それは丁度去年の今頃の事だ。学校からの帰り道に何気なく立ち寄ったレンタルビデオ店にて、一本のスパイ映画を借りた。その内容は、まぁよくありがちな複数の追手から追われる主人公の女と、その逃亡中にたまたま出くわしたある男との恋愛ストーリーで最後見事にハッピーエンディングを迎えるという、アクションさながらのハリウッド映画だった。
『君が僕に対して求める最後の言葉はなんだい?』
ヒロインに向かって、相手の男が悩ましげに問う。その男からの質問に、映画の中の女はこう答えた。
『そうね。……この道どんな困難が未来が待っていたとしても、あなたさえ私の隣に居てくれれば他に何もいらない。まぁ、こんな所かしら?』
それはまさにアメリカ映画!って感じの返し方で、日本じゃありえないなって思ったのは今でもよく覚えている。でもそうは言っても、これはフィクションなのだと理解した上で、感受性豊かな私はただ単純にその二人のやりとりに憧れた。ここまでスリリングな出会いではなくとも、いつか私も日々の日常の中で運命の出会いを果たし、そして恋に落ち、その何年後かには幸せなハッピーエンドを迎える、そんな未来予想図を少なからずとも思い描いていた訳でして。
「お嬢様ー!ナマエお嬢様ー!お待ちください!!」
…………よって、今現在起こっているこの現実は、決して私が望んでいた未来予想図ではない!と、強く断言出来るのだ。
「ちっ…まだこの辺ウロウロしてやがる」
悪党さながらの悪い顔をして、ぺっとお行儀悪く地面に唾を吐く。一応名誉の為宣言しておくが、普段の私はとてもおしとやかで慎ましい性格をした、所謂生粋のお嬢様って奴だ。なので通常ならこんなお下品な発言も態度も滅多に口にする事はない。では何故、そんな箱入り娘の私がスパイさながらの逃亡劇を繰り広げているのかと言うと、その理由は約半日前まで遡る。
「結婚!?」
「あぁ、ナマエもそろそろいい年頃になってきただろう。父さんも母さんも、一人娘のお前には世界中の誰よりも幸せになって欲しいと思っているんだよ」
「ちょっと待ってよお父様!私まだ19よ…!?ついこの前まで高校生だったのよ!?なのに卒業して直ぐに結婚とか…な、ないないない!ありえない…!」
「まぁそう目くじらを立てるな。何も今直ぐにって訳じゃない」
じゃあ一体どういう訳だ。そう言いたいのを我慢して、ぐっと口を噤む。への字に唇を曲げて、涙目でじぃっと父を睨む私は恐らく傍から見たらとんでもない表情をしているに違いない。でもそんな事を気にする余裕もないくらい、今現在、私は思ってもいなかった展開と窮地に立たされているのは明白で。大広間にて執事から受け取った何やら分厚い資料を手にした父の指の動きとその表情を、引き続き眉間に皺を寄せてじぃっと睨み続けた。
「お相手の方は申し分ない人だよ。ほらナマエ、この資料を見てみなさい」
「断る!何でこのご時世、まるで一昔前みたいな縁談を受けなきゃいけないの!?そんなに心配しなくても、自分の相手ぐらい自分で決めるわよ!」
「まぁまぁナマエ、良いじゃない。縁談って言っても、あなたの言う通り何も別に絶対って訳じゃないんだから。ただ今たまたま良いお話しが上がってるってだけで」
「お母様…」
ぎゃあぎゃあとその場にて、父に向かって悪態をついてる私の背後から颯爽と登場したのは、常日頃から女として、そしてまた一人の人間として尊敬して止まない母だった。その母からのアドバイスとも取れる発言に、さっきまでの勢いは何処に置いてきたのか、しゅんとその場にて一人項垂れる。
「で、でもお母様…」
「確かにあなたの言う通り、このご時世自分の相手は自分で見つけるのが一番だと思うわ。だけどねぇ…ほら、あなた今まで彼氏が居た事も、ましてや初恋もまだじゃない?だから心配なのよ、お父さんもお母さんも。いずれあなたが変な男性に捕まったりしないかって」
「は、初恋ぐらいした事あります…!」
映画の中のあの人に!そう心の中で呟いてふん!と鼻を鳴らす。そのまま不満をアピールするように、その場にて腕を組み、特に見る予定もなかった窓の向こう側へと視線を逸らした。
「そんな事言わないで…ね?たった一度きりで良いから。これもきっと何かの縁よ。私の顔を立てると思って」
「……………」
「ナマエ、お願い」
カツカツとヒールを鳴らして、私が位置する場所まで辿り着いた母が申し訳なさそうに下から顔を覗き込んでくる。その表情は何とも言い難い程の困った顔をしていて、強く決心した筈の私の思いは見事あっさりとガラガラと派手な音を立てつつも谷底へと崩れ落ちていった。……ずるい、お母様。私がその顔に弱いって分かってるくせに。そんな事を思いつつも、はぁ、と一つその場にて大きな溜息を吐く。
