その人は、例えるなら鳥だった。


突然現れて、突然居なくなる。彼をよく知る銀ちゃん曰く、「高杉は鳥、とりあえず鳥。どこを取ってみても鳥」だそうだ。なるほど、その意見は私も賛成だ。始めは一見、何処にも寄り付かなさそうで、餌付けさえすればフラっと戻ってくる猫のようにも感じたけど、どうやらその予想は違っていたみたいで。

「俺は何処にも属さねぇよ。だがお前さんがもう少し大人になっていたら、もしかしてまた違った道を選んでたかもしれねぇな」

そう言って、前に一度気怠そうに話した彼の横顔を思い出す。その言葉を聞いた瞬間、私はふと思った。彼は好きな時に好きなように空を大きく飛び回る、自由な鳥だ、と。地面に足をつけて走り回る猫とも犬とも違う。疲れたら羽を休め、気が向いたらまた自由に翼を広げて大空を舞う。

それが高杉晋助という男なのだ、と。


夕暮れ時


「……江戸は雨か。相変わらずしけた天気してんな」

いつもの夕暮れ時。いつもの穏やかな時間。ただいつもと違うのは、夕陽に照らされる筈の江戸の町が、今日はタイミング悪く、雨に邪魔をされている事くらいだ。

そんな歌舞伎町にふらっとまた舞い戻ってきた晋助は、二階建ての小さな私の部屋、窓際にて、膝を立てて柱に寄り掛かり、こうして江戸の街を眺めるのがどうやら昔から好きみたいで。傘を差しつつも楽しそうに城下町を歩く若い女の子達の笑い声をつまみに、彼はいつものようにそっと煙草に火をつけた。

「晋助はほんとに好きね、人間観察が」

「あぁ?」

「だって、いつもそこで江戸の町を眺めてるじゃない?だからよっぽど人が好きなのかな、って思って」

「はっ…馬鹿言ってんじゃねぇよ。んな訳あるか」

紫煙と共に鼻で笑い飛ばすように息を吐いた晋助は、タン、と煙管を床に向けて灰を落とし、気怠そうに柱に寄りかかったまま私を鋭く睨みつける。

「そんな事より、ナマエお前。その首どうした」

「首?」

「大層なモン付けてんじゃねぇか。野良犬にでも噛まれたか?」

煙管を持っていない、もう片方の人差し指で自分の首筋をトントン、と軽く突ついた晋助は、怪しげに口角を上げてニタリと不気味に笑う。その強い眼差しに思わず吸い込まれそうになりながらも、「さぁ…?もしかして犬じゃなくて、虎辺りかもね」と、曖昧に返事を返した。

「…虎、だぁ?こんなしけた町に、んな大層立派なペットなんていたかよ」

「だから、もしかして、って言ったじゃない。ただの確立、予想の話よ」

「はっ…」

カマを掛けてくる晋助の何とも不可解な質問を軽くあしらってやれば、その直後、これまた何とも不機嫌そうな舌打ちが耳に届いた。これは昔から晋助のイライラした時の癖だ。表面上は余裕が有りそうに見えるけれど、内心は怒りに満ち溢れている証拠。想定範囲内の反応に心の中で拳を握り、一人勝利を確信する。

「どうやら俺がちょっと目を離した隙に、他の獣に獲物にされたみてぇだな。」

「あら、そう?他の獣どころか、私は晋助にターゲットにされた覚えなんて一度もないけど?」

「……上等だ。強気な女は嫌いじゃねぇ」

「私も、勝気な男は大歓迎よ」

そう最後に発した言葉をさも嘲笑うかのように、気付けば私の視界は木の板で組み立てられた天井と、私の両腕を拘束するかのように覆い被さった、晋助の端正な顔があった。まるで今にも切りかかってきそうな強く、鋭い瞳孔が開いた視線を逸らす訳でも睨みつける訳でもない。ただじっと、彼に対して真っ直ぐな姿勢で、無の状態で交わる瞳を見上げるだけだ。

