02.鳥の行く末と飛行ルート
「住処を変えようと思っている」
鬼殺隊が解散をして、冨岡さんと2人で過ごす穏やかな日常は続いていた。山の麓で見つけてきたキノコの泥を払う私の背後から、気配なく近付いてきた冨岡さんが冒頭の言葉を口にする。水に浸からせて、せっせとキノコを洗おうと目論んでいた私の動きがピタリと止まった。
「またどうしたんですか、急に」
「少し前から考えていた事だ」
「そんな事、私は今まで一つも聞かされた事はないですが」
「今初めて口にしたからな」
無表情でそう言ってのけた冨岡さんは「今日の夜は鮭大根が良い」と呟いた。鮭大根は作るけれど、いや。今はそんな事どうでも良いんじゃないだろうか。冷静に頭の片隅でそんな事を考えた私がそこにすっと立ち上がる。袖を捲った手を前に差し出して人差し指を冨岡さんに翳しては「そういう大事な事はもっと早くから教えてください」と不満を露わにした。
「そもそもこんな立派なお屋敷があるのに、何が不満なんですか?」
「不満はない。だがもうこの場所に留まる意味も無くなった」
「……………」
「俺はこの場所から離れて、この世に鬼は存在しないと実感をしたいのかもしれない」
何処か儚げに笑う冨岡さんの表情に不満も怒りも同時に消え失せてしまう。きっと、その想いは素直な気持ちなのだろう。この世界に鬼は居なくなった。これまで多くの鬼を作りだしてきたあの鬼舞辻無惨でさえももうこの世には存在しない。その狭間で大勢の大切な人達を失い、その中で辛うじて生き残った少数の人間がこれから訪れるであろう明るい未来を想い描いている。私や冨岡さんや炭治郎達だって、その想いはきっと同じ筈だ。
「………仕方ないですね。良いですよ。私は何処までも冨岡さんについていきます」
「すまないな。出発は明日の早朝だ」
「分かりました、準備だけ今夜終わらせておきます」
もう以前のように私の事を拒否しない冨岡さんに心の中で酷く安堵した。当然のように私を連れて行くと考えてくれた冨岡さんに改めて感謝を伝えたと同時に、何故か無性に不安になって少し離れた場所に立っている冨岡さんに駆け寄り一気に抱き着いた。「どうした?」と不思議そうに横に首を傾げた冨岡さんの胸に顔を埋めて「どうもしませんよ」と精一杯の強がりを口にしてみせる。それに全てを悟ったのか冨岡さんは目を細めて穏やかな表情で私の頭を撫でてくれた。
「冨岡さん、見てください!海ですよ!」
目の前に広がる広大な海を前にして、興奮冷めやらぬまま冨岡さんの腕を強く引っ張った。脇道を逸れて小道を通り抜けた先に広がっていたのは夏の匂いが漂う青々とした海だった。磯の香りがする砂浜を冨岡さんと肩を並べて歩き、暫くして砂浜に腰を下ろした。押しては返す波音に、上空に羽を広げて飛び回る鳥達。ふと周囲に目をやると家族連れの人達や逢瀬を重ねているであろう男女達が大勢そこに集っていた。
「みんな楽しそうで良いですね」
「あぁ、そうだな」
穏やかな表情で微笑んだ冨岡さんに自然と自分の頬も緩む。視線を前に戻して膝を抱えるように座る私に寄り添い、無言で海を眺めている冨岡さんの表情は何処か吹っ切れたような顔をしていた。たまたま辿り着いた場所とはいえ、こうして2人肩を並べて穏やかな波音に耳を傾けているこの時間が永遠に続けばいいのに。脳裏に浮かぶ今朝のやりとりを走馬灯のように思い返しては何かを祈るように瞼を伏せた。
「本当にこの場所から離れても良いんですか」
まだ薄暗い早朝時に、屋敷の前に足を止めて、下から見上げる形で見つめていた冨岡さんに声を掛けた。「未練はない」そう小さく呟いてそこに踵を返した冨岡さんの前にすっと掌を翳して目の前に憚る。
「今ならまだ間に合いますよ」
「言っただろう。未練はない」
「なら何でそんなに感傷に浸っていたんですか」
「長く住めば嫌でも情はうつる。それは当然の事だろう」
「行くぞ」と私の頭を小突いて前を通り過ぎようとした冨岡さんの羽織を掴む。訝しげに眉を寄せた冨岡さんの顔が曇った。羽織を掴んだままその場所から微動だにしない私に「ナマエ」と冨岡さんが私の名前を呼ぶ。でも今は何となく掴んだこの手を離してはいけないと思った。