「………分かりました。じゃあお会いするだけなら…」
「ありがとう!じゃあそうと決まれば善は急げね。あなた、お相手の方のご都合は何時なら大丈夫かしら?」
「あぁ、ちょっと待ってくれ。君、先方は何時が良いと言ってるかね」
「はい、早くて本日の夜には問題ないかと」
「はぁっ…!?今日!?」
その執事からの返答に、芋虫を踏みつぶしたかのような表情でこの大広間全域に広がる程の大声と共にとんでもない叫び声を挙げた。き、今日とな…!?はぁ!?ちょっと待ってよ、嘘でしょう…!?幾ら何でも展開早すぎない!?
「さぁナマエ、ではドレスルームに向かいましょう?…あぁ、そうだわ。ほら、この前ミラノで入手した、あのとっておきのドレス!あれが良いんじゃないかしら!」
「ちょ、ちょっと待ってお母様…!さ、流石に今日はまだ心の準備が…」
「メイドの皆さんも是非とも手伝って!今日はナマエにとって記念すべき日よ!」
はい奥様!そう言って、大勢のメイド達が大股でずんずんと此方に近寄って来る。そしてそのままがっしりと複数のメイド達によって両腕の自由を奪われ、そのままコントのようにずるずると身体全体を引き摺られてはドレスルームへと連行されてしまった。
「や、やっぱり無理――――――!!やめる―――――!!」
そんな私の心からの訴えは何一つ彼女達には響かないまま、大広間へと続く扉はバタン!と派手な音を立てつつも、勢いよく、そして無残にも閉まった。その扉が閉まる直前、ちらっと視界の片隅に見えた父の表情はとてつもない程の笑顔で、此方にヒラヒラと片手を振っていた事に私の中での苛つき度は頂点に達した。…あ、あんの狸ジジイ…!と、心の中で何度も中指を突き立てたのは言うまでもない。
「まだピチピチの10代だってのに、だーれが結婚なんてするかってのよ」
けっ。とまたもや悪態をついて、コソコソと物陰に隠れる私。そう、要するに私は今、あのいつぞやの映画のように見事なまでの逃亡劇を試みているのである。あの後、逃げるに逃げれなかった私は、母やメイド達に拘束されて着飾るだけ着飾られ、そしてさぁ出陣だ!となったその隙を見て猛ダッシュで逃亡をはかり今に至るのだ。
「ナマエお嬢様ー!何処にいらっしゃるのですかー!」
ガヤガヤと騒がしい喧騒の中、黒いスーツに身を包んだうちのSP達が何度も何度も私の名前を口にしてはバタバタと足早にその場を去って行く。その後ろ姿を遠巻きに眺めつつも、「ふっ…馬鹿め。やっと行ったか」と悪人さながらの台詞を口にした自分は、本当に由緒正しきお嬢様なのかと思わず疑ってしまう程、普段の自分とはかけ離れた位置に属しているのは間違いなかった。
「さて!じゃあ今度はあっちとは違う逆方向に向かうとし、」
「とんだ災難でしたね、征十郎様」
「あぁ…」
正に再び逃亡をはかろうとしたその時、ブランド店が多々並ぶその大通りにて聞こえてきた、ある二つの声。その声の主達へと無意識に視線を向けてみると、そこに居たのは素材の良い黒のスーツをさらっと着こなした赤髪の男と、その真横に並ぶ眼鏡を掛けた背の高い男が店から続く階段を降りて来ている場面だった。恐らく、あの眼鏡を掛けた男は赤髪の男の執事か何かだろう。だって、うちの執事達とよく似てるもん。大体執事というものは、黒縁の眼鏡を掛けた背の高い男だと相場は決まっているのだ。自論だけど。
「この後のご予定は如何致しましょうか。本日会食予定だった先方からの謝罪の連絡が、先ほどから何件か入ってきてはいるのですが…」
「今日はもうこのまま帰るよ。お前も今日は気疲れしただろう。僕はこのまま歩いて帰るから、お前は車で先に戻っていて良い。先方への連絡は明日にでも、僕の方から返事をしておくよ」
「は、ですが…」
「気分転換がてら少し歩きたいんだ。気に止まなくて良い」
「承知しました」
そう言って、(恐らく)彼の執事は軽くその場にて敬礼をし、踵を返して大通りに駐車してある目の前のリムジンへと向かう。そのまま運転席の扉を開けて、ガコン、と車の後ろにあるトランクを開けた。
「て、何やってんだ私…こんな事してる場合じゃない!逃げなきゃ…!」
「ナマエお嬢様ー!居たら返事をしてくださいー!」
「げぇっ…!!」
本当に一体私は何をやってるんだ!とか改めて実感しつつも、そうこうしている間に大勢のうちのSP達がドタバタと此方に引き返して来ていた。な、なんでまたこっちに戻って来るの…!?あのまま素直に向こうに行ってくれて良かったのに…!
