05.溺れる記憶
私は焦っていた。どうせこれは夢なのだと、寝て起きればこの夢は終わっていると、そう自分の中で勝手に結論付けていたからだ。初任務を終えて、炎柱邸で一夜を過ごした次の日の朝、瞼を開ければ現代に戻れていると、そう信じて止まなかった根拠のない自信はガラガラと鈍い音を立てて崩れ去っていった。
「あなたがナマエちゃん?可愛いわぁ!」
現代に戻るどころか、縁側に腰をついて私は今喉かにお茶を啜っている。しかもあろう事にピンクと緑色の髪を携えた美女と共に。
「私、甘露寺蜜璃!よろしくね!あ、一応恋柱やってるの!」
多分そこそこ強いわぁ!そう言って、ニコニコと屈託のない笑顔で私に微笑み掛けてくれた甘露寺さんに「どうも、ナマエです」と右手をすっと差し出した。甘露寺さんは嬉しそうに目尻を下げて「うん!よろしくねナマエちゃん!」と愛想良く返事を返してぎゅっと強く私の手を握ってくれた。なんって人懐っこい人なんだろう。そして可愛い。同じ女の筈なのにこの差は何!?と心の中で悲痛な想いを叫んでおいた。庭園にある竹のししおどしがカコン!と音を立てたその時。少し離れた場所からズカズカと派手な足音を立てて此方に向かってくるある一人の男性にぎょっとしてしまった。
「甘露寺!来ていたのか!」
「煉獄さん、ご無沙汰してます!」
朝には相応しくない超ハイテンションでこの場に現れたのは煉獄さんだった。どうやら煉獄さんと甘露寺さんの仲は良好らしい。まぁ2人とも誰とでも仲良く出来そうなタイプではあるけれども。
「それにしても急にどうした!昨夜まで任務だったと伊黒伝いに聞いていたが!」
「は、はいっ!そうなんですけど、それは昨晩無事に終わりまして。今朝帰り道にたまたま寄った甘味処に美味しそうなさつまいものお菓子を見つけて、煉獄さんに渡そうと思って此処に来たんです」
「成る程な!無事で何よりだ!そして手土産もかたじけない!ありがとな甘露寺!」
マシンガントークで甘露寺さんに労りの言葉とお礼を伝える煉獄さんが何だか可笑しくて笑いを堪えきれずクスクスと笑ってしまった。そんな私を不思議そうに見つめてくる煉獄さんの横からひょこっ!と顔を覗かせた甘露寺さんに「良かったらナマエちゃんも煉獄さんと一緒に食べてね!」と笑顔でお菓子の入った箱を手渡された。はい、ありがとうございます!と笑顔で返事を返した私に優しく微笑んだ甘露寺さんは「じゃあ私帰りますね!」とそこに腰をあげて炎柱邸を去って行った。その場に残った煉獄さんと私だけの2人の空間内に朝の爽やかな風が吹き抜ける。何となくキラキラと光る池を見つめていた私の隣に腰を降ろした煉獄さんは「よし、食べるか!」と嬉しそうに箱の蓋を開けた。
「わー!美味しそうですね!」
「うむ、かなり美味そうだ!」
「……あ、私お茶入れてきますね!」
「いや、良い。此処にいろ」
「え?」
甘い物にはお茶が必要だろうと、その場に立ち上がった私の手を引いて煉獄さんはやんわりと私を再びそこに座らせた。お茶、要らないんですか?と疑問を口にする私に「まだ君のお茶が残っているだろう。これで良い!」と煉獄さんは笑った。こ、これで良いって…だってこれ下手したら関節キスにならない!?と内心ドキドキしている私をよそに、煉獄さんは口に含んださつまいものお菓子に「美味い!」と叫んでいた。掃除機に吸い込まれていくようにあっという間に消えていく箱の中身に唖然としていると、私の視線に気付いた煉獄さんとバチっと目が合った。彼の目力は桃寿郎君にそっくりで、うっかりトキメいてしまう。実にややこしい関係性だ。
「ナマエ、君は食べないのか?」
「た、食べますよ!勿論…!うん、めっちゃ美味しいですねコレ!」
何とか平静を保って、伸ばしたお菓子を口に含み煉獄さんに向かって感想を口にしておいた。正直味なんて気にしていられない程心臓は早鐘を打ってるからそれどころじゃないけれど、ここは演技でも普通にしとくべきだともう1人の自分が叫んでいるような気がしたからだ。もぐもぐと味を噛み締めているフリをして頬を膨らませている私に煉獄さんは大きな瞳を丸くして此方を凝視している。そうしてふっと小さく笑みを溢して嬉しそうに口角を上げた。
