召しませ鬼神様

きもちわるい。

人混みは元々苦手であったが、ここは更に気分が悪い。

部活帰りに友達と町へ出れば、美味しいパスタ屋さんを見つけたと、普段は通らない裏通りへと連れられた。
隠れた名店、という感じのこじんまりとした個人経営のイタリアンレストランで、パスタ以外のメニューも美味しかった。
それは良いのだ。何も悪くなかった。
この吐き気の原因は別にある。

来るときもそうだったが、お店を出るため会計を済ませている最中、ちろりと窓ガラス越しにヒサナは通りを見た。

…居る。

行きに嫌だなぁと思ったそれが、あきらかに道路から此方をうかがっていた。

なんと表現すれば良いだろうか。
黒い油のようなぐじゅぐじゅの塊に目が二つギョロりと浮かび、それがヒサナを凝視しているのだ。

早く出ないとなぁ。

そう思い財布をしまうが、それは出口付近に居座ってこちらの出方をみていた。
入ってはこないが、出たらついてきてしまうだろう。

出たくないがここにいても仕方がない。
友達にも危害は加えたくなかった。

スマホをチェックするふりをして、ヒサナは駆け出す準備をする。

「あ、ごめん部室に課題置いてきちゃった!後でまた合流するから先いってて」
「えっ?ちょっとヒサナ!」

自分の分の代金は揃えて支払った。
がチャリと店のドアを開ければ、ドアの小窓につけられた綺麗なレースのカーテンがフワリと舞う。
外へ一歩踏み出し路地を抜けるために左へ。そう思って直ぐ様左折するが、同時に足元に悪寒が走った。

冷蔵庫で冷やした糊を大量に溢したような、べたりとした嫌な感覚。
まとわりつく感覚は、きっと友達はおろか誰にも見えていない。
ヒサナは立ち止まり、息を飲んだ。

見たくない。
見たくないが見なくては。
見てはダメだ。
でも何が居るんだ。
確認しないと何もできない。
でも見ちゃ、駄目だ。

そんな言葉が頭の中を巡るが、ヒサナは自らの右足を見下ろしてしまった。
どろどろと黒い海に浮かぶ双眼と目が合う。
こぽりと、瞼も口もないのに、それが笑ったような気がした。

「ひっ…」

学校の方向も忘れて、一目散に駆け出す。
どんなに走っても、まとわりつく感覚は消えず、それどころか足、脹ら脛、太股と、どろりと這い上がってきた。

どうしたらいい。気持ち悪さに振り払いたくなるが、触るわけにもいかない。

久しぶりにやってしまったと思いながら、ヒサナは路地を抜け表通りをかける。
それでも人目につかないのを良いことに、それは縦横無尽に腰まで到達していた。

気持ちわるい気持ちわるい気持ちわるい。

人が助けてくれないのは知っている。
人にはどうにもできないことは、小さい頃からよくわかっている。
端から見れば独りで全力疾走していてさぞ変人と化していることだろう。
そんな余所事を考えながらヒサナは無我夢中に宛もなく走り続けた。

「しょうのない子ですね全く…」

低い低い低音が、人混みの声にかき消されることなくヒサナの耳に届いた。
ふと気が付けば、誰かが隣を並走していた。
横を見る暇はない。
黒いそれは胸元にまで這い上がってきているのだから。
気持ち悪さに涙目になりながら前を見据えて走っていれば、伸ばされた男の指が視界の隅に入った。

「この先に小さな公園がありますから、それのドーム型の滑り台の中へどうぞ」

なんのことだかわからないが、隠れろと言うことだろうか。
走るのも限界なので、ヒサナは見えてきた公園のものらしき柵を確認すると自転車避けの施された入り口の隙間を駆け抜ける。
ブランコが二台に、小さな砂場に隣接するドーム型の滑り台だけの質素な人気のない小さな公園。
ヒサナはそのドーム型の滑り台の中に飛び込むと、背をその丸い壁に叩き付けて息をあらげた。
しかし、安堵なんて出来る暇があるわけがなかった。
黒いそれが、肩にまで迫っていたからだ。

