※現パロ


「暑っ…」

ミーンミーンと規則正しく鳴く蝉の声。サンサンと降り注ぐ太陽。その太陽のお陰でこれでもかという程乾ききったコンクリート上には、一昨日かなりの雨量が降り注いだ僅かな水分達が、大量の湯気となり幾度となくその場にたちこめている。

「う、嘘でしょ…これ」

そんな灼熱の地獄図を前に、目の前に広がるその光景に絶句する。今から立ち向かうであろうその現実に、それとは真逆に今直ぐにでも逃げ出したい衝動に駆られた。

「お姉ちゃーん!早くー!」

少し離れた場所から、自分より一回り歳の離れた弟が嬉しそうに私を呼んだ。家から出掛ける直前、祖母から手渡された麦わら帽子を被って、ニコニコと満面の笑みを浮かべる彼の両手には虫取り籠と網がしっかりと握られている。

「は、はーい!今行くー!」

その可愛い可愛い我が弟からの掛け声に、ようやく諦めを覚えた私は躊躇いがちに返事を返す。「よし!」と一人意気込んで、ふと見上げた空は、本日もすがすがしい程の晴天だった。



悪い男




「し、死ぬかと思った…!いやまじで…!」

ぜぇぜぇとその場にて荒い息を吐きつつも、見事目標を達成した問題へと踵を返してチラリと視線を送る。そこにあったもの。それはつい何分か前まで絶望を味わっていた私の前に突如として現れた、この小さな神社へと続く長い長い登り階段だった。

「き、聞いてないよ…!こんなしんどい階段があるなんて…!」

お婆ちゃんの嘘つき!と、心の中で愚痴った所で、トコトコと此方に駆け寄って来る一つの小さな影。その影の正体は、地面に頭を俯かせていた私の目の前まで辿り着いたと同時に、少しだけ心配そうに「お姉ちゃん、大丈夫?歩ける?」と、その場にしゃがみ込んで恐る恐る此方に片手を差し出してくれた。

「うん、大丈夫。ありがとう。ごめんね心配掛けて。行こっか!」

「うん!」

幼い弟に心配を掛けさせてしまうとは何とも情けない話である。普段からもっと運動にでも励んでおけばよかった。そうしたらきっと、あの急激な角度の登り階段も難なくクリア出来た事だろうに。そんな事を考えつつも、その目の前に差し出された小さな手をぎゅっと握り返した。

「蝉、沢山捕まえる事が出来たら良いねー」

「うん!僕いっぱい捕まえるよ!んでそれを家に持って帰って、お婆ちゃんに自慢するんだー!」

「そっか、じゃあ諸君の健闘を祈る!」

「イエッサー!軍曹!」

大真面目にその場に足並を揃えて勢いよく額に手を添えた弟に向かい、つられるように自分も敬礼をして口の端を上げて笑う。今は年に一度だけある夏休みの真っ只中。丁度お盆前に差し掛かろうとしている所だ。夏、という季節はあっという間で、ぼやぼやしていたら淡々と月日は巡り、そうこうしている内に跡形もなく消え去ってしまう。貴重な青春時代にそれは勿体ない!とイベント事が大好きな両親に連れられてやって来たこの場所は、まだ幼かった頃に毎年のように来ていた田舎に住む祖母の家だった。何年かぶりに訪れたこの町は、あの頃と同じ風景とのどかな時間に覆われていて、何一つ変化していない町並みにほっと一つ胸を撫で下ろしたのは、つい3日前の事。

「あの橋を渡った先みたいだよ!蝉がいっぱい取れる場所!」

そう言って、嬉しそうに再び私の手を引いた弟が「こっちこっち!」と私を急かす。もたつく足を何とか整えて、その小さな指が指し示す場所へと視線を移せば、大きな川の上に一つ、鉄骨で支えられた橋があった。どうやらその橋の向こう側が、弟が目的とする蝉がよく取れるスポットのようだ。

「僕、先に行ってるね!」

「あ、こら…!急に走ったら危ないから!」

へーきへーき!と、軽快に返事を返した弟の小さな手はパっと私の手から離れ、そのままパタパタと忙しなく橋に向かって走って行ってしまった。…もう、元気ったらありゃしない。あれは相当テンションが上がってるな。そんな事を思いつつも、ふぅ、と小さな息を吐き、少し遠くに見える弟へと声を張り上げる。

「こーらー!だから危ないってー!ちょっと待ちなさいー!」

「お姉ちゃーん!早く早くー!…って、うわ!ごめんなさい…!」

ようやく弟がいる場所まで辿り着きそうになったその時、自分の目の前で何かとぶつかったであろう弟の悲鳴が聞こえた。ほら、だから言わんこっちゃない。危ないから前を向いて歩きなさいと、常日頃からよく注意しているのに…子供という生き物は、時に無残にも大人の言う事を一切聞かない事が多々ある。注意深く見張っていないと、こうしてたまにアクシデントを引き起こすものなのだ。

