結婚。それはある程度歳を重ねた大人女子ならば、一度は意識をしてしまうフレーズではなかろうか。恋に恋をした旬な10代、20代前半を順当に終え、いわゆるアラサーに差し掛かった20代後半大人女子に待ち受けている現実と言えば、この『結婚』の2文字だろう。
振り返ってみれば、私の恋のマニュアル本は何ともお粗末なものだ。
14歳。正に中2病真っ盛りの青春時、念願の初彼氏GET。確かマサシ…いや、マサフミくんだったかな。まぁ、どっちでも良いけど、そんな感じの名前だった彼とは、鼻垂れた中坊らしく健全なお付き合いだった。手を握られただけで、何だお前頭可笑しいんじゃねぇのレベルで顔を真っ赤に染めあげ、きゃ!今彼私の手を握ってくれたわ!とかなんとかかんとか分かり切った感想を心の中で述べてはときめいたものだ。
だが、結局その彼とは2ヶ月でお別れを告げ、別れた原因もお年頃の思春期にはよくありがちな彼からの「ごめん、他に好きな子が出来た」宣言だった。あぁ、もう彼氏なんていらない。そう胸に誓いつつも学習能力が無い私は、その後晴れて高校生になって直ぐに、今度は憧れの年上の彼と付き合う事となった。
初めてのチッスに、初めてのセックス。順当に、そして着実に大人への階段を登りきり、そしてやはりその年上の彼とは3ヶ月後にあっけなくオサラバする事となった。その瞬間、私はある悟りを開く事となる。
「やっぱり女は愛されてなんぼだ」、と。
あの時の悟りは今こうしてアラサーになった自分に開放感を解き放つように、そして時にがんじがらめに複雑に交差し、そしてその結論は不動の位置付けだとあの頃の自分が現在の私に迎え撃つかのように耳元で小さく囁く。
………だが、いざその立場になって出てきた台詞と言えば
「ごめんなさい、貴方とは結婚出来ません」
などと言う、大変ふざけた返答ときた。けしからん。けしからんぞナマエ。お前はこの20数年間、恋のマニュアル本の一体何を見てきたと言うのだ。
「ただその旦那の事、単純に好きじゃなかったんじゃないですかィ」
ぷぅ、と、口内で噛んでいるチューイングガムを真ん丸に膨らませ、簡潔に結論を言って述べた男。そう。私のセックスフレンドならぬ、ドS界切り込み隊長、沖田総悟だった。
「んな訳ないでしょ。だってなんだかんだトータル3年も付き合ってたんだよ?中坊みたく、一ヶ月二ヶ月どころの付き合いじゃないのよ、分かる?この大人の世界が」
「じゃあ何でわざわざ結婚に焦ってる女が念願のプロポーズを断ってんですかィ。どう考えてみても、そんなに好きじゃなかっただけの話にしか聞こえねぇや」
「シャラップ!あの時の私はきっとどーにかしてたのよ!じゃなきゃあんなウンコみたいな台詞出てくる訳がない!」
「ウンコなのはあんただろィ」
そう言って、パチン!と膨らませていたガムを弾けさせた総悟は、自分の後頭部に腕を廻し、ベッドの壁に寄りかかるようにして切れ味抜群なツッコミを入れる。
くっ…!相変わらず、なんってふてぶてしい男なのだろうか…!一年前、ひょんな事から友人からセフレへと転落したこの男に、そんな当たり前な事なんて死んでも言われたくはない!
『俺、あんたに惚れてまさァ』
あれは木枯らしが吹く、秋到来の時期の事だ。『あんたに話がある』そう淡々と切り出してきたこのドS野郎は、深夜2時という真夜中な時間帯なんてお構いなく、これまた淡々と愛の告白を私に告げてきたのだ。
え、何でいきなり!?え、つーか何で今!?その前に、あんた今深夜だって分かってる!?