「ミテル…ミエテル…ミツケタ…」
「ひ…っ」

ごぼごぼとそれから声がする。
身を離そうにも、自らの肩に居座られているのでどうにもできない。
振り払おうと手を添えれば、あっという間に手まで取られてしまった。

「チョウダイ…チョウダイ…」
「やだやだやだ…何を…!」

もうなにがなんだか。
頭も何もかもぐちゃぐちゃでヒサナが悲鳴をあげそうになったその時、ドーム型滑り台の入り口からの日の光が、何者かによって遮られた。

「いい加減になさい。あなたがくらうのは厳重な処罰だけですよ」

狭い遊具の中、つき出された金属制の太い棒は的確にヒサナの肩と手にまとわりついたそれにぶち当たった。
べチャリとそれがついた金属を見てみれば、刺がいくつもついており、それは諺にも出てくる金棒に他ならなかった。
それを、ヒサナはよく見知っていた。
引き戻された金棒に張り付いた黒いどろどろした物を、金棒を手にした人物が片手で鷲掴む。

「小物の分際でヒサナさんの身体をベッタベタに触りまくるなんてどこの地獄がお望みでしょうねぇ…?」
「ぐえぇ…は…はなせ…」
「おやおやさっきまでの迫真の演技は何処へいきましたか。それともこれも演技でしょうか?」
「潰れる!潰れるー!」
「ほ…鬼灯さん…!」

遊具の入り口に座した男は、ギリギリと手の中の異物を握りつぶさんばかりだったが、ヒサナに名を呼ばれると漸くしかめた顔をあげた。
鋭い眼光は、対象者が変わっても緩むことはなかった。

「大体、ヒサナさんもヒサナさんです。何度こういうものと目を合わせてはいけないと忠告したと思ってるんですか」
「…返す言葉もないです…」
「あ、居るなーと見るのも駄目です!見るなら私だけにして下さい」
「すぐそういうこと言う!」
「言いますよ。妻を現世まで送り出してるんですから、浮気でもされたら大変です」
「つ…妻って…だから、私は、そんなの覚えてないんですってば」

顔を真っ赤にして反論するが、物心ついた頃から記憶にある彼は姿形未だ何も変わらない。
おかしいと思い始めたのは中学に入ってからだが、その理由が分かったのはつい最近のことだ。
メールで同級生から告白された日に、鬼灯が窓から殴り込んできたからだ。
あの日と同じ文句を、声が反響する遊具のなかで今日も聞かされるはめになる。

「現世調査のために、長期派遣を転生をもって行うと名乗り出たのはヒサナさんです。許可はしましたが、私以外の男に現を抜かすのは許しませんよ」
「鬼灯さんが鬼であることは認めましたが、その辺の話はまだ半信半疑です!」
「半分は思い出してくださったと…」
「思い出してないですって!知らない!」

彼は言うのだ。
私が前世は地獄に住む鬼で、鬼灯さんの妻で、仕事での関係で転生して今に至るのだと。
ぎゃあぎゃあと喚くが、この男の言うことに、今までで一度も嘘偽りが無いことだけが引っ掛かった。
今彼が空いた手でかぶり直しているキャスケットの中には、尖った角と耳が納められている。
絵本に出てくるのと同じ鬼だと告げられたのは、もう随分と昔のことだ。



赤ん坊の頃からよく泣いたと、散々母に聞かされた。
誰も居ないところを凝視して固まり、火がついたように泣くのでどんなにあやしても泣き止まないから困りはてたと、昔を懐かしんで両親は言う。
しかし、ある日を境にパタリと泣かなくなったそうだ。
ヒサナが路地の先を見つめて動かなくなったので『あ、泣くな』、そう思い身構えるていると、笑うようになったのだと。
どうして笑うのか、物心つくかつかないかの我が子に母親が問えば、笑顔で指差してはっきりこう言ったそうだ。

「おにはこわくない」

と。

親に言っても、他人に言っても理解も共感も得られないヒサナにだけ見える異物の蠢く世界。
それを唯一理解してくれるのが鬼灯であり、また人にはどうにもできないそれをヒサナの知りうる中で唯一どうにかできるのがこの鬼神様だった。

20141129

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