「すいません…うちの弟がご迷惑をお掛けして。ほら、あんたももう一度謝りなさい」

「ご、ごめんなさい…」

「……………」

どうやら何かにぶつかったらしいその正体とは人間だったようだ。しかもやたら背が高く、そして無駄に目の下の隈が濃い男。そして何より、イケメンだった。

「いや…別に」

「お兄ちゃん、ごめんね…僕、早く蝉が取りたくって全然前見てなかったんだ…」

「……………」

「本当にごめんなさい…!」

そう言って、その場に深々と頭を下げた弟は、少しだけ身体を震わせながら暫くの間その男に向かって謝罪をし続けた。そんな弟の姿を前に、歩幅を広げて真横に立ち、自分も同じように深々と頭を下げては、男に向けて謝罪の言葉を何度も繰り返し伝えた。

「おい、坊主」

「!は、はいっ…!」

「やるよ、これ。だからもうそんな謝るな。別に気にしてねぇ」

その男が醸し出している、何とも言えない威圧感に驚いたのか、声を掛けられた瞬間肩を竦めた弟の前に男がヤンキー座りをする。そして弟の頭を優しく撫でつつも、すっと何かをデニムのポケットから差し出した。その掌にあったもの。それは小さな袋に包まれた飴だった。

「え…いいの?僕が貰って…お兄ちゃんは?食べないの…?」

「あぁ…あいにく飴とかそういった類の菓子は好きじゃねぇんだ。だからお前が貰ってくれた方が俺は助かる」

「……うん!ありがとう!」

わーい!やったー!と、両手を空にかざしてその場で喜んでいる弟を横目に、「何かすいません…ありがとうございます」と男に向かってお礼を伝える。その私の言葉に反応を示した男は、その場にゆっくりと腰を上げ、「別に。大した事じゃねぇだろ」と、そっけなく返事を返した。

「ねぇお兄ちゃん!あっちに蝉が取れる場所があるの知ってる?良かったら一緒に行こうよ!」

「いやいや、あんた何言ってんの…そんなの迷惑に決まって、」

「あぁ、あるな。行くか」

「うん!」

「え…えぇっ…!?」

何なのこの急展開!あれか、これ新手のナンパって奴か!?とか訳の分からん事を考えてる内に、二人はスタスタと橋を渡って行ってしまった。……弟はまだ幼いとはいえ、男同士の友情ってよく分からんな。そんな事を考えつつも、ようやくその場から離れ歩を進める。ようやく最後まで橋を渡りきった所で、改めてそこで踵を返し、ふと何となくではあったが、その場でゆっくりと後ろに振り返った。

「綺麗ー…」

相変わらず熱風ではあるが、そよそよと流れる風に川のせせらぎの音。そして今歩いてきた橋の向こう側に広がるその景色を前に、如何にもこの季節特有の夏!って奴が、両手を広げて私達を迎え入れてくれているような気がした。





「お姉ちゃんー!見て見てー!でっかい蝉ー!」

忍者のようにヨジヨジと大きな木を登った弟が、此方に向かってキャキャ!と楽しそうに笑っている。その片方の手で掴んでいたものは、当初の目的である蝉だった。「良かったねー!」と口では同じように喜びの言葉を贈ったものの、正直昆虫類は苦手な私なので、その表情は何とも言い難い程の渋い表情である。そんな私と肩を並べて、木陰に腰を降ろしている先程の男が、「おい」と此方に向かって声を掛けた。

「はい、何でしょう?」

「お前ら、見ねぇ顔だがこの町のもんか」

「いえ、此処には祖母が一人近くに住んでいて、私達は普段都内に住んでます」

「へぇ…なるほどな」

「お兄さんは?この町の人?あとお名前は何て言うんですか?」

それは至って普通に質問を問い掛けたつもりだったのだが、どうやら男にとっては違ったらしい。「質問が多いな」と、少し呆れ気味に眉を下げては、男はくすくすと小さく笑った。……あ、笑顔可愛い。

「名前はロー。あと一応ここが地元だ」

「へぇ、そうなんですね。此処、良い所ですよね。のどかだし、空気も澄んでて好きです、私」

「悪かったな、田舎で」

「えっ…!違いますよ!別にそういう意味で言った訳じゃ…!」

まさかの返答に、肩を竦めてぶんぶんと左右に首を振る。その激しい動作にまたしてもくすくすと楽しそうに笑った男に向かって、「何がそんなに面白いんですか…」と、少し不服げに不満の言葉を投げ掛けた。

「いや…からかいがいがある女だと思ってな」

「もう、意地悪なんですね」

「見た目通りだから特に問題ねぇだろ」

「そういう事を言ってるんじゃないんですよ…!」

まだ言うか!とか何とか思った所で、再び少し離れた場所から弟に大声で名前を叫ばれる。どうやら蝉取りを十分に堪能したであろう弟は、取り敢えずの所一旦休憩を挟む事にしたようだ。「よっ!」とか何とか言って、またもや忍者のようにヒラリと地上に舞い降りた弟は、嬉しそうに片手を振りつつも、全速力で此方に駆け寄って来る。