「分かりました、旅立ちましょう。だけど覚えておいて下さいね」
「…………」
「この地には冨岡さんに救われた人達が大勢いるって」
「だがその分多くの人々を死なせた。それにそれは決して俺だけの力で成し得た事ではない」
「まぁまぁ、そんなに自分を卑下せずに。……あ。新しい家が決まったら炭治郎達に知らせなきゃですね。宇髄さんや不死川さん達にも」
「……………」
「皆んな元気にしてるかなぁ。会いたいですね!」
「あぁ…そうだな」
風に揺れて、前より少し短くなった冨岡さんの髪が横に靡く。眉を下げて、困ったように笑う冨岡さんに抱きついた瞬間何故だか泣きそうになってしまった。多くの人を死なせたと冨岡さんはいつだって自分を責めるけれど、だけどその分大勢の人が救われた命だってあったのだと理解して欲しかったから。確かに私達は鬼殺隊という、通常ならば余り人には理解されない任務をこなしてきた。その都度出会う人々に蔑まれたり感謝を伝えて貰ったり、本当に色々あったけれど、沢山の人達の力を借りて今この場所に立っているこの先の未来は、きっと良い事づくしに違いない。そう伝えたかった。けれどそれを実際に口にするには上手い言葉が思い浮かばず俯く私に、冨岡さんが再び「行くぞ」と私を急かす。最小限の荷物を持って前を歩くその後ろ姿に「待ってくださいよ」と声を掛けて後を追った。
「鳥ってどんな気分で空を飛んでるんですかね」
「……………」
脈絡のない私の話を遮るように二羽の鳥が羽を広げて私と冨岡さんの目の前を横切っていく。仲睦まじく飛ぶ様はまるで、今の私達の状況に似ているなとぼんやりとそんな事を思った。思考を巡らせて砂を手にし、サラサラと指の隙間から零れ落ちていく砂を無の感情で見つめていた。何度かその行動を繰り返している私に、冨岡さんは「皆目見当がつかないな」と独り言のように呟いた。
「そもそも鳥に感情はあるのか」
「あると思いますけど。現に鎹鴉もそれぞれ性格が違ったじゃないですか」
「あれは…鳥じゃない」
「え?じゃあ何だって言うんですか」
「……………」
「思いつかないんですね」
大真面目に素っ頓狂な発言を言ってのけた冨岡さんに肩の力がずるっと抜け落ちる。相変わらず予想の斜め上をいく男だ。鎹鴉が鳥じゃなければ何だというのか。言うだけ言ってそれ以上の説明をしない冨岡さんにどう考えても共感が出来なかったので口を噤んで真っ直ぐと前を見据えた。初夏の生暖かい風が私と冨岡さんの羽織を揺らす。太陽に反射してキラキラと光る海がやけに眩しくて目を逸らすように再び砂に手を伸ばした。
「それにしても私達、今何処を目指しているんですかね。冨岡さん的には行き先とか決まってたりするんですか?」
「いや…特にはない」
「ないんだ。ぶっつけ本番すぎません?」
「旅というものは行き先を決めるものじゃない」
「はぁ…そうですか」
今朝から目的もなく、道を進むがままこの地に辿り着いたものだから私の腹の虫は限界を迎えていた。かと言って余り立派なものは持ち合わせていないのでどうしたもんかと1人眉を寄せる。暫くの間砂を弄っていた私の脳裏にある一つの閃きが走った。そういえば昨日の昼間和菓子屋で購入した砂糖菓子があるじゃないかと。手を叩いてそこに立ち上がり、目の前の海へと近寄り軽く手を洗っては元の位置に戻る。そしていそいそと懐からそれを取り出して懐紙にくるんでいた菓子を取り出した。無言で海を見つめている冨岡さんの目の前に懐紙事差し出して「良かったら一つどうぞ」と笑顔で促した。
「甘いな…」
「砂糖の固まりですから。当然です」
「お前は甘い物に目がないな」
「違いますよ、冨岡さんと一緒に食べるから美味しいんです」
「……………」
「あれっ、聞いてます?冨岡さん」
「……ナマエ、」
「え?」
ふいに名前を呼ばれて、首の裏に廻った冨岡さんの腕に引き寄せられた。重なり合った唇の隙間から熱い吐息が漏れる。まるで私の口内を味わうかのように存分に口付けを堪能した冨岡さんが「距離が遠い」と呟いた。多分もっと側に来いと言っているのだ。頬に手を添えて、柔らかく笑う冨岡さんに一気に頬が熱くなる。この人は本当にどこまでもズルい人だ。
