フェイタンとのあの大喧嘩(?)から1週間ほど経ったある日、彼の部屋でごろごろしていた私は、不意にある事を思い出した。

「あ」
「……何ね」
「……あまりに普通に過ごしすぎて忘れてた」
「だから、何ね」

こ難しそうな本を読み込んでいたフェイタンが顔を上げる。

「私がここにいていいのって、怪我が治るまでじゃなかったっけ」

部屋に沈黙が訪れる。

え、あれ……違ったっけ?いや、確かそうだったはず。あんまりにも蜘蛛の人達が私をナチュラムに受け入れてくれたもんだから忘れてたけど。念の修行とか、クロロさんの貸してくれる本とか、フェイタンがたまに持ってきてくれるお土産とか、その他諸々が面白すぎてやっぱり忘れてたけど、たしか、そうだった気が……。


「……チッ、」
「なんで舌打ち!?」
「鶏の癖にどうでもいい事ばかり覚えてるね」
「にわとりじゃないしどうでもいい事かなこれ!」

フェイタンが猛反対したから蜘蛛に入るのは辞めて、思いのほか早く怪我が治ってしまったことも考えると、私が今ここにいる理由は皆無ということになってしまう。


「そなに帰りたいなら帰ればいいね」

ぱたりと本を閉じたフェイタンは言う。

「ただし、一度出てたらもう二度とここへは立ち入らせないよ」
「えっ!何で!」
「当たり前ね。ここ蜘蛛のホーム。普通、一般人がフラフラ入て来たらその時点で殺す決まりよ。お前は今例外中の例外ね」
「例外で遊びに来ちゃだめなの?」
「ダメね」
「何で!」
「ダメだからダメよ。黙て言うこと聞くいいねこの愚図」
「ぐっ、うう…………もう知らない!フェイタンのアンポンタン!!チビ!」



*****


「まぁぉぁちぃぃぃ……」
「………アンタはまた情けない声出して。そのたんこぶは?」
「フェイタンにチビって言ったら制裁くらった。あの下がり眉毛め!」
「その程度で済むのアンタくらいだと思うけどね……。おいで」

マチの部屋に逃げ込めば、優しい彼女は私を中へと入れてくれた。
おいでと言われたベッド脇のソファで、マチは私の額に軟膏を塗り始める。薬の匂いが鼻を掠めていった。

「……まったく、女の子が顔に傷作るんじゃないよ」
「あの下げ眉に言って!」
「それで?何で喧嘩なんかしたんだい」

事のあらましをマチに説明する。
全てを聞き終わったあと、彼女はひどく曖昧な反応を見せた。

「ああ……こじれてるわけだ」
「こじれてなんかないよ!だって、私がたまに遊びに来ればいいだけでしょ……?」

マチは何も言わないので、私は不意に不安になってしまった。

「ちがうの?…………本当に、二度と遊びに来ちゃだめなの?」
「……なまえ」
「私、皆のこと誰にも言わないよ?親にも友達にも……」

マチのやわらかい手のひらが頭に乗る。
それは優しい拒絶だと分かった。

「アンタは帰ったほうがいい」

フェイタンに告げられた時より、マチが諭す声はよっぽど現実味を帯びて私の頭上に降り掛かった。

「私はアンタが好きだよ。団長もみんなも、もちろんフェイも。皆あんたを気に入ってる。……でも、きっとなまえはここじゃ生きていけない」
「……私が弱いから?」
「それもある。けど一番はね」

マチは両腕を伸ばして私の頬に触れた。

「私らが持ってないものを、アンタが持ってるからさ」

それが何か、マチは口に出そうとはしなかった。

強さとかスキルとか、私が持ってなくて皆が持ってるものならいくらでも思いつくのに。……でも、皆が持ってなくて私が持ってるならいいじゃない。ないよりあるほうが、いいじゃない。
なにもかも、思っても口に出すことはできなかった。

心のどこかで、これは決定事項だと分かっていたからだ。


「………………浦島太郎」
「え?」

マチは首をかしげたけど、私にはその表現がぴったりだと思った。ホームは竜宮城。カメはフェイタン。玉手箱の中身は、きっと、


「ありがとう、マチ」

私は立ち上がってマチに抱きついた。普通の女の子にみたいにわたわたと動揺するマチの目をまっすぐ見つめる。

「私決めた!」
「は?決めたって何を……!ちょ、っなまえ」

マチの声を背中に聞きながら私はアジトの廊下を疾走する。
行き着いた部屋では、まるで私が来ることを分かっていたかのように、足を組んで椅子に腰掛けるその人が居た。

「大急ぎでどうした、なまえ」
「……クロロさん」

クロロさんの念能力については前にパクノダさんに聞いたことがある。
私は彼に近付いて、緊張で跳ねまくる心臓を落ち着かせたあと、ゆっくりと口を開いた。

「私と、取引しませんか?」

クロロさんは微笑んだ。
それは胡散臭い紳士的な微笑みではなく、幻影旅団の団長に相応しい、強欲を孕んだ美しい笑み。

「ーー聞こうか」