運命が変わる、音が聞こえた。
そんな表現が用いられた本を昔読んだ気がする。私も、聞いてみたいものだ。
私は机の上に書かれた落書きをなぞりながらそんなことを考えた。落書き、なんてかわいいもんじゃないか。単純で汚い単語で埋め尽くされたそれは、まるで悪意の塊だ。
消したところでまた何度でも書かれるので、それは諦めた。上履きも毎日持ち帰るようになった。机と同じように暴言の書かれたノートは家のゴミ箱に捨てた。家族は居ないから、見つかる心配をしなくて楽だった。
ただ、性格上、屈するのは厭だったから。
絶対に涙は見せなかったし、吐かれた暴言にも言い返すようにしている。手を上げられた時は黙ってやり過ごした。じっと耐えた。そうすれば良かった。いつか終わると知っていれば耐えられる。―――でも
「お前……いい加減にしろよ!」
只悲しいのは、
「啓、吾…」
「お前なんかに馴れ馴れしく呼んでほしかねーんだよ」
「人を苛めるような奴、ボクは許せないな」
「水色」
以前の彼らを知っている事。
「なまえ、一緒にメシ食おうぜ」
「女の子もいた方が楽しいしね!井上さん達も呼ぼっか」
「賛成さんせー!俺だいさんせーっ」
「一護」
「……」
「いち、」
「悪ィ、今、お前に関わってる余裕ねーんだ」
一護の目に冷ややかなものを感じた時、私を包んだのは、静かな絶望だった。
「なまえ、お前また傷つくってんじゃねーか」
「一護こそ。なんか最近怪我多くない?主に朽木さんとツルみだしてから」
「……俺は男だからいいけど、お前は気をつけろよ」
「ふふ、なにそれ」
「あぶなっかしくて気になんだよ……」
私が知らずのうちに、一番に信頼していたのはどうやら彼だったらしい。
遠ざかる背中を見つめ、胸の奥底の痛みに気づかないように目を瞑った。
「なまえちゃーん!気分はどうかなぁ?」
「…桜子」
「だーいすきな皆に悪口言われて、さみしーい?」
昼休みの女子トイレで桜子はにんまり笑いながら私に訪ねた。いつもの可愛らしい演技はここでは必要ないらしい。お気付きの通り、私は彼女にハメられたのだ。
「あんた、何で、こんなことするの?あたし桜子に何かした?」
「んー?べっつにい?」
「だったら何で」
「中学の時から、ずっと思ってたよ。鬱陶しいなって」
桜子の口元に張り付いていた笑みがすとんと抜け落ちた。
「だって、たいして可愛くないくせにクラスの中心で笑ってて、みんなに囲まれて」
「……あんただって、好かれてるじゃん。それじゃだめなの?」
「だめだよ。だって桜子、好きになっちゃったんだもんーー。一護のこと」
は? と思わず間抜けな顔になる。
一護と桜子は、私が出会う前から知り合いのはずだ。
「前までは桜子、同級生とか興味なかったけど、最近の一護はなんか変わったっていうか、男らしくなったでしょ?だから狙っちゃおうと思って」
「……それだけ?」
「そっ!それだけ」
そんなことのために、私は今こんな目に遭ってるのかと思うとくらくらする。
私と一護は恋人同士というわけでもないのに。
「……織姫たちの方が、一護と仲良いじゃん」
「うん。だからあんたのこと消したら、今度はあいつら」
「……」
「それに、一護ね、あんたの話よくするの。私といる時も。それってすっごく不快でしょ?だからね、消えて欲しいの!」
私は、気づいたら桜子を突き飛ばして走り出していた。
(ーー悔しい、悔しい悔しい悔しいっ)
一護も織姫もたつきも皆、優しい心の持ち主だから。
泣いている桜子を放っておけなくて、だけど私に酷いことを口走る度に、何度も手を上げる度に苦しんでるあの人たちは、この事を知ったらどうなる……!!
こんなつまらない理由で、自分たちが操られていると知ったらーー!
屋上の扉を開け、フェンスに飛びついた。
それからどれだけの時間が経っただろう。
金網の跡がくっきり指についた頃、私は、ようやく心を決めたのだ。
「負けない」
声に出すと、決意はいっそう硬くなる。
ーーそうだ、負けなければいい。
一護のために、織姫や、たつきのために。……――何より私自身のために、挫けず真っ直ぐに立っていればいいんだ。
夏の匂いを乗せた風が吹き抜けた。
突き抜けるような青空の下で、私はもう一度強く吐き出す。
「負けてなんかーー」
「オイ、人間」
とん、と、目の前に人が降り立った。
フェンスのあっち側に。
目をぱっかりと開けてその相手を凝視する。不思議な形の白い服に、初めて見るような、水浅葱色の髪。お腹には穴が空いている。
そいつは心底嬉愉快そうに、私を見て笑って言うのだ。
「テメェを気に入ったぜ」
運命の変わる、音が聞こえた。