01.花息吹く頃に


「俺には時間がない」


穏やかな早春の風が頬を撫でたその日。草原に広がる青空を見上げながら冨岡さんは独り言のようにそう口にした。いや、もしかするとそれは本当にただの独り言だったのかもしれない。見渡す限り周囲には誰も居ないけれど、相手は予想の斜め上をいくあの冨岡さんだ。空耳だとしたなら失礼に当たるので聞こえてないフリをしてそのままそこに静かに瞼を閉じた。

「無視をするな」

「あ、やっぱりそれ私に言ってたんですか?」

「他に誰がいる」

「居ませんね。どう見ても私1人です」

よいしょっと。そんなありがちな掛け声でそこに起き上がった。隣には冷めた視線で此方を見つめる冨岡さんが自分の後頭部の裏に左腕を組んで草の上に寝っ転がっている。鬼舞辻無惨との闘いを終えて鬼殺隊が解散となった今、この世界に鬼は一体として居なくなった。それはとても喜ばしい事だが、私達鬼殺隊としてはこれまで鬼を滅殺する事だけを目標に生きてきたので正直それぞれ残りの余生をどう過ごすか悩んでいた。

「俺には時間がない」

「あ、はい。それさっきも聞きました」

「ナマエ、お前はどうしたい」

「何がですか?」

「お前はもう何処にでも行ける。自由の身だ」

草原に咲き誇る色鮮やかな花達が風に乗ってゆらゆらと踊っている。所々風力に負けて一枚、また一枚と散っていく花びらの行方を追い掛けるように右に左にと視線を泳がせていた。行き場を迷ったのか、ヒラヒラとある一枚の花びらが冨岡さんの髪に被さり、何だかその姿がとても可愛くて頬を綻ばせた。

「冨岡さんと一緒に居たいです」

「俺の話を聞いていたのか。時間がない、そう言っている」

「あぁ、痣の事ですよね?それがどうかしましたか?」

正気か?とでも言いたげな表情で大きく目を見開いた冨岡さんはそこに勢いよく起き上がった。草の上に手をついて、片膝だけ折り曲げた冨岡さんは満面の笑みを向けている私に呆れた表情をしている。でも此方としてはそれはいつもの事なので笑顔を崩さぬまま冨岡さんの髪にそっと手を伸ばしてあの一枚の花びらを優しく掴んだ。

「これ、何の花びらだろう…可愛い色」

「………ネモフィラだ」

「ネモフィラ?」

「丁度今の時期から開花し始める」

「へぇ、そうなんですね。水の呼吸を使っていた冨岡さんには持ってこいの色ですね」

「……………」

へーとかふーんとか口にしながらも手にしているその花びらをまじまじと見つめた。瑠璃色で青空を連想させるような色に目を奪われていた私の手首を冨岡さんが前から掴む。意識はそこにあったので勿論完全に無視は出来ないと分かっていたけれど、いよいよ本格的に厄介な展開になってきたなと眉を寄せた。

「もう、何ですか冨岡さん。今忙しいんですけど」

「何じゃない。それは俺が口にしたい言葉だ」

「だからさっき言ったじゃないですか。私は冨岡さんと一緒に居たいんです」

「俺はあと4年しか生きられない。お前の側には最後まで居られないと分かった上での発言か、それは」

「勿論ですよ。今更何言ってるんですか」

「……………」

「さっ、じゃあ行きましょう。お団子食べに」

掴まれた腕を逆に掴み返してそこに強制的に冨岡さんを立たせた。そのまま冨岡さんの腕を引っ張って小高い丘になっている草の上をゆっくりとした足取りで2人して歩く。私より半歩後ろを歩く冨岡さんは、聞こえるか聞こえないか微妙な声量ではぁと深い溜息を吐いていた。

『ナマエ、お前に一つだけ伝えていなかった事がある』

昨晩、やたら深妙な面持ちでそう告げた冨岡さんは、目の前に正座をして座る私の瞳を真っ直ぐと捉えて痣の意味を教えてくれた。冨岡さんが身を置いている屋敷の縁側から見えた三日月がとても綺麗でぼんやりと夜空を見上げていた私に、自分は25歳までしか生きられない事。私とは生涯一緒には居られない事。使命を果たせて安堵はしているが、最後に残されていく私が気掛かりなのだと素直な想いを口にしてくれた。それら全てを踏まえた上でお前はお前の好きなように生きれば良い。そう何一つ表情を変えぬまま冨岡さんは私に結論を急かしては最後に少しだけ寂しそうに瞼を伏せた。