「ねぇ、見てこれ!凄いよね!?こーんな大きい蝉なんて僕見た事ないよ!」

「う、うん…そうだね。凄いと思うよ…思ってた以上にとっても気持ち悪いけど…」

「えー?もうお姉ちゃん情けないなぁ…ねぇ、お兄ちゃんは僕と一緒でしょ?これ!この蝉!すっごく大きくて格好いいよね?」

「あぁ、そうだな。悪くねぇ」

「だよね!さっすがー!」

そう言って、ニコニコと蝉を手にした弟が男の側までトコトコと歩み寄る。その姿はまるで、面倒見の良い兄とそんな兄を心から慕っている弟みたいで何とも微笑ましい。頬を染めて、ニコニコと嬉しそうに男に蝉を自慢している弟の頭に手を乗せて、ふわふわと優しく頭を撫でる男の横顔はとても柔らかい表情をしていた。もしかして、見た目とは違って意外に子供が好きなのかな。

「よし!じゃあこれはお兄ちゃんに預けるね!僕もう一回違う蝉を見つけてくる!」

「待て、その前にこれ飲め。流石にこの暑さじゃ水分を接種しねぇと熱中症になる」

大事そうに肩に掛けていた虫取り籠を男に預けて、そして再びさっきの定位置まで戻ろうと踵を返した弟は、瞬時に腕を引かれて「わ!」と小さな呻き声を挙げた。どうやら休む事なくずっと蝉取りに夢中になっていた弟の体調を気遣ってくれたらしい。その言葉は少々ぶっきらぼうではあったが、その言葉の節々には所々彼の優しさが滲み出ているようにも見えた。そのお陰で、ゴクゴクと勢いよくジュースを堪能しているであろう弟の顔は、いつもより数倍嬉しそうで、第三者の目線からしてみてもそれはそれはとっても可愛らしい光景だった。

「よし、良いだろう。存分に遊んで来い」

「うん!」

ぷはぁー!と、手にしていたペットボトルを顔から離して、「ありがとう、お兄ちゃん!」と言い残し、再びパタパタとさっきの蝉取りポイントまで踵を返したその小さな背中を目に入れる。そしてその直後、男に向かって「本当に何から何まで面倒を見てくださってありがとうございます」とその場に深々と頭を下げた。そんな私の姿に対して、少しだけ目を丸くして驚いたような表情を見せた男ではあったが、「別に。いちいち礼を言われる筋合いはねぇ」と、またもやそっけない返事を返される。

「またまたぁー!本当は子供が好きなくせにぃー」

「うるせぇよ、黙れ」

「そんなに怖い顔をしなくてもいいじゃないですか。褒めてるんですから」

「別に嬉しくねぇ」

それが照れ隠しなのかどうかは不明ではあったが、でもだからと言ってどんなに冷たい言葉を投げ飛ばされようが何だろうが、この男が本当は優しい性格の持ち主なんだと途中で気付いていた為、正直そんな言葉を返された所で、私にとっては屁でもない出来事だった。

「よし!じゃあー、ここいらでいっちょ私も一肌脱ぎますかね」

「あ?」

「ローさんはここで待っていて下さい。その間私も弟の蝉取りに参加してくるので」

「昆虫苦手なんだろ。平気か」

「全く平気じゃないですけど、可愛い弟の為ですから。そこは涙を呑んで諦めます」

「待て、俺も行く」

「え?」

そう言って、その場に腰を上げた男は自分の隣に置いていたペットボトルを一口口に含み、「お前も飲め」と上手い事放物線を描いて私の掌の中へと納まった。そしてそれを無言でじぃっと見つめつつも、そこでぼんやりと思う事はただ一つ。

……………まさかこれ、間接キスってやつ?

って!中学生か自分!とか何とかかんとか訳の分からんツッコミを入れてる間に、私の目の前を颯爽と横切り、ここから少し離れた場所で蝉取りをしている弟の元へと男は駆け寄って行った。「おい、くれぐれも気を付けて昆虫採取しろよ」と、まるで父親のような発言を弟に向けて注意を促す男の後ろ姿をぼんやりと見つめては、そのまま視線をそこに向けたまま蓋を開け、言われた通りそれを勢いよく喉に流し込んだ。久々に飲んだその味は、多分きっと始めよりかは幾らかぬるくはなっていただろうけど、でもそれでも発売当初からの変わらぬ優しい味で、何故かその時不思議とホっとするような心地よさに、包まれたような気がした。





『ローで良い』

あの一緒に蝉取りをした日の帰り道。遊び疲れて私の背中でスヤスヤと眠る弟を軽く揺さぶる私に、最後に弟と私の名前を聞いてきた男は、自分の事は呼び捨てで呼んで良いとさらりとそんな事を私に告げてきた。そうは言っても、恐らく自分よりかは何歳か年上であろう彼の名前を呼び捨てにするのは流石に気が引けて一瞬その事に躊躇ってはみたが、でも当の本人がそれで良いと言ってくれたのだからとそこは素直に甘えてみる事とした。そしてそれから数日経ち、事ある事に再会しては、その度に3人で色んな場所に出掛けた。そしてまた偶然にも道端でバッタリと再会を果たした今現在、この辺に唯一一店舗だけあるコンビニまでの道程を、ローと肩を並べて歩いている真っ最中である。