そう的確なコメントを吐き捨てる私に恥じらう訳でもなく、かと言ってこれと言って答えを追求してくる訳でもなく、まさにちんぷんかんぷんな私に向かって、総悟はようやく固く閉じていた口を開き、そして薄っすらと笑みを浮かべて、こう言葉を紡いだ。
『まぁ、まずは身体の関係からって事でィ』
ドヤ顔でハッキリと、そして無駄に艶っぽく宣言した総悟の頭はまじで可笑しいと思う。どこの世界に自分が惚れた女をセフレにしたがる男がいると言うのか。誰かこの男のマニュアル本を作って私に下さい。いやまじで切実に。
『あいにく、あんたと恋仲になる事に焦ってないんでねィ』
そうニヤリと、再び不気味な笑をこちらに向けたその僅か0.1秒後、獣じみた総悟を拒む事が出来ぬまま、あっさりと美味しく頂かれてしまった馬鹿な私。まぁ、やってしまった事はしょうがない。次からはまたただの友人関係に戻ればいいのだ。なんて、そんな悠長な事を考える暇なんてなかった。
そう、私はこのドS野郎の事を甘くみすぎていたのだ。そして本当は全部分かっていた。この世に男女の友情なんて、成立しないという事を。
「あぁ…でも何でよりにもよってコイツなの。一年前の私、完璧にどーかしてたわ」
「なーにしらばっくれてやがんでィ。今更遅ぇや。つーか、あんたの方が最初からノリノリだっただろ。総悟ーもっとー、とか」
「ぎゃぁあああ!!いいから!そういうのほんっといいから!!まじ黙ってお願い300円あげるから!」
思い出しただけで、背筋がぞっと凍ってしまいそうな赤裸々エピソードを、ストライクボールの軌道に乗せてこちらにぶん投げて来やがる総悟選手。…の、頭頂部を勢いよく片手を直下させて、左右にブンブンと頭を揺らす。いやほんと勘弁してください。
確かに3年付き合った割には一向に相性が良くならない(元)マイダーリンより、あんたのドSプレイには大興奮させて頂きましたけども?えぇ、そりゃ獣のようにただただ大興奮して感度は良くなりましたけども?でもだからと言ってあれとこれとそれとじゃ大きく異なるのよ!って、うん。もう何言ってんのか自分でもよく分かんないわ。よし一旦黙ろう。絶対それが良い。
「俺は前にちゃんと言いましたぜィ」
「うん?」
「あんたと恋仲になる事に焦ってはねぇって」
「…………」
大きなダブルベッドに大きなどんぐり眼。そして大きくて真ん丸なチューイングガムを引き続き器用に膨らませつつも、総悟はいつもの様にヤル気0の気だるそうな口調で、ひょうひょうとこちらを見上げてくる。壁に背を預ける為に上半身を起こしている私とは違い、中途半端に体重を壁に乗せている総悟の横顔は、私の位置からしてみれば丁度頭一個分の差だ。どうやっても総悟の上目使いは免れない。くそっ。可愛すぎるだろうがこのドS野郎。普段は忘れているがこういう時に嫌でも再確認する。奴は腐ってもイケメンだと。
「あ、あぁ…そうね!はいはい!確かにそんな事言ってた気もしなくはな」
「さて、じゃあーお待ちかねの問題です。いえーパフパフー」
「………は、」
「一年前、俺はあんたの事を直ぐに自分の物にしようとはしなかった、その理由は何でしょうー。次の三択から選びなさい」
「は、はぁ…?」
突如始まった意味不明なタイトルコールと共に出題された総悟からのクイズに、口から零れ出た呆れ声をあげながら横に首を傾げる。
「一、ただそん時ヤリたかった」
「………うわ、最低」
「二、さっさと身体を繋げて、自分は男だと分からせてやりたかった」
「……え、まじで?」
「三、焦らして焦らして焦らしまくった結果、最終的に俺に骨の髄までメロメロにされたあんたに付きまとう、チンカス野郎と別れさせたかった」