「美味しいですね、このお団子。やっぱり噂通りの味です」

はい、冨岡さんも。そう一言添えて隣に座る冨岡さんに「あーん」と手にしていたみたらし団子を口に含ませた。もぐもぐと難しそうな表情で無言でそれを食べている冨岡さんに笑みが溢れる。多分今の冨岡さんに言葉を当て嵌めるとしたなら、俺は今一体何をしているのだろうとかそんな所だと思う。

「ナマエ、」

「あ、見てみて冨岡さん。野良猫」

「野良猫?」

「可愛いですね。何処から来たんだろう」

少し離れた場所で野良猫がにゃあと鳴く。そのままそこに横たわって舌を出してはペロペロと自分の毛を舐めていた。満足そうに目を細めて毛繕いをしているその姿はとても愛らしく、猫自身もまた「私って可愛いでしょう?」と此方に訴え掛けているようにも見えた。

「冨岡さんって動物とか好きですか?」

「好きではない」

「じゃあ嫌いですか?」

「嫌いでもない」

成る程。要するに興味がないのか。そう心の中で訳してそこに腕を組んだ。雑草が生い茂るこの場所には私と冨岡さんと店の奥にいる店主しか居ない。まるで此処はどこかに隔離された世界のようだ。暖簾の隙間から顔を覗かせてうちの店の味はどうだい?と誇らしげに笑う店主に最高です!と笑顔で告げた。視線を元に戻して真っ直ぐと前を見据える私に、冨岡さんは「話を逸らすな」と不満げに私の肩を掴んだ。

「逸らしてないですよ。お団子美味しいですねって言ったんです」

「お前は俺に情けを掛けているのか」

「情け?何に対してですか?」

「俺は昨晩お前に伝えた。生涯添い遂げる事は不可能だと」

「えぇ、ちゃんと聞きました」

「ならば…何故お前は俺から離れようとはしない」

何故、なんて。今更そんな分かりきった事を聞かれても正直困る。「好きだから。それ以外に何か理由はありますか?」と横に首を傾げた私に冨岡さんは珍しく面食らった表情をしていた。瞳孔までも開いてそれは予想していなかった、とでも言いたげな顔だ。

『あなたをお慕いしています』

最初に想いを告げたのは私の方だった。放っておけば1人で何処かに飛んで行きそうな冨岡さんの腕を掴んで、側に居たいと素直な願いを口にしたその夜は満月が輝く静寂に包まれたある晩の事だった。リーンリーンと鳴く鈴虫の鳴き声に重なるようにどくどくと心臓が早鐘を打つ。頬を真っ赤に染めて、そこに俯く私に冨岡さんは目を丸くして「本気なのか?」と小さく私に問いかけた。

「ほ、本気です…!冗談でこんな事口にすると思いますか?」

「いや…別に冷やかしだとは思っていない」

「冨岡さんさえご迷惑じゃなければ、私はあなたの隣に居たいと思っています」

「……………」

「何度でも言います。あなたが好きです」

冨岡さんの腕を掴んでいる手が小刻み震えた。緊張の余り今にも口から心臓が飛び出しそうだった。初めて会った日から冨岡さんに心を惹かれた。いつだって遠くを見据えて、未来を見つめている冨岡さんの横顔が気になって仕方なくて。ただの興味本位でしかなかったその想いはいつしか蕾を膨らませてみるみるうちに開花していった。側にいたいと願うその身勝手な想いは、ただただ冨岡さんを困らせてしまうだけのものだとしても。

「俺は…お前の事をそんな風に見たことはない」

「分かってます…でも伝えたかったんです」

「……………」

「私の事…どう思ってますか?1人の女としてではなく、鬼殺隊の仲間として」

「……よくやっているなと思う」

「なら1人の人間としてはどうですか?」

「……………」

「嫌いですか?」

「………嫌いではない」

「良かった…もうそれだけで充分です」

「……………」

決死の想いで伝えた私を褒め称えるように、その時一枚の花びらが風に乗ってひらひらと舞い降りた。やがて縁側に横たわったそれを手にして口角を上げて1人微笑む。夜空に翳して、少し透けて見えた花びらの向こう側には毎夜毎夜想いを募らせてきた私を見守ってきた満月が浮かんでいる。もう充分だろう。想いは存分に伝えた。目の前に佇む冨岡さんの一番にはなれなくても、同じ鬼殺隊として世の中を良くしたいと思うその気持ちは一緒だ。踵を返し、目の前に居る冨岡さんへと視線を戻し「また明日からいち仲間として宜しくお願いします」と最後に微笑んだ。