「可愛いな」
聞こえるか聞こえないか微妙な声量で、煉獄さんが口にしたその発言に手にしていたお菓子をポロっと膝に落としてしまった。息を吐くように自然と口にしたその発言に目が点になる。……い、今。可愛いって言った?え。可愛いって言ったよね?この人。
「落ちてるぞ、芋」
「………え?あ、あぁ。ほ、本当ですね!」
いやー!何やってんですかね私!とか何とか言って即座に誤魔化しに入った私の右手を煉獄さんが隣からやんわりと掴む。そのまますっと拾ってくれたお菓子を箱の上に置いて煉獄さんは至近距離で穏やかに私に微笑んだ。桃寿郎君にそっくりの煉獄さんは彼と同じように目が優しい。うっかり見惚れていた私の頬に手を添えて徐々に近付いてきた煉獄さんの端正な顔に思い切り目を見開いてしまった。ドク、ドク、と煩い心臓を抑えるように胸に手を当てて煉獄さんの行動を目で追っていると、目の前に影が差し上から見下ろすようにして視線を重ねてきた煉獄さんに息を呑んだ。
「下瞼に隈が出来ているぞ。昨晩は余り眠れなかったのか」
「………えっ、」
煉獄さんが余りにも近い距離まで顔を近付けてきたので、てっきりキスでもされるのかと期待してしまった邪な気持ちを横に追いやり、下瞼に指を当ててそっとなぞった。後で鏡で確認をしてコンシーラーで消そう!と意気込んだけれど、そういえばそんな物は此処にはなかったのだとがっくりと肩を落とした。
「ところで今日は互いに非番だな!何処へ行きたい?」
「…………へ?」
「折角の休みだ。ナマエの行きたい場所へ行こう!」
甘露寺さんが差し入れてくれた最後のお菓子をあっという間に平らげてそこに立ち上がった煉獄さんに真っ直ぐと挙手をする。物凄く真剣な表情で「はい!」と声を挙げた私に煉獄さんは「なんだ!」と快活な声で答えた。
「身なりを整える為に、私紅などを買いに行きたいです!」
「うむ、成る程な!確かにナマエもそんな年頃の娘だな!」
「はいっ!」
背筋をピン!と伸ばして、煉獄さんに提案をした私に、彼はとても柔らかい表情で意見を尊重してくれた。猫でも手懐けるようにゆるゆると頭を撫でてくれた煉獄さんはやっぱり桃寿郎君にそっくりで、本当に別人なのかとつい疑ってしまう。
「では準備が出来たら教えてくれ。俺はその間千寿郎と2人で鍛錬をしておく!」
「は、はい!分かりました…!」
そう宣言をして、煉獄さんはそこに立ち上がりこの場から一旦去って行った。因みに千寿郎君とはこの前私に洗面所の場所を教えてくれたミニ煉獄さんの事である。煉獄さんとは歳の離れた弟のようで、見るからに彼は千寿郎君の事を可愛がっているのだと分かる。それにしても煉獄さんも千寿郎君も、どの人も皆本当に桃寿郎君に顔がそっくりで驚いた。美形の一家で羨ましいなぁ…とぼんやりと考えていた私に「カァア!」と鳴き声を挙げてバサバサと翼をはためかせた鎹鴉が私の頭の上にヒラリと着地した。どうやらこの子は此処がお気に入りの場所らしい。
「アンタさっさと準備したらァア!?カァア!」
「はっ、そーだった…!ありがとう、真っ黒黒介!」
素直にお礼を伝えたというのに、鴉はこの前私が命名した名前が気に入らないのかいつものように嘴でカカカ!と私の額を突ついた。前回より更にパワーアップをしたその速さと痛みに眉根を寄せて涙目になる。ヒリヒリと痛む額を手で抑えたまま、とりあえず準備をしようと踵を返して自室に戻った。さて、何を着ていきますかね!と意気込んだのは良いものの、ここが大正時代なのをすっかり忘れていて、結局何枚かあるうちの一枚の着物に袖を通した。勿論、着付けなんてした事がなかった私は1人オロオロとしていたのだけれど、たまたま廊下を通りかかった女中の人が見兼ねて着付けてくれた。最後にハーフアップのように髪を結って、庭園で千寿郎君と鍛錬をしているであろう煉獄さんの元へと走る。私の姿を捉えたと同時に、何故か手にしていた竹刀の動きを止めて驚いたような表情を見せた煉獄さんに横に首を傾げた。……あれ。もしかしてこの時の私の先祖って、煉獄さんの前では隊服とか寝巻き以外はあんまり見せた事なかったの!?