「ちっ、仕方ない!えーっと、何処か隠れる場所隠れる場所……あ!あった…!」
行っけーい!と言わんばかりの勢いで、そこにぴょいーんと飛び乗った。いや、飛び乗ったというよりは飛び込んだ、と表現した方が正しい。どっちにしても助かった…!いやー、危機一髪!これでまた当分の間はSP達に見つかる事はないだろう。……と、胸を撫で下ろしたのも束の間。
「征十郎様?どうかなされましたか?」
「…………いや、」
「!!」
目の前にあったもの。…というか、目の前に立っていた男とばっちりと目が合う。だがそれもその筈。何せ自分は気が動転していたせいか、此方を追って来ていたSP達に自分の存在がバレぬようにとつい咄嗟に身を隠したその場所は、さっきの赤髪の男が所有するリムジンのトランクの中だったからだ。
「………あ、あの。す、すいません本当に。これには山よりも谷よりも深ーい訳がありまして、」
「烏丸、やっぱり今日は自分のマンションに戻るよ。父には改めて後日顔を出しに行くと伝えてくれ」
「は、承知しました」
おいで。
そう言って、自分の執事にバレぬようにと小声でにっこりと穏やかな笑みを溢した赤髪の男が此方に手を差し伸べる。まるで何かに導かれるように、そのまま無心で彼の手を握り返した。それはまるであの映画のワンシーンみたいに、主人公とその相手の出会いのシーンみたいで、思わず私の胸がキュウ、と鳴いたのは、多分きっと気のせいなんかじゃない。
「上がって。今何か暖かい物でも入れるから」
ドサ、と小さな紙袋をソファーに置いて男はダイニングキッチンへと姿を消した。消した、と言っても直ぐそこにあるので、こっちからは丸見えの状態ではあるのだが。そんな事よりも前に、辺り一面ガラス張りで覆われて、窓越しに見えるキラキラと輝くその絶景を目にした瞬間、さっきまでの絶望感が嘘みたいに消え失せ、そして私のテンションはうなぎ登りで上昇した。
「はい、ミルクティーで良かったかい?」
「あ、すいません…何から何まで。はい、大丈夫です。ありがとうございます!頂きます!」
遠慮という言葉を知らんのか!って程、彼からカップを受け取った瞬間勢いよく喉にミルクティーを注ぎ込む。そんな私の姿にくすくすと楽しげに笑った目の前の男の名前は、どうやら征十郎というらしい。その情報はさっき彼本人から直接聞いた。年齢は聞いていないが、その落ち着きようからして恐らく私より何歳かは年上だろう。そして何より、そのルックスは何処かの少女漫画から飛び出して来たのか!?っていうぐらい、ずば抜けたレベルのイケメンだった。……お、王子様…?
