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 ついさっきまで何があったのだろうか。狐にでも化かされていたような虚脱感で永遠子がぼんやりとそこに立ち尽くしていると、
「泉!」
 後ろの方から自分を呼び止める声が飛んでくる。足を止めて振り返ると、辛子色のテニス部のジャージに身を包んだ丸井であった。
 思ってもみないことが起き始めて、永遠子の身体はギクリと固まった。
 身体が動かない割にいやにはっきりと回る頭では、記憶の片隅に二度と開かないつもりで封じ込めた自分の丸井に対する行いの後悔が次々と永遠子に思い出させていた。
 丸井とはほとんど話らしい話をしていない。あんなに自分勝手なことを言ってしまったのを謝っていない。謝るべきかもわかっていない。ただ中途半端なまま気持ちだけがどこかにぶら下がっている。
 逃げてしまおうか。
 永遠子が丸井へのやましい気持ちからそんな考えが浮かんだ時にはすでに丸井は三〇メートルはあったはずの距離を縮めて、永遠子の担ぐカバンの取手をつかんでいた。
 息をのむ永遠子に、丸井は一苦労を終えて安心したように息をついてから文句を並べ始めた。
「やっと捕まえた。お前、俺が話しかけようと思った時には消えちまったみたいにどこかに行っちまうしさ、本当に全然話しかけらんなかった」
 今のを聞いて、永遠子は丸井が同じ教室にいてもまるでいないかのように振る舞っていた原因がわかると、もう二度と会うことではないだろうあの自称女神様の顔を思い出してげんなりとした。
 もしかしなくても、永遠子が知らない間に始めていた<勝負>に負けた腹いせにおかしな能力と使って、丸井と永遠子が顔を合わせないような小細工でもしたのだろう。
 永遠子はすぐに考えがいったが、もうすでにいない人の話をする気にはとてもなれず口をつぐんだ。
 あらぬ方向を見てぼんやりと考えにふける永遠子に、むっと短く唸ると丸井はつかんでいた永遠子のカバンの取手を引いた。その力は思いの外強く、永遠子は引っ張られるように丸井の前へ一歩歩み寄っていた。自分より少しだけ背が高い丸いの目線を合わせるために永遠子の顎は自然と少しだけ上がる。こちらの顔を見る丸井の顔は少しばかり怒っているようだったが、どこかくすぐったくなるくらいあたたかくやさしかった。
「普通に、」
 ひさしぶりに丸井にきいた口は永遠子が思ったようには動かず、つぶやくように小さな声しかでなかった。永遠子は自分を奮い立たせるように手を強く握ってから、言い直した。
「普通に話しかけてくればいいのに」
「だから、泉の方が俺のこと避けてたんだろ。
 そんな風に言うくらいだったら、お前の方から俺に話しかけてくれたって良かったのに」
 少し拗ねた様子で言う丸井に、永遠子は丸井が同じテニス部の仁王とべったりだったことを思い出して自分だって同じだろうと反論しようとした口を開いた。が、そうやって感情的になって何度も後悔したことを思い出すと、開きかけていた口を一度閉じて唇を湿らせてからゆっくりと話し始めた。今回は自分にも丸井にも素直になることにしたのだ。
「……もうこうやって丸井と話ができないと思った」
「それがいやだから、俺の方からこうして謝りにきたんだよ」
「謝るって、」
 素直になるとつい五秒か十秒前に決めたはずなのに丸井の口から「謝る」という言葉が出てきた瞬間、永遠子の内心は裏返しになっていた。
「丸井が私に謝る必要なんかどこにあるの?」
 言いながら、なんて自分は不都合にできているのだろうと永遠子は胸が詰まった。我ながら可愛げのない言葉は驚くほど滑らかに出てきた。
「私が丸井に期待して損したとか、丸井に憧れてたのに裏切られたとか、全部私が一人で勝手にやって、勝手に痛い目見たっていうだけで。丸井はなんにも悪いことしてないでしょ」
 永遠子は言い終えたそばから、この後に及んでまだ意地を張る自分に呆れのため息をついた。すると、丸井はカバンの取手から手を離すと今度は永遠子の方をつかんで、沈んで俯く顔を上げさせてきた。
「俺は、泉にそう思わせて泣かせたことも全部、謝りたいんだよ。
 テニス部のこと、お前は本当に関係なんかなかったのに俺から巻き込んで、全部お前に任せようとしてた。
 泉に、自分じゃない誰かに、お願いだけしていれば面倒なことは全部どうにかなるって勘違いしてたんだ。