「今日、お前の弟は」

そう言って、いつものように素っ気なく此方に質問を問い掛けつつも、ローはデニムのポケットの中から一つ煙草を取り出し、シュボっ、とジッポ特有の音を響かせて勢いよく白い煙を吐いた。その正に大人の男!って感じの動作に、つい思わずその場で見惚れていると、質問に答えない私に苛ついたのか「おい、聞いてんのか」とローが答えを急かしてくる。やば…

「あ、あぁ…弟ね。うん、そう。何か今日は近所に住んでる子達と遊びに行ってるみたい」

「へぇ、あいつこっちに友達いたのか」

「いや?何かこの前家の前で一人で遊んでた時に、たまたま声を掛けられたみたいよ。んで即国交成立。子供って凄いよねー。直ぐに友達になっちゃうんだもん」

「確かにな」

咥え煙草をしたまま、口の端を上げて微笑むローのその横顔はただ単純に綺麗で色っぽいなとぼんやり思った。そしてそれと同時に、一体この男は普段どれだけの女からモテているんだろうか、とか一人そんな馬鹿な事を考える。その端正な横顔を目にしつつも口から出て来たのは、頭の中で思い描く思考とは全くの真逆の言葉で、「てか歩き煙草やめなよ。人に当たったらどうするの、危ないじゃん」という言葉だった。だがその私の発言に対して、ローは「お前馬鹿か。周りをよく見てみろ、人なんざ誰一人としていねぇだろ」と反論を返してくる。た、確かに…そうだとは思うけど。

「何ならお前も吸うか」

「結構です。匂いつくし身体にも悪いし最悪じゃん」

「なら諦めろ。俺は吸いたい時に吸う派だ」

「なにその自己中な発言…」

正に俺様!的な発言をひょうひょうと言ってのけたローにずるっと肩の力が抜け落ちる。とんだ屁理屈だとは思ったが、でもそうは言っても確かに周りに人も居ないし、副流煙は気になるっちゃ気になるが、でも何となくローだったら良いか、とか思う私はきっと多分馬鹿なんだと思う。

「にしてもコンビニ遠いねー。歩いても歩いても一向に着きやしない」

「全くだな。幾ら人が少ねぇからって、流石にこれは手ぇ抜きすぎだ。ふざけた事しやがる」

「あはは!ね!」

そのローの的確すぎる発言が可笑しくて、思わず口から溢れ出た笑い声。そんな呑気な私の声が誰も居ないこの場所にて大きく響き渡った。引き続き、煙草を燻らせているローの姿を横目にチラッと本人にバレないように盗み見る。ただの黒のTシャツにデニムを履いているだけだというのに、何故この男はこんなにも色っぽいオーラを醸し出しているのだろうか。……にしても格好良い。純粋にタイプだ。

「陽が落ちてきたな」

「え?」

よこしまな考えを張り巡らせている私に、ローは、ん、と顎を動かして少し遠くを見つめていた。それにつられるようにその視線の行方を追う。そこにあったのは、茜色に染まった夕焼け空だった。その直ぐ真下には、カァカァと何羽かのカラスが鳴き声を挙げては自由に翼を広げて大空を飛び回っている。……あぁ、何かこういうの良いな。

「綺麗だねー…私、こういう夕焼け空って大好き」

「あ?」

「だってローよく見てよあれ。今更ながら結構神秘的だと思わない?」

そう言って、ローに同意を求める為にふと何気なく横に振り向いたその瞬間、そこにあった表情に不覚にも赤面してしまった。何故なら、私が指をかざしているその方向に素直に視線をうな流しているそのローの横顔が、余りにも綺麗だったからだ。彼の端正な顔に夕陽の影が覆い被さっているその姿は、悔しいぐらいにとてもよくマッチしていて、ただでさえさっきから無駄に心臓はバクバクと煩いというのに、もはやこれ以上は手の施しようがない!という程末期状態であるのは明白だった。

「………あぁ、そうだな」

「でしょ…」

その赤面している顔をローにはバレぬようにと、腑抜けた声で軽く相槌をうつ私。そして直ぐにローより何歩か先に歩を進めて、彼に気付かれないように細心の注意を払いつつも両胸にそっと自分の両手を添え、バクバクと煩い心臓を抑える事に集中した。

「行くぞ。陽が暮れる」

「うん…」

先に進んでいた私を軽く追い越して、ローは静かにその場で紫煙を吐いた。その白い煙が空に高く舞い上がっていく様をぼんやりと眺めながら、少々歩きにくい砂利道を突き進む。「ロー、待って」と普通の人より歩幅の広いであろうその背中に声を掛ければ、彼は直ぐにその場で踵を返し、「気を付けて歩けよ」と穏やかな表情を此方に向けてはその場所で私が追いつくのを待ってくれていた。






「………………」

目の前の壁に貼り付けてあるその一枚のチラシを、じぃっとロクに瞬きもせずに見つめる。この状態をさっきから約5分ぐらい繰り返し続けているのには、それなりの理由があった。というのも、ただ単にそのチラシの内容に興味を惹かれ、そして単純に目に留まったからである。あれから無事にローと一緒にコンビニに着いて早々、丁度雑誌コーナーの近くにある壁にこのチラシが貼られているのに気が付いた。そしてその内容とは、ここから何個かバスを乗り継いだ先にある隣町にて、2日後に開催されるという花火大会のお知らせだった。