「で?何故君はあんな所に隠れていたんだい?」
そう言って、未だくすくすと喉を鳴らす征十郎が私が座るソファーの反対側に位置するもう一つのソファーへと腰を降ろす。そしてスマートにその場に足を組み、そのまま私のミルクティーと共に此方に運んできた自分のカップに手を伸ばして、ゴクリ、と一つブラック珈琲を口にした。
「いやぁー…その、ですね。実は今日の昼間、急に両親から縁談話を持ち掛けられてしまいまして…」
「縁談話?」
「はい…でもまだ私今年19歳になったばかりで、恋愛どころか初恋だってまだした事ないし…だから、ちょっと一旦話を受けてみたものの、やっぱり怖くなって怖気づいてしまいまして…」
「なるほど、それは確かに急な話だな」
「で、ですよね…!?だからその……要するに逃亡してた、って訳です」
うちのSP達から。そうポツリと小さく呟いて、再びカップに口付ける。二度目となるその味は、何処かホっとする味で、小さい頃によく母から高熱を出した際に差し入れて貰っていたそれとよく似ているような気がした。
「…ナマエ、少し幾つか質問をするが構わないかい?」
「え?…あ、はい」
「その縁談の話とは、」
PiPiPi…
そこまで征十郎が口にした所で、テーブルに置いてあった彼のスマートフォンが振動と共に着信音を告げた。何ともタイミング良く鳴り響いたそれに、つい思わずビク!と肩を竦ませてしまい、一人その場にて苦笑いを溢す。
「あ…で、出て良いですよ!」
「すまない、直ぐに終わらす」
そう言って、ソファーから身を離した征十郎は勢いよく画面をスライドし、その形の良い耳へとスマホを押し当てる。暫く電話の相手へと淡々と相槌を繰り返していた彼は、「あぁ、じゃあ直ぐに僕のPCからデータを送付するよ」と言い残して別室へと姿を消して行った。恐らく仕事か何かの電話だろう。社会人は大変だなぁ…てか征十郎って顔良し、スタイル良し、仕事良し、の三拍子か!とか呑気にそんな事を考えてる場合じゃなかったと途中で気付く。ていうか、一体私はなにをやってるんだろうか…
「あー…これからどうしよう…」
そう、正にそれに尽きる。意気揚々と逃亡して来たのはいいが、問題はこの後を一体どう処理するのかという事だ。きっと今頃、お父様にお母様、…ううん、きっとそれだけじゃない。SPからメイド、執事達まで全員私の行方を心配している事だろう。ましてやお母様に至っては、世間知らずの私が今頃何処かでのたれ死んではいないかと、心配で心配できっと今頃オロオロと家の中をウロつきまくっているに違いない。…あぁ、もう。まじでこの状況どうしよう。素直に負けを認めて帰るか?…いや、待て。そんな事したらまた縁談話へと逆戻りだ。でもでもでも…!
「ナマエ、大丈夫かい?」
「えっ…!?」
その場にうんうんと両手を頭に乗せて唸りまくっていた私の背後から、透き通ったような綺麗な声の持ち主が此方を心配そうに見つめていた。勿論その人物とは征十郎の事だ。どうやら無事に仕事の件は片付いたらしい。でもそれよりも前に、此方に戻って来た征十郎の顔には黒縁の眼鏡が装着されていて、そのアンニュイな色気に思わず後ろに倒れてしまいそうになった。
「すまない、邪魔が入ってしまって。じゃあ行こうか」
「…………え?」
「話の続きは、僕の車の中でしよう」
そう言って、にっこりと口の端を上げて穏やかに微笑んだ征十郎は、掛けていた眼鏡を外し、そしてさっきソファーに置いていた紙袋を手にして「ナマエ、おいで」と少し離れた場所から私を呼んだ。
……何でだろう。今日初めて出会った相手なのに、彼に名前を呼び捨てにされるのは全く違和感を感じない。寧ろ逆に心地良さを感じるくらいだ。
「まさか…これが恋!?なーんて…」
あはははは!と、自分でも謎に笑いつつもポリポリと頭を掻く。そして気付けば自分より先にいた筈の征十郎の姿がない。やば!と、焦りから来る独り言を呟いて、パタパタとスリッパを鳴らしては彼が待つ玄関へと急いだ。
「ねぇ、征十郎…一体今何処に向かってるの?」
あれから暫くして、マンション地下に位置する駐車場へと私を連れ出して来た征十郎は、ジェントルマンさながらの神対応で助手席のドアを開けては此処に座るようにとやんわりと私を施した。そして直ぐに運転席へと腰を降ろした彼は、勢いよくエンジンを掛けてアクセルを踏み、そして瞬く間に地上へと車を走らせた。そして今現在、絶賛都内を走り回っている真っ最中である。そして当然の如く、何一つ行き先を知らされていない私はちんぷんかんぷんのまま頭の中で大量の?マークを飛ばしまくっている、という訳だ。
「特に行き先は決まってないかな。ただのドライブだよ」
「ド、ドライブ…ですか…」
「あぁ」
ブォォオン…!とエンジン音が車道に鳴り響く中、慣れた動作で四駆を運転する征十郎の横顔はとてつもなく美しかった。ていうか、何なのこの人!どんだけ格好良いの…!?外車の四駆似合いすぎ!運転してるその姿イケメンすぎ!心臓持たない!
