※前半、適当な遊女語


「今宵は、久しぶりの満月でありんすね」


タン…と、静かな和室の部屋に、ある一つの無機質な音が響き渡る。頭部に煌びやかな簪、腰回りには美しい帯の飾り、そして鮮やかに彩られた女の紅。その形の良い唇から煙管が離れ、程よい力加減で灰を落とせば、まるで何かの道筋を辿るかのように、白い煙が天井へと立ち消えていく。窓から差し込む月明かりが気だるげに座る女の頬を妖美に照らし、その一瞬の出来事さえも幻だと錯覚させてしまう程の美貌の持ち主。それが、ここ吉原で数々の遊女達から羨望の眼差しを浴び、途絶える事のない人気を博しているナマエという太夫だ。

「そうじゃな…あまりにも綺麗すぎて吸い込まれてしまいそうじゃ。月というものは、何故時折こんなにも人を感傷的にさせるのか。わっちにはいらぬ感情じゃ」

「そうでありんすね。わっちら下の遊女達には遠い存在すぎてかないんせん。まるでナマエ太夫みたいな存在でありんす」

「何をいうか。わっちなんて毛ほどにも及ばぬ。それに知っておるか?月は背後から照らされて初めて輝きを放つということを」

「背後から?」

そう言って、ナマエのその言葉に興味を持ったのだろう。女中は目を丸くさせつつも不思議そうに相槌を打った。

「そうじゃ。昼間の太陽とは入れ違いで互いの存在は確認できぬ。…だがその代わりというべきか、太陽はこうして夜に背後から相棒を照らしておるのじゃ」

「へぇ、それは大儀な事でありんすな」

同意するように感想を述べた後、もの珍しそうに横に首を傾げたまま扇子を仰いでいた手を止め、女中は夜空に浮かぶ月へとゆっくりと視線を向けた。

「…きっと遊女も同じじゃ。所詮誰かの力を借りぬと輝きは増さぬ。自分一人では何も出来ずに泣き喚く、赤子のようにな」

「そうでありんすね…だからより一層月は人を惑わすんでしょう」

「…そうじゃな」

一呼吸を置いて首を縦に振ったナマエは、少しだけ自嘲気味に笑い、そして再度煙管へと口付けた。その何て事のない動作は同性の自分からしてみても近寄りがたく、だが不思議と人を惹きつけて止まないオーラが彼女にはある。そう心の中で感じとった女中は、盗み見るように尊敬の眼差しを彼女へと送った。そしてその直後、ある一つの事柄を思い出す。

「そういえば、満月の夜には必ずと言っていい程あのお侍さんがいらっしゃりますな」

「侍?…あぁ、あの男の事か」

「やはり今夜も満月に因んで顔を覗かせてくれるんでしょうか」

「さぁな、興味ない」

吐き捨てるようにそう言ってのけたナマエは、肘掛に体重を預けたまま呆れさながらに深い溜息を吐いた。そして、透き通るような白い肌の持ち主、更には形の良い彼女の眉間には、あまり見かける事のない幾多の皺が刻み込まれている。あのポーカーフェイスを切り崩す事が出来るのはきっと、彼女と引けを取らない程のオーラを放つ、真選組副長、土方十四郎ただ一人だけだろう。そんな想像を脳内で張り巡らすと、女中は無意識に口角が上がった。何故なら、面倒だと嘆くナマエの横顔は、言葉とは裏腹に少しだけ嬉しそうに見えたからだ。





「おい、これに酌を頼む」

程良い夜風が頬を撫でた同日の夜。欲望に塗れた吉原に、ある一人の男が胡座をかいたまま隣に座る女へと酒を施す。まるで全てを射抜く様な強い眼差しに、命令し慣れたその口調。勘に障る、と心の中で嫌悪感を抱きながら、ナマエはそのまま黙って酒を注いだ。

