしていると、外回りから帰ってきたらしい観音坂さんが声をかけてきた。
 申し訳なさそうに頭を下げてきた彼は、定年まで十年を切ったオヤジ達か社会を出て五年も経っていない若手かで年齢層が二極化しているこの事務所ではレアな存在で年中の部類に入る三十歳代の先輩だ。
 だが、彼とほとんど接触がない内勤の私はじめ彼と同じ職務についている若手一同、彼になんらかの形で助けてもらったという話は一つも聞いたことがなかった。朝礼の度に課長の吊るし上げにあっているところと、オヤジ共からの下品なイジリに笑ってやりすごすこともしないで書類の作成に集中しているフリをしていたり、先輩だけでなく後輩からも時間がかかるだけのしょうもない仕事を押し付けられたりと、私が知る観音坂さんはこのオフィスのサンドバッグ役とも思えてしまうような散々な姿だけだ。
 観音坂さんは雨雫をろくに落とさないまま傘をたたんでいく、その「先輩」らしい頼り甲斐を全く感じられない猫背へ向けていた私の視線に気がついたのだろう、唇を少しだけ動かしてから聞き取りにくいこもった声を発した。
「あの、傘忘れたんですか?」
 後輩というよりは他人に向けるような口調で、どこかトゲのある問いに私は顔を苦くして答えた。
「置き傘をしていたんですけど、誰かに持っていかれちゃったみたいで」
「あのオヤジ達ならあり得るね」
「そうですよね」
 私は中年男性の悪いところを一通りは揃っている我が事務所の面々を思い浮かべた。どいつもこいつも他人の傘を断りもなく持ち出すことに躊躇なんてしないし、盗んだ傘をそこらへんに置いて帰ってくるのは想像に容易い。
 信じられるものなんてなに一つない地獄に、私は呆れるように笑うしかなかった。
「もうしょうがないので、途中のコンビニで傘買って帰ります」
 一軒目であるといいんですけど。
 そう零して、私は外へと向かおうとした。わざわざ自ら雨に濡れなきゃいかないことにため息をついたところで泉さんと声がかった。
「あの、傘。俺ので良ければなんだけど、かそうか?」
 傘貸してくれる、優しさを持っているなんて。
 思ってもいない申し出に私は飛びつきそうになるが、彼の手にある傘を見て冷静になる。
「悪いですよ。だって観音坂さん、傘はそれしか持っていないですよね?」
 私は傘立ての水受けに水溜りを作っている傘を指差した。いくらこの大雨とはいえ、一本しかない人の傘を取るような無神経さは持ち合わせていない。
 遠慮する私に、観音坂さんは首を振った。
「傘、もう一本持ってるから。少し待ってて」
 そういうと観音坂さんは膨らんだカバンを開けて、傘を探しはじめてくれた。
 しかし、カバンから出てくるのは別の次元に繋がっているのじゃないかと疑いそうになるほどの大量のカタログや書類ばかりで私に貸してくれるらしい傘というものはなかなか出てこなかった。カバンを抱えながら荷物を出していくのも困難になってそれらを床に置いたところで、私はなんだか申し訳なくなってたまらず声をかけた。
「あの、もういいですよ。わざわざそこまでしていただかなくても」
「すぐ出るから」
 出てきていないから。と口から思わず出そうになるのを、私は先輩の手前、飲みこんだ。
 結局、観音坂さんのカバンからコンビニで買うことのできるワンタッチ式の折り畳み傘が出てきたのは荷物の山が二つほど作られてからだった。
「真っ黒な男物で、悪いんだけど」
「いえ、十分です。助かります」
 ふと、傘を受けろうとしたとき差し出された観音坂さんのスーツの腕のあたりがなんだか光っているのが目に入った。雨粒でも反射したのだろうか。と注視してみると、スーツは濡れてなどいない。生地の目がつぶれてテカテカと光を反射しているだけだった。文字通り着倒されたそれを見て、私は中学生時代の男子の学ランもそうやって光っていたことを思い出して、懐かしさに少しだけ笑いそうになってしまった。
「あ、えっと、傘ダメだった?そうだよね、男モンだし。いつ使ってカバンに入れっぱなしだし」
 なかなか傘を受け取ろうとしない私に、観音坂さんが心配そうに尋ねてきた。我を取り戻して、声が落ちてきた方を見上げれば、 何をしていても視界を遮っていて鬱陶しそうな前髪の奥から心配の眼差しを私へと向けていた。それは少なくとも、廊下の階段を手すりを使って滑り降りるような中学生男子ではなかった。くたびれきった三十路の男そのものだった。