「何処か行きたい場所とかあるかい?」
「……え?」
「折角だから、ナマエの行きたい場所でも連れて行こうかなと思ってね」
まぁ、連れて行くというよりは攫った、と例えた方が正しいかもしれないが。
肘置きに頬杖をついて、そんな軽い冗談を口にした征十郎がくすくすと楽しそうに笑う。その横顔に見惚れていると、その隙にチラッと此方に視線を向けた征十郎と一瞬だけ目が合った。まるで獲物を捕らえたかのようなその強い視線に、ドキ!と私の心臓は再び波打つ。
「い、行きたい場所は…と、特にないけど、」
「ん?」
「でも…征十郎となら…」
「……………」
何処でも良い。そう口に仕掛けた所で、信号が赤に変わったのか、車は車道にて一時停止をして停まった。……良かった、変な事口にする所だった。と、思ったのも束の間。次の瞬間、私の顔にある一つの影が重なる。
「んっ…」
そして首筋と唇に暖かな感触が。ぼうっとした意識を何とか取り戻した所で、その温もりの正体が何なのか瞬時に頭を働かせる。でもそこでまさかのフリーズ。
……………だって、
「………ナマエ、」
今こうして優しい声で私の名前を呼ぶ、征十郎の端正な顔と唇が、直ぐそこに存在していたからだ。
「征十郎…なんで…キス、」
「……………」
「こんな事されたら、……私ますます縁談話なんてすっぽかしたくなるじゃん…」
「………ナマエ、」
「ずるい…ずるいよ、征十郎…」
思わず自分の口から、彼を責める言葉が次々と溢れ出てきてしまい、それを塞ぐように両手で自分の顔を覆った。でもそれでも口を閉じても出てくるのは溢れんばかりの涙で。でも本当はその涙が何を意味するのか。もう既に私はその答えを知っていた。
「…………好き」
「…………」
「征十郎の事が…」
「………あぁ」
「あぁ、じゃないよもう…だからどうしてくれるの、この感情…」
そこまで口にして、ずっと鼻水を啜った。そして流れるように目元へと指を滑らせた所で、それに被せるように重なったもう一つの温もりに気付く。目を丸くして、真正面へと視線をずらせば、そこにあったのは目を細めて笑う征十郎の穏やかな笑顔で。その全てを見透かしたかのような大人な表情に、またもや不覚にもときめいてしまった。
「ナマエ、一つ良い事を教えてあげるよ」
「え…?」
そう言って、二度優しく私の頭を撫でた征十郎は自分の運転席へと体勢を整えて、赤から青へと変わった信号を目にしつつも、再びゆっくりと運転を再開する。そのまま暫く無言のまま近くの路上へと車を停めた征十郎は、ふぅ、と小さく息を吐き、身体に巻き付けていたシートベルトを外してハンドルに身体を預けた。
「お前が今日、ご両親に持ち掛けられた縁談相手はこの僕だ」
「……………え!?」
「そして見事にその予定をすっぽかされて、柄にもなく凹んでいた僕の前に登場したのがナマエ、君だよ」
「え、えぇっ…!?」
まぁ、結果こうして出会えた訳だから良かったけどね。そう言って、征十郎はにっこりと再び目を細めて笑った。
………………ちょ、ちょっと待って…!え!?今日の私の縁談相手が征十郎だった…!?え、えぇっ…!?う、嘘でしょこれ…こんな偶然…ってか、こんな運命的な出会いとかあり得るの!?あり得ちゃっていいのこれ…!?漫画か!