「おい、何してんだお前。んな所で」

「……明後日、此処で花火大会があるんだってさ。何かあれだよね、こういうのって正に夏の風物詩!って感じだよね」

「あ?」

ほら、ローこれ見てよ。そう言って、何故か無表情で指し示したチラシへとローの視線を誘導する。どうやらそんな私の表情に驚いたのか、「何だお前、その覇気のねぇ顔は」と冷静にツッコミを入れたローがくすくすと楽しそうに喉を鳴らして笑った。

「何だ、もしかしてこれに行きたいのかお前」

「別に。ただどんなのかなぁって思っただけ」

「嘘つけ。顔に行きたいって書いてあるぞ」

「あは、バレちゃった?」

てへぺろ!とでもいうようなふざけた顔をして、コツンとわざと頭を小突いた私にローが呆れ気味に笑う。どうやら速攻で私の流行る気持ちはバレてしまったらしい。私ってどんだけ分かりやすい人間なんだろうか。ある意味恥ずかしい。

「そんなに行きてぇんなら、一緒に行くか?」

「え?」

「お前の弟も連れて。ここに」

そう言って、さっきの私に対抗でもしてるのか!ってぐらいの無表情で、ローは「ん」と親指をチラシに向けて2度クイクイと上下に動かした。そのまさかの展開に目が点になる。………え、まじでか!てか良いの…!?

「別に特に予定もねぇしな」

「でも…」

「何だ、俺とは行きたくねぇってか。ならやめるか」

「う、嘘嘘嘘…!はい!行きたい!めっちゃくちゃ行きたいです!」

「あぁ?聞こえねぇ。誰とだよ」

「うっ…!」

その超ドS発言に声が怯む。ニコニコと、とんでもなく悪い顔をしたローが私との距離を徐々に徐々に縮め、そして終いには世に言う壁ドンっていう奴をかまされてしまった。ち、近い…!ちょっと待って、これは流石に恥ずかしすぎる…!てか無理!心臓破裂しそう!

「ナマエ、言え。誰とだ。誰と此処に行きたい」

「………あ、う。そ、そのぉ…」

「おい。さっさと言わねぇと、あと5秒後にはてめぇを犯すぞ」

「はい!他ならぬロー様とです!」

「良いだろう。なら付き合ってやる」

偉そうにその場で首を縦に振ったローにポンポン、と2度頭を撫でられる。「弟にはお前から伝えとけよ」と言って、ローは再びコンビニ内の物色へと戻って行った。………び、ビックリしたぁ。何だあれ、何だあの顔。近い。いや、近すぎた…ていうか何だこれ。胸が本当に今にでも破裂しそう。

と、そこまで考えて気付く。

「…………そっか、私ローのこと」

好き、なんだ。そう一気に自分の気持ちを認めた所で、またしても誰かに心臓を鷲掴みされたかのように、キュウ、と自分の胸が激しく痛んだのが分かった。

「おい、行くぞ」

そこまで考えた所で、コンビニの出入口付近に立っているローが少し離れた場所でそこに突っ立っている私を呼び寄せる。行きと同じように、またポケットの中から煙草を一つ取り出して火をつけた彼は、どうやら私に歩幅を合わせて隣を歩いてくれているようだった。

「ロー…」

「あ?」

ある程度進んだ所で、ピタリとその場に足を止めてローの名前を呼ぶ。それはほぼ自分でも無意識と言っても良い程の行動だった。

「どうした」

「……ううん、何でもない」

「おい、なんだそれ…」

「ごめんごめん、ただ何となく呼んでみただけー」

「……そうかよ」

そこで会話は途切れて、ローは再びその場で踵を返し、「さっさと歩け」と言いつつも少し離れた場所から私の名前を呼んだ。その後ろ姿を前に、ついさっき直前まで出かかった自分の言葉に一人深い深い溜息をつく。


『好き』


下手したら、うっかりそう口にしてしまいそうだった。でも途中でそれは無駄な事なんだと気付いて止めた。だって、冷静に考えてみればローとはこの短い期間だけの関係だし、どっちにしてもあと数日後の自分は、あのコンクリートジャングルに戻って、そして大勢の人混みにかき消されそうになりながらも、あの非生産的な日常を送る運命が待っているのだ。それを瞬時に思い浮かんだその瞬間、ローに想いを告げた所でそれはやっぱり無駄でしかなくて。

「…………バカ」

もう一度自分に言い聞かせるように声に出したその言葉は、リーンリーンと鳴り響く田舎特有の背景音にかき消されていった。そして自分より少し前を歩くローの背中に向かって、『好き』と口パクで呟く。何だかそれがやけに切なくて、そしてそれ以上に苦しくって、つい思わず溢れ出そうになった涙をずずっと一人、その場で勢いよく拭った。