 私は、お経のような言い訳を延々と並べようとしている観音坂さんから急いで傘を受け取った。
「そんなことないです。あるだけで助かります」
「本当?」
「本当です。本当。傘、お借りしますね」
 取り繕うように笑ってみせると観音坂さんは口元をゆがませて息を漏らした。
 あれがなんと彼なりの笑顔なのだと気づいたのは、借りた傘でなかなかに激しい雨粒を受ける音を聞き始めてからしばらく経ってからのことだった。




 あ、傘忘れた。
 観音坂さんから借りた折り畳み傘を家に忘れてしまったこと自体を忘れていたのを、私は朝事務所のコピー機の前で鉢合わせた観音坂さんの顔を見て思い出した。
 それもこれも仕方がないことだった。
 昨晩、傘を観音坂さんから借りることができた私は無事雨に濡れることなく予約していたサロンに向かうことができた。
 決して安いとは言えない施術費、入念なリサーチ。それらの甲斐あって、私は鏡を見る度にムフフと思わず品のない笑みをこぼしてもその顔にさえ「可愛い」と言えてしまうほど完成度の高い髪型を手に入れることができたのだ。その達成感に酔いしれることにすっかり夢中になっていて、傘のことなんか頭に入る容量なんて少しも残されていなかったのだ。
 だって、手入れをされたばかりで首を動かす度にフワリと漂う髪の匂いをたどっているほうが私にとっては幸せで大事なことだったのだ。
 けれども、腰をかがめて印刷したものを手にとったまま私を見上げる観音坂さんの顔にはでかでかと「傘を返せ」と書いてある。私の髪型なんてどうでもいいのだろう。
「すみません」
 私はついて出たように謝罪の言葉を投げて、受信したファックスの束を取って自分のデスクに戻った。
 観音坂さんが仰りたいことはわざわざ聞かなくたってわかる。借りたものはすぐに返すべきなのだ。ましてや、私より年が上なだけでなく長くこの会社で働いている先輩ならなおのこと。
 わかっています。でも、忘れたんだから仕方がないじゃん。それに、借りた傘は私の家の玄関に雨の雫を払うこともしないで置きっぱなしになっている。まさか濡れたまま返すわけにもいかない。とにかく、誓って、借りたまま返さないなんてことはしませんから。
 私はファックスを一枚一枚仕訳することに集中する振りをしながら、たくさんの言い訳を頭の中で並べた。それでも、ゴワゴワと毛羽立ったタオルで遠慮なしに顔を拭かれているような視線はカタログと書類で埋まっている観音坂さんのデスクから容赦なく投げ続けられている。
 明日、絶対傘返そう。
 そして翌日。礼儀をきちんと通さなかったがために、観音坂さんに想定外のプレッシャーをかけられてしまった私はきちんと、それこそ上司に飲み会の二次会の酒代を奢っていただいた時よりも、折り目正しく感謝の言葉とともに借りた傘を返した。
 観音坂さんがどこまで怒っているのかもわからないので、誰かからもらったのかそれとも自分で買ったものかも忘れてしまっているくらいには長いことデスクの引出しにしまっていた見栄えはいいチョコレートもお詫びの印として傘に添えた。
 オヤジ共に見つからないように外回りから帰って来るところを待ち構えるようにして捕まえて渡すときはさながら裏物取引をする悪人のようになってしまったのだが、当の本人はオヤジどもと違ってお世辞らしいこともあの雨の日のことも何も言わず、お手本のようなノーリアクションだった。
「ああ」とか「どうも」とかは言っていたのかもしれない。けれども、少なくとも私には聞き取ることはできなかった。私から傘とお菓子を受け取って、あの下手くそにもほどがある笑みを浮かべて頷いただけだった。
 とにもかくにも、私と観音坂さんとで起きた傘の一件は、ぎこちなさというものが目立ちはしたもののこれ決着がついた。後悔とかそういうものはもちろん、お互いにお互いを「良い人だな」とポイントを加算することもない。実にフラットに終わったのだった。




 天井からそよぐ風の温度が温かいか冷たいかでしか今の四季を感じることができない乾燥したオフィスは、局地的に私のデスクだけ地獄の様相をしていた。
 なんてことはない。電話番をしてくれる派遣社員が休んでしまっただけのことだ。
 それだけのことで、常日頃人員不足に喘いでいる職場は悲惨なものになるのだ。
 欠員一人分の仕事は、残りのメンバーに分散されるのではなく立場が一番弱いものに全て降りかかってくるのである。