「…何か、お気に召さない発言でもあったかしら?」

「あぁ…気に入らねぇな。お前のやる事なす事全て。ついこの間まで小さな事でビービー泣き喚いてやがったガキが、この俺を挑発するなんざ100年早ぇ」

「だけどその挑発に乗っかかってきたのはどこのどいつかしらね?これは何のつもり?」

「はっ…そりゃあこっちの台詞だ。ナマエてめぇ、ちょっと見ねぇ間にいい感じに性格ひん曲がりやがったな」

「晋助は相変わらずね。あの頃と何も変わらない。」

あの頃、というのは遡る事数年前。晋助達程大きな組織ではなかったが、私の父もある組織に属する攘夷志士だった。まだ幼かった私と、病気がちの母二人を家に残して、父は戦場へと消えて行き、そして無惨にも組織は壊滅した。

「行ってくるよ」

そう言って、あの日優しく頭を撫でてくれた父の後ろ姿が、私が最後に父を目に焼き付けた瞬間だった。

結果は誰に聞かなくても分かった。何故なら辛うじて数名町に戻ってきた戦士の中に、どれだけ探しても、最愛の父の姿は見当たらなかったからだ。そしてその事実を知った母も、やがて父の後を追うように他界して逝った。

『父さんっ…!母さんっ…!』

もはや声にならない程の涙で滲んだ視界に揺られながら、夕暮れ時、擦り切れた草履を引きずるように江戸の町を走り回った。だけど走っても走ってもゴールは見えない。何故なら、もうこの世界の何処にも、最愛の父、母は居ないと、本当は分かっていたからだ。だけど、その事実を幼かった自分には到底受け入れられなかったのだろう。私は来る日も来る日も江戸の町をボロボロになりながらも駆け巡った。

ーーそんな時、私は出会ってしまったのだ。

『何だ、チビ助。そんなヨレヨレの着物なんて着て、今から川に洗濯でも行く気か?』

夕暮れ時。丁度陽が沈み始める、あの切なくてオレンジ色だけの世界。

ーー煙管を咥えたまま、橋の上に腰掛けて川を見つめる、艶っぽいある一人の男に。



「偉く立派になったもんだ。あの日、あの橋で俺に助けを求めてきたガキとは到底思えねぇな」

「あんたに助けなんて求めた記憶もないわ。私は自分の人生を立て直す事に必死だっただけよ」

「そうか。じゃあ頭がよくキレるお前の事だ。俺が今考えてる事も分かってんだろ?」

「……さぁ?見当もつかないわ」

「はっ…お前さん本当、いい女になったな。この俺を手玉に取るなんてよぉ」

そう言って不敵に笑う晋助は、あの初めて出会った夕暮れ時と何一つ変わらない艶やかな表情で、布団中に散らばった私の髪を掬い上げるように、優しく指を通す。そしてそのまま契りを交わすようにそっと口付けて、その俯いた端正な顔に、一つ影を落とした。

「ねぇ、晋助。私はもう、あの頃みたいに何も出来なかった子供じゃない。この腐った世に反抗も…反乱だって出来るわ」

「……………」

「最初で最後の我儘よ。…私の願いを、どうか叶えて」

その瞬間。警告音が鳴り響く、ざわついた胸を押さえ込むかのように、自分の心の中に蠢く、ドロドロした何かを飲み込むように、ただただ真っ直ぐ、迷いのない目で、目の前に居る晋助に向かって、恐る恐る手を伸ばしてみる。やがて辿り着いたその頬に触れれば、溢れ出して止まない、愛しく切ない感情が、何故か胸に突き刺さった気がした。

「……好き、大好き。あなたを愛してるわ」

そう。私はあの日、あの場所で、オレンジ色に染まった世界の果てで、苦しくも惹かれてしまったのだ。

『俺は何処にも属さねぇよ』

この世の成れの果てを見据えた、たった一人の男に。

「……望むところだ」

餌付けされた猫みたいに気紛れでも、鳥のようにある一定の場所に留まる事が出来ないあなたでもいい。

ただ醜く、こんな浅はかな私を、どうかこの場所から連れ出して。

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