「ごめんねお姉ちゃん…今日、一緒に花火観に行けなくて…ロー兄にもいっぱいいっぱい謝っておいてね…」

座敷に敷かれてある布団に、小さく身体をちぢこませた弟がケホケホと咳き込みつつもそんな切ない謝罪の言葉を私に告げる。目の前に差し出されたその小さな手をギュっと握り返しつつも、「大丈夫、ローも分かってくれるよ」と優しく頭を撫でてあげた。あのローと一緒にコンビニに行った次の日の夜、居間にてテレビを観ていた私に向かって泣きそうな顔で自分の体調不良を訴えてきた弟。

『お姉ちゃん…僕何か頭痛い…あと今日ずっと寒気がするんだぁ…』

そう言って、その場にズルズルとしゃがみ込んだ弟にすぐさま駆け寄り、急いで額に手を添えて熱があるかどうかざっと計ってみた所、予想以上の高熱でぎょっとしたと同時に一気に血の気が引いていくのを感じた。どうやら前日に、地元の子供達と長時間川で遊んでいたのが直接的な原因だったらしい。直ぐに家族総出で近くの町医者まで連れて行き、診療して貰った結果、どうやら命に別状はなかったらしく、ただの夏風邪との診断を下された。2、3日安静にしていれば大丈夫との事だったが、勿論そんな弱っている弟を今日の花火大会に連れて行く訳にはいかない。そう両親が弟にやんわりと注意を促すと、当然のように今日という日を心待ちにしていた弟はガックリとその場に肩を落とした。

「お土産、たっくさん買って来てあげるからね。何が良い?りんご飴?…あ、綿飴とかにしよっか!」

「ううん…飴はまたロー兄に貰うから大丈夫。それよりも僕、どっちかというとチョコバナナとかの方がいいなぁ…」

「チョコバナナね、りょーかい!じゃあーお姉ちゃんにまっかせときなさい!いーっぱい買って来てあげる!」

「…うん!」

じゃあ、良い子にして寝てるんだよ。最後にそう言い残して、ガラ、と玄関の戸口を開けて家を後にする。そのままある一点をぼんやりと見つめたまま、ローが待っているであろうあの橋までとぼとぼと歩を進めた。

「あんなに楽しみにしてたのに…可哀想だなぁ」

はぁ、と大きな溜息を吐きつつも、チョコバナナだけじゃなく、何か他の物もいっぱい買って来てあげようと一人心の中で誓う。後日また改めて何か埋め合わせをしてあげないとな。とか色々考えつつもせかせかと歩を進めている内に、あのローと一番最初に出会った橋がようやく見えてきた。

「ロ、…」

ローお待たせ、今着いたよ。そう口にしかけた所でピタリとその場に足を止めてぐっと口を噤んだ。そのまま無心で、あと数メートル先で私を待っているであろうそのローの姿をぼんやりと見つめる。

「………やっぱり格好良いな、ローは」

ボソっと小さく呟いたその言葉は、私の心からの本音だった。そしてそのまま引き続き彼にバレないようにとその姿を少し離れた場所からじぃっと見つめる。橋の手摺りに頬杖をつき、いつものように咥え煙草をしたまま気怠そうに携帯を弄っているその横顔は、まるで絵画の世界から飛び出してきたかのような美しさだった。……ほんと、いつ見ても色気が凄い。

「って、何やってんだ私…」

一人謎のツッコミを入れつつも、ようやくそこで意識を取り戻した私は、すぅっと大きく空気を吸い込む。そして今度こそローに向かって声を掛けようと再び口を開き掛けた所で、突如目の前に飛び込んで来たその光景に、ビク!と肩が竦んでしまった。

「………………」

開いた口が塞がらないとは正にこの事だ。その時本当に心の底からそう思った。その理由は、ローの大きな体格に身を潜めていたであろう黒髪で艶やかな大人の女性が、その場にひょっこりと横から登場し、そしてケラケラと楽しそうにローの肩に腕を廻して笑っていたからである。

「………彼女さん、かな」

それが当たりであろうがなかろうが、兎に角その二人の姿はとてもお似合いだなと思った。よくよく考えてみれば、私はローに彼女が居るのかどうかさえも知らない。はたまたどんな女の人が好きで、どういった性格の人が好みなのかさえも知らなかった。……本当、何やってんだ私。どっちにしてもここでショックを受けた所でどうせ数日後にはまた、ローには会えなくなると分かっているのに。

「……ごめん、ロー」

思考とは真逆に、私、逃げる。そんな事を頭の中で叫んで、その場に勢いよく踵を返して全速力で緑が覆い茂る森林の中を駆け抜けた。そして改めてそこで気付く。あぁ、やっぱり運動不足だな自分。と。東京に戻ったらジムにでも通うか。そんな事を呑気に考えつつも足の動きは止めずに先へ先へと進む。

「はぁっ…はぁ…!」

ある程度の距離を走った所で、そこで一旦休憩もかねて膝に手をつき、地面に頭を俯かせた。恐らくこれだけ走って来たからには、万が一ローに私の姿がバレていたとしても早々追いつかれる事はないだろう。そんな事を考えつつも、引き続き途切れ途切れの息を何とか整えようとその場で荒い呼吸を繰り返す。

「おい…!!待て…!!」

「!?」

未だ荒い呼吸を繰り返す最中、自分より少し遠く離れた場所から聞き覚えのある声が聞こえた。その声に再びビク!と肩を竦ませては、恐る恐る顔だけを後ろに向けてその声の主へと視線を送る。