「ちったァ笑ってくれたら助かるんだがな。いつまでシケた面してんだか…」

「なら主がわっちを笑わせる努力をすれば良いだけのこと。いちいち面倒な事を言うでない」

「その遊女特有の口調止めろ。本当は普通に話せるんだろうが」

「…………」

その言葉を皮切りに訪れた僅かな沈黙。女が動揺を誤魔化すように煙管に口付ければ、隣に座る土方も胸ポケットから煙草を取り出して火を付けた。交差する白い煙をただボーっと眺め、次にやって来るであろうナマエからの言葉の続きを待つ。

「…で?今日は何」

「別に、用なんてねぇよ。ただの息抜きだ」

「なら違う店に行けば。あいにく私は売れっ子だから、あんたみたいな田舎侍相手する程落ちぶれてないの」

「嘘付け。地上じゃ気に入らねぇ客は誰であろうと突っ返してるって噂だぞ。…まァ、何でか一番気に入らねぇ筈の俺を拒まねぇのは笑えるがな」

「うるさい、黙って。ただあんたのその無駄に整った容姿に惹かれて、他の遊女達のヤル気が活性化するから入れてあげてるだけ。勘違いしないで」

「ヤル気、ねぇ…」

ふぅん、と形の良い唇から軽い相槌を打ちつつも土方は物珍しそうな表情で肘掛けに頬杖をついた。そして隣に座るナマエの手首を掴み、彼女が手にしている煙管の灯火を消す。

「…さっき火を付けた所なんだけど」

「お前、そんなくだらねぇ理由で俺を横に置いてんのか」

「…はぁ?」

「あいにく、俺はそんな理由でここに上げられる程落ちぶれちゃアいねぇよ」

「それ、さっきの私の台詞」

「何でか満月の晩は、お前の悲しそうな横顔を思い出して仕方ねぇ。…不思議なもんだな。気が付いてみれば足が勝手にここに向かってんだから」

「……っ!」

そう言って、短くなっていた煙草を一気に肺に吸い込み、溜息交じりに吐き出した紫煙が天井へと登って行く。未だ手首を掴まれたままの右手を振り払うようにその場に立ち上がり、激しい動機と共に「馬鹿にしないで!」と、ナマエは土方に対して辛辣な言葉を吐き捨てた。そんな彼女を宥めるように優しい眼差しで下から見上げる土方の声は、まるで幼い子供に語り掛けるかのような柔らかい物腰だった。


「…放っておけねぇんだよ、お前は。誰よりも寂しがり屋の癖に、誰よりも一番強がりな奴だからな」

「黙って…!あんたに私の何が分かるっていうのよ!」

「似てんだよ、俺とお前は。責任感が人一倍強くて、下の部下達のケツ拭いなんて日常茶飯事だ。たまにはこうしてお互い息抜きをする時間も大事だろ。良いから座れ」

「……るさい。あんたなんかに同情されたくない…」

「ナマエ」

…ずるい、ナマエは瞬時にそう思った。どうしてこの男はいつも根底に沈めている自分の素の部分を見破るのか。まるで監視カメラで日々確認されているようだ。この男は毎度毎度タイミングを見計らったかのように自分の目の前に現れる。そしていつもその度に、その逞しい胸に飛び込みたくなる衝動に駆られるのだ。

「…いい加減俺に心を開け。この場所が息苦しいんなら、いつでも俺が地上に連れ出してやる」

「………良い、その時は自分の足で飛び立って見せるから」

「そうか、そりゃ今後が楽しみだな」

そう言って、ヘタリとその場にしゃがみ込んだナマエの腕を一気に引き寄せて、土方はその細い身体を自分の胸の中に埋めさせた。そしてそのまま彼女の頭を優しく撫でてやれば、その直後、まるでネジが飛んだオルゴールのように泣きじゃくるナマエの泣き声が辺り一面に広がっていく。

「……俺は惚れた女の苦しむ姿なんて見たくねぇ。ただそんだけだ」

そう小さく呟いた土方の声が、未だ泣き止む気配のないナマエの胸の奥にまでじんわりと浸透していく。首筋に顔を埋めたまま、ナマエを抱き寄せる腕の力がより一層増す頃、夜空に浮かぶ月が、まるで今後の二人を祝うかのように、優しく、そして鮮やかに吉原の町を照らした。

月夜の晩に

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