「兄上、ナマエさんとても綺麗ですね!」
「あぁ…そうだな」
天使のように可愛い笑顔で笑った千寿郎君の感想に、煉獄さんは同意して穏やかに微笑んでくれた。そんな改めてまじまじと見つめられると流石にこっちも照れてくる。少し俯き気味に視線を彷徨わせていると、煉獄さんは「直ぐに戻る!」と言って早足で自室へと戻って行った。
「ナマエさん、兄上ナマエさんに見惚れていましたね!」
「えっ!そうなの!?」
「はいっ!あんなに面食らった顔を見たのは僕も久方ぶりです!」
「あ、そうなんだ…へぇえ。師範でもそんな感情とかあるんだね…!」
「えぇ、勿論!でもきっとそれはナマエさんだけです」
そう言って、千寿郎君はニッコリと花が咲くように笑った。その意見が合ってる合ってないは別として、煉獄さんに着物姿を褒めて貰えた事は素直に嬉しかった。千寿郎君と縁側に腰を下ろして他愛もない会話を繰り広げていると、少し離れた場所から「待たせてすまない!」と此方に駆け寄ってきた煉獄さんの和服姿に思わず卒倒しそうになってしまった。なんてこった。ただのイケメンじゃないか!
「行ってらっしゃい!2人ともお気をつけて!」
門の前まで見送ってくれた千寿郎君に手を振り返して、煉獄さんと2人肩を並べて町へと向かった。どうやら千寿郎君の話によると、ここから少し離れた場所に浅草があるらしい。この世界に身を置いてやっと聞き覚えのあるフレーズにほっと胸を撫で下ろしたのは、私だけしか知らない、ここだけの話だ。
「わぁー…っ!大正時代の浅草ってこんな感じだったんだ…!」
目的地に辿り着いて早々、大勢の人混みでごった返す中私はとても興奮していた。現代の浅草とは微妙に違う、本場のレトロさに思わず目を輝かせてしまう。和服の人もいれば洋服の人も居て、ちょっとした異国の地に訪れたような感覚だった。町の至る所に大きな旗が幾つも並んでいて、活気ある声で町中は溢れている。道の途中で煙管を咥えて小物を売っている人も居れば、大きな旗の下で曲芸を見て行かないかと声を掛けている人も居て、ただ歩いているだけでとても楽しくてやけに心が踊った。
「ナマエ、」
「はいっ!何ですか師範!」
「今大正時代の浅草…と口にしていたが、君はもっと古い時代の浅草にも詳しいのか?」
「…………えっ!?」
その質問に大きく目を見開いて、隣を歩いている煉獄さんに勢いよく視線を向けてしまった。煉獄さんが疑問に思うのは当然だ。だって今の私はあくまでもこの大正時代に生きた先祖の立場なのだから。米神に掻いた冷や汗を軽く拭いながらも「まさか!ただの冗談です!」と苦し紛れの言い訳をして煉獄さんの腕を引っ張り「さっ、行きましょう!」と後ろからグイグイと背中を押した。
「そこのお似合いのお二人さん、良かったらうちの店でも見て行かないかい?」
特に意味もなく、ズンズンと前に進んでいた私達2人の横から、やけに色っぽい声が聞こえきてピタリとそこに足を止めた。恐らく店の店主か或いは売り子の人なのだろう。突如として現れたその美女の色気に目が眩んで思わず目を細めてしまった。最早目の錯覚なのだが何となくその美女に後光が被さっているようにも見えて何度も目を擦ってしまった。い、良いな…私もあんな色気ムンムンの女になりたい。
「うむ、此処は何の店だ!」