「せ、征十郎…が?私の…」
「縁談相手、…だよ」
理解出来たかい?まるで幼い子供をあやすように、念押しして状況を伝えてくれた彼の言葉を繰り返し何度も何度も復唱する。もはや呪文でも唱えてるのか!っていう程、それはそれは何度も何度もしつこくだ。
「あとこれ、」
「え?」
「僕からのプレゼント。受け取って貰えたら嬉しい」
そう言って、後部座席からガサガサと紙袋特有の効果音と共に渡されたそれをじっと見つめる。そんな未だフリーズしたままの私をやんわりと施して、「ナマエ、開けてみて」と征十郎が私の手にする紙袋へとすっと人差し指をかざした。
「せ、征十郎…こ、これ…」
「まぁ、後日改めてちゃんとした物は手渡すとして…まずはこれを一番に薬指にはめて欲しいかな」
此方に身体を近付けて、カチ、と私のシートベルトを外した征十郎は、そのまま流れるように私の左手を奪い、そして薬指にある物をはめた。
「天真爛漫なお嬢さんには、僕の目が届く範囲にいて欲しいからね」
そう言って、顔を俯かせた征十郎の端正な唇が小さなリップ音を響かせて私の左手薬指にキスをする。その完璧な所作は、まるであの一年前に観た映画のワンシーンみたいで、その時思わずあの映画のシーンと征十郎の動きがリンクしたかのように見えた。そしてお決まりのように私の心臓はまたしてもうるさい程の悲鳴をあげる。
ちょ、ちょっとこれは…流石に今度こそ倒れるかも…!
とか何とかかんとか訳の分からん事を考えてる間に、すかさず征十郎に腰と首元に腕を廻されてぐっと私達二人の距離が一気に縮まる。そして次に気付いた時には、眉を下げて、目を瞑った状態の征十郎にいとも簡単に唇を奪われてしまった。
「…………ナマエ、僕と結婚して欲しい」
はぁ、と互いの吐息が漏れたと同時に、まるで大切な宝物を扱うかのように、するりと優しく頬に降りて来た彼の手に自分の手を重ねて目を閉じる。その互いに向かい合った状態で、少し腰を屈ませた征十郎が下から覗き込むように再び唇を重ねた。
『君が僕に対して求める最後の言葉はなんだい?』
その時、あの映画の相手役の台詞がふと脳裏に過った。その記憶の中で悩まし気に疑問を問う彼へと、私は口角を上げ、すぅっと大きく深呼吸をする。
……あぁ、じゃあ教えてあげる。それはね。
「………私、征十郎さえ居れば他に何もいらない」
「奇遇だな。僕も今、全く同じ事を考えていた」
そう、それはあの映画の中のヒロインと全く同じ台詞だった。そしてあの言葉にはこういう意味と感情が隠されていたのかと、一人心の中で納得をする。だけどあの二人のようなスリリングな日常も、この煌びやかなドレスも何もかも欲しくはない。例え何時か、この華やかな世界に住む日常が、ある日突然なくなってしまっても良い。
「お前のご両親にも連絡した事だし、僕の家に戻ろうか」
そう言って、携帯を手にして此方へと振り向く、今目の前に居る彼が。………征十郎さえ側に居てくれれば、それだけで私は世界一幸せな花嫁へと、いつだって姿を変える事が出来るのだから。
スリルがある恋は、映画の中だけでいい
「ねぇ、何で私が縁談相手だって分かったの?」
「そんなもの簡単さ。君が今胸元に付けているミョウジ家特有のブローチを身に着けていたからね」
「えっ!?……あ、ほんとだ!凄い征十郎!」
「誰でも分かるよ、そのくらい」
「いやいやいや、普通はそれだけじゃ無理でしょ……って、じゃああれは?何で私との縁談を最初に断らなかったの?」
「……あぁ、それは」
「?」
(ちょっとおじさん!今私のお尻触ったでしょ!?パーティーでテンションが上がってるからって調子乗らないでよね…!)
(何ですかね…あれは。名家のミョウジ家のお嬢様だとは思えない程活気があるお方ですね…)
(あぁ…だが、あれはあれで良いんじゃないかい)
(全くあなたって方は…何をそんなに楽しそうに笑っていらっしゃるんですか…)
「……秘密、かな」
「えー!何それ!ずるい!」
あなたのその凛とした強さに惹かれた。
という理由を明かすのは、まだもう少し先延ばしにしておくよ。
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