 私自身、もともとキャパシティから表面張力でなんとかあふれていないだけのおかしな仕事量をこなしているのに、それを電話電話メール電話メール電話といった客と営業からの問い合わせの嵐に邪魔されているのだ。電話が終わる度、コードを引きちぎる想像を何度しただろう。
 もちろん私の他に電話にできることのできる人間がいないわけではない。私のデスクの隣にいる年齢も社歴も不詳になってしまったこの事務所の女傑は、私が同時に二本の電話に対応している最中に三本目の電話が鳴ると、盛大なため息とこちらへのジットリとした視線をオプションにつけてからようやく受話器を手に取ってくれるのだ。
 女傑、これ見よがしに私は忙しいアピールしなくていいでしょ。私も阿修羅像みたいに三つの頭と六本の腕があったら、あなたの手を煩わせるようなことなんてしないのだから。
 そんな地獄も十七時を境に、公の営業時間の終了を迎えて電話線を一方的な留守番電話に切り替わることでようやく一段落した。
 残りの仕事と時計を見比べて、今日のサービス残業の時間を数えていると、外回りから観音坂さんが挨拶もなく静かに外回りから帰ってきた。
 女傑曰く「昨日の尻拭いを今日やっている」ような彼の普段の仕事ぶりから考えたら、何かあったからこんなに早く帰ってきたのだろう。現に女傑は自分の荷物をトラブルの予感を誰よりも早く嗅ぎつけて、少し離れたところにいる課長と目を合わせてニヤリと笑った。
 ベテラン社員の意地の悪いやりとりなんて知る由もない観音坂さんは自分のデスクに荷物だけ置いて、脱いだスーツを片手に真っ直ぐに私のところにまでやってきた。
「……泉さん、少しだけ時間いい?」
 観音坂さんは重苦しい雰囲気とともに声をかけてきた。
 視線を合わせないように床の方を見ているあたり、女傑でなくても彼がなにか大きな問題を抱えているだろうとは予想がついた。
 女傑の顔を見、デスクから離れることへお伺いを立ててみると、甘味とゴシップが何よりの好物である彼女は目をギラギラと輝かせて実に快く私を送り出そうとしていた。
 その渦中にもれなく巻き込まれようとしている私は溜まったものじゃない。彼女のやたらに当たる予感が外れるように胸の内で祈りながら私は自分のデスクチェアから重たい腰を上げた。
「あの、ごめん。大丈夫だった?」
 観音坂は、私が自分の仕事をそのままにしてノコノコとあとをついてきていることを心配しているのだろう。
 これから私に厄介ごとを押し付けようとしている人がなに言っているのだろう。一種の皮肉なのだろうか。
「え?」
「泉さん、仕事してたでしょ」
 苛立っていることを隠さずに尋ね返すと、観音坂さんは恐る恐るといった様子で女傑のを出した。そこで私は彼の不足気味の言葉が、女傑が観音坂さんを優先をした私に気を悪くしていないかという心配をしてのことだと気がついた。
「大丈夫ですよ。もう電話も留守電にしちゃったんで」
 そう言うと観音坂さんは安心したように強張らせていた肩をゆっくりとほどいた。一方で私はどんな面倒ごとが待ち受けているのかと不安がどんどん膨らんでいくばかりで、それを気づかれないようにと手のひらに爪を押し込んで、その痛みで平素を取り戻そうとするのに必死だった。
 観音坂さんが選んだ場所は人がすっかりはけている自販機スペースだった。
 自販機がジュースを冷やす音だけが響いているこの場所で、観音坂さんはようやく私の顔を見た。
 観音坂さんの顔は魚の内臓でも食べているのかと思うほど苦々しい表情を浮かべていた。一体どんな困りごとが飛んでくるのかと内心ヒヤヒヤしていると、彼は持っていたスーツの下から小さい紙袋が入ったビニール袋を私に差し出して来た。
 幸福を呼び込む黄色に、髭をたくさん蓄えたおじいさんのロゴマーク。見間違えるはずがない。これは
「ビアードパパ!!」
「えっと、どうぞ」
 気がついたら私はその名を叫んでいて、袋を受け取った時には喜びのあまり飛び上がってしまいそうだった。
 香ばしい小麦粉と砂糖が焼けた生地の香りと卵とクリームが混ざり合った蠱惑的な甘さ。袋の中のシュークリームの重みは激務で疲れ切った私の頭に、そのシュークリームにかぶりついている私の姿という幻覚を見せた。
 こんな素晴らしいものをもらえるなんて。夢見心地になっていると、観音坂さんは私のあまりの喜びように驚きながら尋ねてきた。