 俺が足りなかったのは自分で自分の気持ちを伝えることだったんだ。それをお前はずっと言ってくれていたのに、無視してごめん。
 遅くなっちゃったけど、お前に教室で見損なったみたいなこと言われてから、やっとお前が言いたかったことの意味がわかってさ。あの後、真田たちにちゃんと俺が思ってたこと全部伝えたよ。
 ちゃんと言ったら真田にはテニスでボコボコにされたけど、みんなで幸村くんを全国に連れて行こうってちゃんと決められた。
 俺の好きなテニスが。
 立海のテニスができるよ」
 丸井からようやく知ることのできた事の顛末を聞いているうち、永遠子は肺のあたりが普段より熱くなっていることに気がついた。これが涙がこぼれそうになるのを堪えてるからではなく、安堵だと永遠子が自覚するのに少しだけ時間を要した。
「……丸井がちゃんとテニス続けられて、よかった。
 私の方こそあの時言いすぎて、ごめん」
 永遠子はやっと今まで言えずにいて気がかりになっていた言葉を口にすると、ずっと胸に支えていたものが消えて、今度こそ本当に終わったのだと肩の力が抜けた。ほっと息をつこうとしたその時、丸井が腕をつかんでいた手にまた力を込めて永遠子を揺すった。
「いった! なに?」
「まだ終わりじゃねえから。泉にまだ言ってない」
「もうなにもないでしょ」
「ある!」
 そう言うと、丸井はまっすぐに永遠子を見つめた。向けられた眼差しは日輪のように目蓋を伏せていなければ見ていられないほど、眩しく力強かった。
「泉、俺のこと助けてくれてありがとう。
 俺、自分がやるテニスがなによりも好きで、なによりも大切だってこと。忘れかけてた。
 でも、お前が俺の代わりに俺が大切にしていることを守ってくれて、思い出させてくれて、取り戻してくれた。
 あの時あんなこと言ってお前に失望させちゃったこと、悪かったと思ってる。本当にごめん。
 だけど、俺は自分が大事にすべきものはなにかもう忘れたり、捨てようなんてもう二度としない。お前に約束する。
 俺、お前の言うような自分の大事なものに真剣になって、どこまでも先を目指す奴になるから。泉は俺のこと見ててよ」
 いつの間にか丸井は永遠子の手を取っていた。感心するほど顔には自信に満ち溢れていた。
 それを見てなぜだか永遠子はさっき安堵をして生まれていたものとはまた別の、体がうずくような熱が生まれて、自分の手を包むようにする丸井の手を解いた。
 「自分ばっかりカッコつけたこと言わないでよ。
 私だって自分がやりたいことがはっきりして頑張らなくちゃいけないことがたくさんあって、丸井見てボーっとしてる暇なんてないの。
 だから、見てるのは丸井の方。次の学力テストで私と丸井の学内順位の差を百位以上つけるから、ショック受けてね」
 丸井に負けてたまるか。挑むように永遠子は宣言した。
「なんだよそれ! だいたいテニスと勉強じゃ比べられないだろ。というか、学内ってスケールが小さいんだよ。
 俺はテニスで全国制覇するんだから、泉も全国の模試で一位獲るぐらいしなきゃ釣り合いが取れねーよ」
「そんなの、できっこないでしょ!」
「じゃあ、この勝負は俺の勝ちだな。俺は本気だし、マジでとるからな全国」
「あんたさっきテニスと勉強は比べようがないって言ってたでしょ」
「もういいんだよ。全国は一緒なんだから」
「もうって何?」
 言い合っていると、テニスコートのある方向から丸井を呼ぶ大声が飛んできた。その瞬間、丸井は「やばい」と口走らせて背中を跳ねさせた。
「練習が始まる。もう行かなきゃ。真田も一人で全部やるのは大変だから俺が手伝ってやらなきゃな! 泉は?」
 言葉のわりに随分と楽しそうな顔で丸井は尋ねてきた。
「図書室で勉強するけど」
「そっか、頑張れよ」
「丸井もね」
 そう返すと丸井は右手の拳を永遠子へ突き出してきた。ややあって永遠子もそれに倣うように握った手を出すと、丸井の拳が永遠子の出したそれに軽く当てるようにぶつけてきた。テニスラケットを毎日握る丸井の拳は永遠子のものに比べたら骨からして大きくそれに少し堅かった。
 丸井がテニスコートに向かおうと背を向けると、永遠子も行くべき自分の道の方へ歩き出した。行く道は陽光を照り返しててキラキラと光っていた。少し歩いたところでまた向こうで丸井が永遠子の名前を呼んで手を振った。
「また明日な!」
 永遠子は晴々とした笑顔を浮かべて右手を目一杯高く上げると丸井の声に負けないくらい大きな声を出した。
「また明日!!」


─完─