「ロー…なんで…」

振り向いたその瞬間飛び込んできた彼の姿に、ポロ、と一粒の涙が頬に伝わった。それをグイっと勢いよく拭って、再び踵を返してはそのまま全速力で逃亡を図る。

「おいナマエ…!!止まれ…!!」

「やだ!!ついて来ないでよ!!」

「あぁ…!?」

さっき一度拭った筈の涙が再び大量に溢れ出し、そしてそれが風に乗って横に流れていくのを感じつつもローに向かって拒否の言葉を投げつけた。ローはそんな私の発言に苛ついたのか、背後でとんでもなく低い声で、引き続き何度も何度も私に向かって「止まれ!!」と叫んでいる。でも残念。人間誰しも止まれと言われて素直に止まれる程簡単には出来ていないのだ。少なくとも私にはそんな素直な感情は備わっていない。だから無理!ごめん、諦めて!

「!!」

…………………と、思っていたのだが。

「はぁっ…おい、てめぇ…本気でこの俺を撒けると思ってんのか」

願いは叶わず、あっさりとローに追いつかれて腕を捕まれた。そして即座に身体を反転させられて、彼と一気に向き合う形となる。

「……ロー…っ…」

「おい…お前何泣いてやがる。どうした…」

ローに身体を振り向かせられたその瞬間、またしても大粒の涙が頬を伝わった。ポロポロととめどなく溢れ出てくるそれは、いびつで、格好悪くて、もうどうにでもなれって感じだ。

「………ナマエ」

「……っ、……」

心配そうに、そして困ったように眉を下げて、その溢れ出てくる私の涙をローは何度も何度も優しく親指で拭ってくれる。…でもね、ロー。痛いの。胸が張り裂けそうに痛い。そして何処か切なくてその分もどかしいんだ。出来る事なら今直ぐにでもこの感情を剥ぎ取って、何処かに投げ飛ばしてやりたいぐらいに。

「とりあえず泣き止め…俺はお前に泣かれたらどうすれば良いのかが分からねぇ」

そう言って、最後にもう一度だけぐいっと私の涙を拭ったローが、まるで赤ちゃんをあやすかのようにそっと私の身体を抱き寄せてはポンポンと背中を優しく撫でてくれる。そしてそこで初めてまともに呼吸が出来た。よしよし、とでもいうように何度も何度も優しく背中を撫で続けてくれているその大きな胸に縋りつくように身体全体を預けて、うっ、と小さな嗚咽をもらす。

「ローの…っ…、せい、だよ…」

「…あぁ?」

「ロ、ローのせい…っ…、いま、…っ…私が泣いてるの…!」

「…………」

ぐずぐずと鼻水を啜って、ようやくさっきよりかは幾らか落ち着いて来た呼吸を整え、直ぐそこにあるローの顔を下から睨むようにして見上げた。でもそれでも呼吸は落ち着いても、涙は全然止まってくれる気配はなくて。そしてまたそれが苦しくって。私、何子供みたいに泣いてるんだろう…と、ふとそんな事を思った。

「……どういう意味だ、それは」

「………っ、」

「おい、答えろ。ナマエ」

見上げたその先にあったローの表情は、『訳が分からねぇな』とでも言いたげな顔をして、眉間に沢山の皺を寄せていた。って、そりゃそうだ…ローからしてみれば、今こうして馬鹿みたいに泣いている私の理由なんて知らないんだから。…私、一体何を言ってるんだろう。でもどうしよう…口が止まらない。

「……ロ、ローが悪いんだよ…っ!……あ、あんなところで女の人と…っ…い、イチャイチャなんてしてさぁ…っ…!」

「あぁ?女だぁ?」

「……か!彼女いるんならいるって…っ…!さ、最初に教えてよ!ばかぁぁあっ…!」

「……………」

わぁぁあっ…!とでも言うように、またしても子供みたいにそこで泣き叫んだ私。わんわんと泣くその情けない姿を前に、ローには一体私はどんな風に見えているんだろう。

「………なんか…っ…!私一人が…毎回毎回ローにドキドキしてて…ばか、みたいじゃんかぁあっ…!」

そこまで泣き叫んだ所で、グイっ!と勢いよく腕を引かれて再びローの広い胸の中へと納まった。そしてそのまま私を強く抱き締めた状態で、首筋に埋まったローの顔。でも途中で何かが可笑しいと気付いた。………え、何でこの人笑ってんの?