「それ、好きなの?」
「ビアードパパですか?好きです!」
「それなら、よかった」
 観音坂さんは頭を掻きながら視線を泳がせて、聞き取れないほどの声量と早口でなにやらブツブツと唱え出した。それが子供のように喜びすぎている私への苦言だろうと気がついて、私は慌てて市政を正して聞き取ろうとした。しかし、観音坂さんは小言を零すのをやめて、私の顔を見返してきた。
「あの、えっと、なに?」
 なに?と尋ねたいのは私の方だったが、気を取り直してそもそもの理由の方を尋ねた。
「というか、どうしたんですかこんないいもの。お客さんから頂いたんですか?」
「そうじゃなくて俺が買ってきたんだ。泉さんに」
 なぜか、すみませんと語尾のように詫びの言葉まで添えて答えてくれたが、さっぱり意味がわからなくて私は首を傾げた。
「嬉しいんですけど。買ってもらう理由なんてないじゃないですか?」
「お菓子くれたでしょ」
「お菓子?」
「傘と」
 とうとうキーワードレベルの単語しか発しなくなってしまった観音坂さんの言葉はあてにならない。私はもらった言葉を頼りに考えを巡らせた。傘とお菓子。そして、多分、そのお返しなのだろう。自ずと答えは出てくる。
 つまり、このビアードパパは傘に添えたお菓子のお返しなのである。
 気がついた瞬間、私の口からあたりに響くほど戸惑いの声が出ていた。
 私が彼に渡したのはコンビニで買えるようなチョコレート菓子で、ビアードパパとはとても釣り合いが取れるようなものではなかった。
 私が観音坂さんにあげたものと観音坂さんから受け取ろうとしているもの。それらを秤にかけてみると、途端に私の手にあるビアードパパはひどく重たいものになってしまった。これは、考えなしにもらえそうにない。すぐに私は袋を元の持ち主に突き返した。
「あんなお菓子で、これはもらえませんよ」
「そんなこと気にしないでいいから」
「気にしますよ!」
 返そうとすると観音坂は腕を後ろに回して受け取らない姿勢を示した。さらに前へと一歩距離を詰めてみせると、首を横に何度も振り出した。
「ちょっと」
 困るんですけど。と言おうとしたところを遮るように観音坂さんは口を開いた。
「君に買ってきたものだから、」
「それに好きなものだったみたいだし」
「ただ持ってた傘貸しただけなのに。泉さんに気を遣わせてしまって、申し訳ないというか。
 とにかく、もらってください」
 そうやってやたら力強く、重たい言葉を次々と私の上に観音坂さんは積み重ねて、最後には頭を下げて上目遣いで私を見つめた。
 ここまで言われてしまうと、ビアードパパを受け取らない方が悪者じゃないか。後に引けなくなって私は突き返そうとしていた袋を自分の胸の方に引き戻した。
「じゃあ、好きですので、これはいただきますね。
えっと、ありがとうございます」
 頭を下げると、観音坂さんは顔を上げて一仕事終えたように大きく息をついてから、また口元を歪ませるだけの笑みを浮かべた。そして、用はこれだけだとトイレのある方へずいぶんと早足でいってしまった。
 彼の気配がすっかりなくなって、さっきまで張り詰めていた空気が解けていくのを確認すると、私は袋をそっと開けてもらった袋の中身を確認した。袋にはシュー生地の形からしてオーソドックスな種類のものが二つ入っていた。中の甘い空気を吸い込むと胸の中が多幸感でいっぱいになった。
 先輩の手前、受け取ることをめちゃくちゃ遠慮をしてしまったが、やっぱり好物なだけにそれが食べられるというだけで嬉しくて仕方がない。顔も自然とニヤついていた。
 大急ぎで仕事終わらせて、家に帰ったら風呂上がりに大口開けてかぶりつくとしよう。
 私は袋に自分のを書いた付箋をしっかりと貼り付けて事務所の冷蔵庫にしまうと、柔らかな生地にかぶりついてたまご味のやわらかなクリームで口の中をいっぱいにする最高の瞬間を想像しながら、キーボードをタイプする指のピッチをいつもより上げてバシバシと仕事を片付けていった。
 女傑は観音坂さんがなにをしでかしたかと嬉々として私に尋ねてきたがそれを「なにもありませんでしたよ」と誤魔化す口調さえも軽やかなものになっていた。上機嫌な様子でいる私に女傑は変なものを見るような眼差しを向けて来たが、そんなもの少しだって気にはならなかった。
 だって、今の私にはビアードパパがあるんだもの!