「あらヤダ色男さん、化粧品店に決まってるじゃないか!良かったら見て行ってよお姉さん。安くするわよ」
「!ぜ、是非ともよろしくお願いします…!」
当初の目的でもあった化粧品店の登場に、私は嬉々とした表情でお店の中へと入店した。煉獄さんも直ぐに私の後を追って来て、2人して棚に並んでいる化粧品を吟味し始める。勿論、煉獄さんは男の人だから化粧なんて関係ないけれど、それでも嫌な顔一つせずこうして私の買い物に付き合ってくれる煉獄さんはまるで桃寿郎君のように思えた。現代でも2人でデートに行く時は、桃寿郎君も私がどんなお店に立ち寄っても何一つ嫌な顔はせず、寧ろ私以上に買い物を楽しんでくれる心優しい人だからだ。
「ねぇ、師範…!これ、このパッケージ!めっちゃレトロで可愛いくないですか!?」
「?レトロの意味がよく分からんが、うむ!悪くないな!」
「ねっ!とっても可愛いですよね、コレ!…あ、待って。あっちも可愛い…!しかもこれめっちゃ良い匂いします!」
興奮冷め止まぬまま、店の中をあっち行ったりこっち行ったりして落ち着きのない私の行動に、煉獄さんは愉快な声をあげてとても楽しそうに笑っていた。女という物はこういう店に入ったが最後、店を出るまでかなり時間が掛かるもので、次に気付いた時には結構な時間が過ぎていた。それに気付いて慌てて会計を済ませようと、腕に抱えていた化粧品達を売り子のお姉さんに手渡すと、お金を払おうとガマ口財布に手を伸ばした所で背後から煉獄さんにやんわりと動きを止められた。
「………え?」
「幾らだろうか!」
「あら、流石色男ねぇお兄さん。良かったわねぇあなた!」
「え、えぇっ…!?」
持つべき物は出来た男ね!そう言って、お姉さんはうっとりとした表情で頬に手を添えてはふわりと笑った。確かに煉獄さんは非常に出来た男だ。それは間違いない。けれども此処は甘える訳にはいかないと謎の女のプライドを発揮してズイっと煉獄さんの前に立ち憚った私に「ナマエ、」と背後から煉獄さんに肩を掴まれた。
「師範止めないでください!ここはちゃんと自分で払っ、」
「もう支払いは済ませたぞ!」
「そう!支払いは済ませたって……えっ!?」
嘘!いつの間に!?目を見開いて動きが止まった私の頭をポン!と撫でて煉獄さんは小さく笑った。そのまま私を追い越して前を歩いていく。その後ろ姿を小走りで追い掛けて「あの!」と大きく声を張り上げた。
「どうした!」
「いや、…あ、ありがとうございます!」
「うむ、気にしなくて良い!ただ俺が君に贈りたかっただけだからな!」
そう言って、私の代わりに大量の化粧品を両手に抱えたまま眉を下げて笑ってくれた煉獄さんに何故か胸が苦しくなった。それはただ単純に煉獄さんが桃寿郎君によく似ているからなのか、それとも大正時代に煉獄さんに恋焦がれていた先祖の記憶なのかよく分からなかったけれど、ただ今この瞬間、はっきりと煉獄さんに心惹かれたのだけは分かった。
「ナマエ、このまま歌舞伎を観に行かないか!」
「えっ!あ、はいっ!勿論…!」
踵を返して振り返ってくれた煉獄さんが、少年のように幼い表情で笑う。「おいで」と優しい眼差しで自分の元へと呼び寄せる煉獄さんに胸の中で何かが走りだしたような気がした。この気持ちを何と呼ぶのか、今はまだ気付かないフリをしていたい。煉獄さんとの距離を縮めながら、頭の片隅で一人そんな言い訳を必死に考えていた。