「くくく…何だ、そんな事か。ビビらすなよ、お前」

「………えっ!?」

何がビビらすなだ!てか何で笑ってんの…!?こっちは大真面目に気持ちを伝えているというのに…!とか何とかかんとか様々な想いを乗せて、またしても涙目でローの顔を下からギロリと睨む。でもそんな私の行動に気付いても尚、ローは未だにクスクスと笑いを堪えているかのように肩を震わせていて。そのアンバランスな反応に当然の如く私は苛ついた。

「な、何で笑ってんの…!?ひ、酷い…っ…!」

「あぁ、悪い…いや、余りにも凄ぇ妄想でつい可笑しくってな」

「は、はぁっ…!?」

す、凄い妄想だと…!?何がだよ!と、口に仕掛けた所でふっと一つの影が顔に重なる。そして次に気付いた時には、唇に暖かくて柔らかな感触。チュ、とわざと小さなリップ音を響かせてゆっくりと顔を離したその目の前の男に、放心状態のままパチパチと、2度瞬きを繰り返した。そしてついでにそこでようやく涙も止まった。

「言っとくが、あの女は俺のただの地元友達だ。あいつも自分の男とあそこで待ち合わせをしててたまたま出会っただけで、別に特に深い意味なんてねぇ」

「えっ…!」

「あと俺に今女はいねぇ。居たら流石にお前を花火大会なんざ誘う訳ねぇだろうが」

「…………」

「ガキ」

「!」

そう言って、私の身体を自分からやんわりと引き離したローに、ギュム!と勢いよく両頬をつねられる。…い、痛い!痛い痛い痛い!痛いからロー!

「で?他に何か質問は」

「な、ないりぇす…てか、いちゃい…いちゃいよロー…!」

今度はさっきとは違う意味での涙が溢れ出てきて、そのままペシペシ!と「痛い!やめて!」との意味を盛大に込めてローの腕を叩く。その私の行動にふっと目を細めて、幾らか指の力を緩めたローに、「ナマエ」と優しく名前を呼ばれる。

「俺に女が居たら嫌か」

「…………」

「答えろ」

そのローからの質問に、ぐにゃりと出てきた涙で視界が滲む。ポロ、と溢れ出た一筋の滴が頬にまた伝わって、声にならない程の切ない胸の痛みが更に増していくのを感じた。

「……い、いや…嫌だよ…っ…そんなの…」

「何でだ」

「……っ…、」

「ナマエ、」

直ぐそこにある、ローの優しい声と表情に、またしても切なさが増してより一層胸が苦しくなる。眉を下げて、困ったように笑うそのローの表情にもまた泣けてきて。つねっていた筈のその指はやんわりと離れ、形を変えてはするりと私の頬を両手で優しく包み込んでくれる。その行動に再び泣けて来た私は、ポタポタとそこに沢山の涙を溢した。

「………きっ…、」

「あぁ?聞こえねぇ」

「ロ、ローの事が…っ…!好き、だから…っ…!!」

そう言って、大声で叫んだその瞬間、ローに噛みつかれるようなキスをされた。何度も何度も角度を変えて、途中で酸素を求めて開いた私の唇の隙間からするりと舌をねじ込まれ、そのまま頭の中が一気に真っ白になってしまった。瞼を伏せて、頬から耳へと滑らせる彼の指の温もりが心地良くて。そしてまた切なくって。何で好きな人にキスされてるのに、私は今泣いているんだろう。とか、その時々でふとそんな事を脳裏で考えた。

「……ローは…?…好き?私のこと…っ…」

はぁ、と互いの深い吐息が漏れたと同時にローに一番聞きたかった答えを問う。

「馬鹿かお前…好きでもねぇ女にキスなんてするかよ」

「う、うっそだぁ…!ロ、ローのことだから、他にも色んな女の人と…!」

「おい、もう黙れ」

興奮している私を抑えつけるかのように、またしてもローに簡単に唇を奪われる。今度は後頭部と腰を一気に引き寄せられて、まさかのさっきのキスよりもレベル違いの深い深いキスをされた。思わずその場に崩れ落ちそうになる私の腰を力強く支えてくれるローの首に腕を廻し、そして何とか必死にそれに応えようとその場で踵をあげては、めいいっぱいの背伸びをした。やがて離れたその彼の形の良い唇に、息継ぎもままならない程の荒い呼吸を繰り返しつつもぼんやりと視線を向けていると、「おい」とローの声が頭上から降り注いで視線を上へと引き上げる。

「言っとくが、あっちに帰ったら容赦しねぇ程抱くからな。覚悟しとけよお前」

「………え?あ、あっちって…」

「どうせお前の事だから勘違いしてんだろうが、俺が今住んでるのはここじゃねぇ。お前と同じ都心だ」

「………………え、えぇっ…!?」

そのまさかの展開に、目を引ん剥いてその場に大声を張り上げる。ちょ、ちょっと待って…!だってロー!あんた最初ここが地元だって言ってたじゃん…!と、何度も何度も繰り返しローへと主張する私に向かって、彼はニタリと口の端を上げ、その悪そうな顔を此方に向けては、こんなとんでもない発言を口にした。


「誰が今もここに住んでるって言った」


あぁ…もしかして私はこんな狭い田舎町で、こんな大自然の中で出会った、このとんでもない悪い男に引っ掛かってしまったのだろうかと、その時、心の奥底から痛い程そんな馬鹿な事を思った。





(おい、急げ。さっさとあいつの見舞いに行くぞ)

(ちょっと待ってよ…!一個ぐらい荷物持ってくれてもいいじゃんか…!)

(勝手に馬鹿な早とちりをしたお前が悪い。さっさと歩け)

(なにこの男…!想像以上にめっちゃドSなんですけど…!)

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