「砂糖菓子の味…」
「あぁ、甘かったな」
「……あ、ちょっと!お菓子全部食べてるじゃないですか!」
「?俺にくれたんじゃないのか…」
「そうですけど…全部あげるとは言ってません!」
ぎゃあぎゃあと喚いている私が面白かったのか、冨岡さんは私の頭を撫でながら「悪かった」と笑顔で返事を返した。そのままやんわりと腕を引かれて冨岡さんの膝の上に座らされる。背後から私の頭に顎を乗せてぼんやりと海を眺めながら私の手を摩っている冨岡さんの手はいつも暖かい。雪がしんしんと降る夜も、雨に濡れて体温が下がる日も、いつだってこの手は暖かかった。鬼に最愛の家族を惨殺され、絶望の淵に立たされていた私の手を取り「前だけを見て生きろ」と握ってくれたあの時もとても暖かったから。フラッシュバックをしたあの頃の自分に一つ言える事があるとしたなら、鬼のいない未来の私は幸せに包まれた日々を送っているから安心していいよと伝えたい。
「……あ。鳥が…」
「?鳥が、何だ」
冨岡さんの胸に寄り掛かるようにして見上げていた青空に人差し指を翳して、彼の羽織をぎゅっと掴んでは視線を誘った。目を輝かせて上空を見つめる私に不思議そうに目をやった冨岡さんが私と同じようにそこに目を向ける。大勢の群れを成して右に左にと自由に飛び回る鳥達が次第に自分の行く道をつき進んでいくかのように二手に分かれていった。まるでそれぞれの分岐点だと言わんばかりの勢いで、羽を広げてこの地を飛び去っていく鳥達はとても勇ましく、そして美しかった。
「何処に旅立っていったんでしょうね」
「…………」
「あんなに皆んなで群れていたのに寂しくないのかなぁ」
「寂しくはない。心が通っていればいつでもこの地に戻ってこれる」
「……そっ、か。ですね!」
そう穏やかな声で口にした冨岡さんの発言に腑に落ちた私が笑顔で振り返る。肩に廻った冨岡さんの腕の中がとても心地が良くて自然と瞼を伏せた。顔に影が指し、冨岡さんの顔がゆっくりと近付いてくる。啄むように上唇を吸われて、一度私から顔を離した冨岡さんと目が合った瞬間に一気に唇を奪われた。冨岡さんの大きな腕の中で倒れ込むように口付けを繰り返す私達を祝福するかのように、その時遠くで一羽の鳥が鳴き声を挙げた。大好きな人と過ごすこの余生は、永遠ではなくとも幸福に満ち溢れている。それをより一層感じていたくて、でもその先を考えるとどこか物哀しくて、冨岡さんと唇を重ねながらも切ない感情が一気に押し寄せた。目尻にジワリと涙が浮かび、吐息を交えながらも見上げた冨岡さんの両頬にそっと手を添えて自分の元へと引き寄せてはそこに一つ唇を寄せた。
「冨岡さん…」
「なんだ」
「冨岡さ…っ、」
「…………」
零れ落ちた一滴の雫が私の感情を肩代わりする。次第に止まらなくなった涙を必死で拭いながらも「すみません」と謝った。冨岡さんの腕の中で手で顔を覆って隠す私に「ナマエ」と冨岡さんの優しい声が頭上から降ってくる。
「何も口にしなくて良い」
「………え…っ、」
「お前の想いは理解している…」
きっと、普段から冨岡さんは天然のようで天然じゃない。誰よりも人の気持ちに敏感な人だ。きっと今感じている私の想いなんて冨岡さんには全てお見通しなんだろう。だけど無理して距離を詰めず、優しい言葉をくれる冨岡さんに素直になれない自分が何処かで邪魔をする。大好きなのに、幸せなのに、どこか切ない。もし神様が本当に存在するならば、4年後の冨岡さんも10年後の冨岡さんも、その隣には私を置いて欲しいと切に願った。
「行くぞ。少し寄り道を長引かせてしまった」
「……はい」
最後に一度微笑んで、私の瞼に唇を寄せた冨岡さんに手を引かれてそこに立ち上がる。砂を払って、目の前に広がる広大な海に別れを告げては踵を返した。ザクザクと砂浜を歩く私と冨岡さんの頭上に群れから遅れをとった二羽の鳥が羽ばたいていく。その鳥達の行く末をぼんやりと眺めながら、心の中で今の私と冨岡さんの2人に重ね合わせた。行き先は何処でも良い。ただあの鳥のように、風に乗って何処までも冨岡さんと2人で前に進んでいけたらと。願いを込めて視線向けた二羽の鳥が、遠く離れた場所で嬉しそうな鳴き声を挙げていた。