「ナマエ、」

自室に戻ろうとその場を離れつつあった私の背中に冨岡さんの声が被さった。ピタリとそこに足を止めて踵を返し振り返る。その時初めて冨岡さんに名前を呼び捨てにされた事にも十二分に驚いたけれど、そんな事よりも反射的に掴まれた腕の温度がやけに熱くて戸惑った。

「……俺はお前の事をそんな風に見た事はない」

「は、はぁ…それは今聞きましたけど」

「だが易々とお前を手離す気もない」

「え?」

何かと葛藤するように、眉を寄せて真剣な眼差しを向ける冨岡さんの瞳が揺れていた。そのままぐいっと勢いよく腕を引かれて冨岡さんの広い胸の中に閉じ込められた。両腕で私を強く抱き締める冨岡さんの熱い吐息が私の耳元に這う。「側に居たいのは俺の方かもしれない」と小さく呟いた冨岡さんの言葉にジワリと涙が浮かんだ。

「あの言葉は嘘だったんですか?」

「……………」

お皿に残っていた最後のみたらし団子を口に含み、咀嚼をしてゴクンと一気に飲み込んだ。最後に抹茶を啜ってはぁと小さな息を吐く。喉かな風景だ。天気も良いし、風に揺れる木々の枝には小鳥達が嬉しそうに鳴いている。時間に追われず、こんなにも晴れやかな気分で空を見上げたのはいつぶりだろうか。鬼がいないこの世界は今日もとても平和で、小さな幸せが大きな幸せへと日々変化していく。

「嘘ではない」

「じゃあ良いじゃないですか。いい加減しつこいですよ」

「お前こそ俺の話の意味はちゃんと理解しているのか」

「えぇ、勿論してますよ。でもそれ以上に冨岡さんと一緒に居たいんですから仕方ないじゃないですか」

「……………」

「分かってますよ。冨岡さんが私の事を心配してる事ぐらい」

本当に変な所心配性ですね。まぁそんな所も好きなんですけど。

そう言い残して、腰を上げた私の手を冨岡さんが後ろから掴んだ。思いの外強いその力に驚いていると幾らか力は弱まりやんわりと腕を引かれて再び椅子に座らされた。ただし今回は冨岡さんの両足の間だったので追いつかない状況の処理にパチパチと2回瞬きを繰り返してしまったけれど。

「俺の負けだ」

「え?」

腰に廻った冨岡さんの左腕の力がぎゅっと強まった。そのまま私の首筋に顔を埋めて犬みたいに匂いを嗅いでくる。この人は何をしているんだろうか。そんな事を考えつつも突然の抱擁に戸惑いを隠せず、けれどもそれ以上に誰かに心臓を鷲掴みにされたのかと疑うほど胸が馬鹿みたいに苦しくなった。

「これ以上俺が注意を促しても、聞く耳を持たないのなら時間の無駄だ」

「……………」

「ナマエ、共にいよう。俺が生涯を終えるその日まで」

「………えっ!」

本当に?そう確かめようと後ろに振り返った所で顎に手を添えられて噛みつかれるような口付けをされた。上唇を舐められて隙を見せた私の唇の端から冨岡さんの舌がぬるりと侵入してくる。口内で逃げ惑う私の舌を捉えて逃すかとでもいうように必要以上に舌を絡ませてくる冨岡さんの羽織をぎゅっと控えめに掴んだ。くちゅくちゅと卑猥な音を立てて犯され続ける私の唇から、はしたない涎が溢れ出る。存分に堪能された所でようやく互いの顔が離れ、至近距離で見つめ合う私と冨岡さんの間に、はぁと熱い吐息が漏れた。

「好きです…」

「それは承知の上だが」

「冨岡さんは?」

「……………」

荒い呼吸を整えて、見上げた視線の先には何かを考え込むように右上に視線を逸らす冨岡さんが居て。暫くの間そんな沈黙が続き、どうせ言葉にはしてくれないのだろうと諦めかけていた私の右頬に冨岡さんの暖かい手が這う。そのまま優しく頬を撫でられて冨岡さんの端正な顔が一気に近付いた。

「俺も好きだ」

ようやく聞けたその決定打に嬉しさからか頬に一筋の涙が伝った。後で怒られても良いやと勢いで冨岡さんの胸に飛び込んだ私の頭を撫でるその手はとても優しかった。大きな風が吹いてヒラヒラとあのネモフィラの花びらが頭上に舞う。まるで必然のように再び冨岡さんの髪に辿り着いた花びらに、2人して「春が来たな」と笑い合った。




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