 目の前に人参をぶら下げられた馬は実に疾く走る。
 思わぬ人からビアードパパをいただいた私は今までにないくらいテキパキと仕事を終わらせて、化粧直しもそこそこに身支度を整えると事務所の冷蔵庫で私を待つビアードパパを迎えにいった。
 しかし、冷蔵庫の中には誰かが置いたままにしている飲みさしのペットボトルが数本と誰かがもらってきた栄養ドリンクのサンプルがあるのみで、わたしが無理やりスペースを作って置いていたはずの幸福の黄色い紙袋はぽっかりとその空間だけを残して姿を消していた。
「なんでないの」
 信じがたい事実が受け入れきれずに扉を閉じて再び開けたが、やはりビアードパパはない。
 私のものだと主張するために、太字のペンで「泉」と書いて袋に貼っていた付箋だけがわびしく冷蔵庫の壁に貼られているだけだった。
 私のビアードパパはどこ……
 気がつくと、私は給湯室を飛び出してオフィスへ駆けていた。
 定時から二時間以上すぎたオフィスは長居をしているとどこかが障ってしまうような淀んだ空気が漂っていた。そんなところに残っているのは外回りから帰ってきた観音坂さんをはじめとする営業が数人に、長時間労働を美徳とする経理のおっちゃん、女傑、そして彼女と談笑をする課長。
 なぜ、課長は私の席に腰掛けているのだろう?
 妙な胸騒ぎがして、早足で自分の席へ向かっていた。
「泉、帰るんじゃなかったのか?これ、明日でもいいんだけど」
「昼に電話してた件だけど、」
 うるさい!とオヤジからの仕事を羽虫のように払いながら自分の席に戻って行く。そこで目にした光景に私は愕然とした。
 私が食べるはずだったビアードパパが、仕事を頑張ったご褒美がよりにもよって女傑と課長が口にしていたのだ。
「えっと、あの」
「泉、どうしたんだ。忘れ物か?」
 どうした?と問い詰めたいのはこちらだった。
「いや、あの、まあ、そうなんですけど」
 冷蔵庫にあった私物を何故勝手に食べたのか。
 袋にはっきりと貼られていた他人のが書かれた付箋をどうして見て見ぬ振りをしたのか。
 挙げていったらいくらでも出てくる問題を、上司二人相手にどう咎めればいいのか。
 ありえない事態に、胸の内で渦巻く怒りとは裏腹に私の言葉はどんどんと乏しくなっていく。
「ああ、俺が邪魔か」
 一人合点した課長は床を蹴ってキャスター付きの椅子ごとスルスルとデスクから離れてくれたが、私の探していたものは課長自らがその手に持っているものだ。私の視線に課長は怪訝な顔をした。
「なんだよ?」
「いや、あの、別に」
「早く帰れるんなら、帰れよ」
 白けるような声かけをすると、課長はズルズルと中のクリームを啜った。聞くに耐えないその音に私は気力という気力を奪われて、忘れ物をしたフリも忘れてそのまま元来た道を引返した。途中、観音坂さんから投げられた申し訳なさそうな視線が沁みるように痛んだ。
 ビアードパパを盗られたその痛みが癒えない私は帰りに、自宅とは反対方向の駅まで足を伸ばしてビアードパパのシュークリームを買い直した。その数四つ。玄関に辿り着いてすぐに袋を開けてそれにかぶりついた瞬間に怒りに任せて買いすぎてしまったことに気がついたけど、間違いのないその美味しさに後悔はない。
 けれども、普段は話しかけてさえもこない会社の先輩からもらったシュークリームは今貪るように食べているこれとはまた違った味がしたのだろうと思うと、惜しい気持ちが口の端についたクリームと同じだけ私のうちに残るのだった。


  
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