「……………」
パチン、と弾けたチューイングガムの音が二人っきりの部屋に質素に響き渡る。次にやってきたのは、何だか無性にむず痒い沈黙と、お互いが交差する視線、そして無駄に大きく鳴り響く私の胸のときめき…いや違う。鼓動だった。
「あと3秒以内に答えねぇと、とんでもない事になりやすぜィ」
そう言って、ニッと意地悪く口の端を上げた総悟の表情は正に鬼そのものだ。これは不味い。早急に何か手を打たなければ瞬殺もんだ。だがしかし、案の定何にも思い浮かんでこない。だってそりゃそうだろう。いちいち鏡なんて見なくても、今の自分の状態がよく分かるんだから。頭の先っちょまで血が上る感覚に、まるで100m走を完走してきたかのような激しい息切れ。耳なんて茹で上がったタコみたいに真っ赤だろう。あれ、結局私あの頃と何にも変わってないじゃん。
「はい、時間切れー。って事で、タイムアウトになったナマエには罰ゲームを受けてもらいやすぜィ」
「は…え!え!ちょ、ちょーっと待った!!ナシ!今のナシ!!だってどう考えても早すぎ…って、ぎゃぁぁぁあああ!!いってぇぇええ!!」
…何が起こったのか。今の雄叫びを耳に聞き入れた者達は、誰しもそんな疑問を胸に抱く事であろう。正解は壁に預けていた体重を、総悟の力強い右手によって無理矢理引き離され、結果一瞬にして私の見る景色と世界が入れ変わってしまったのだ。その際に軽く後頭部を負傷。地味に痛い。そんな涙目の私なんて目もくれず、奴は器用に私の首の後ろに腕を廻し、そしてもう片方の腕は、ダランと横に伸びた私の手を押さえつけるかのように、ゆるゆると私の頭を撫であげている状況で…っていうか近っ!え、なにこれ顔近っ!!
「あんれー?どうしたんですかィナマエ、そんなに顔真っ赤にさせて。熱でもあるんじゃないですかィ」
「ううううるさいっ!!いいからさっさとそこ退いてよ!邪魔!サド!馬鹿!」
「いいねぇ〜その俺に対してドキドキしすぎて支離滅裂な感じ。調教しがいがあってワクワクしやすぜ」
「…あんたほんっと最っっっ低!!まじで一回死ね!!」
何とか一発殴ってやろうと、精一杯腕に力を込めて動かしてみようとしたけれど、まぁこれが微動だにしないことしないこと。普段その辺の雄共よりも細いと感じるその腕の力は、やっぱり男なんだと認めざるを得ない程逞しくて少し憂鬱になる。何故なら、どうしたってこの状況は変わらないと諦めた私がここにいるからだ。
降参と言わんばかりに深い溜息を吐き、真近にいる総悟の顔を、覗き込むようにそっと見上げてみる。するとさっきの意地悪そうな表情はどこへやら。いつもとは全く真逆の、真剣な表情をした彼の端正な顔が直ぐそこにあった。
「……俺、あんたに惚れてまさァ」
「うん、知ってる」
「でも、あんたも俺に惚れてるだろィ」
「さぁ…それはどうかな?」
「ハッ…つくづく調教しがいがある女ですぜィ。今にそんな余裕なんてなくしてやる」
「望むところです、ご自由にどうぞ」
その言葉を最後に、一気に縮まった二人の距離。お互いの鼻と鼻がくっ付いて、総悟の熱い吐息が顔中に掛かった。別に初めて肌を重ね合う訳でもないのにドキドキしているのは、ただ単純に男として見ているからだけじゃない。
「俺とキスしたけりゃあ、ガム、さっさと取り除いてくだせェ」
そう言って悪戯っ子のように、薄っすらと口を開けたままねだる彼の、
「ナマエ。ほら、早く」
…総悟の事が、大好きだと気付いてしまったから。
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