ペルシャ絨毯に覆われた長い廊下を、トレーを落とさないよう慎重に歩いていると、なんと前方からXANXUS様がお姿を現しました。私は慌てて姿勢を正し、XANXUS様がお通りになるのを廊下の脇によって待ちます。

「お帰りなさいませ。」


――もしまたXANXUS様がクーデターを企んでいたとしたら

先輩の言葉が脳裏をかすめ、額や背中に嫌な汗が浮かびます。
XANXUS様は当然私などに一瞥をくれることもなく横を通り過ぎて行きました。気付かれないように安堵の息を吐き、再び歩き出そうとした時


「おい」


あまりのことに、思わず持っていたトレーを投げ出してしまいそうになりました。私は懸命に驚きの声を抑え、表情を限りなく無に近付け、振り返ります。

「はい。」
「……その飯は、アイツのか」
「、」
あいつというのは、さっき一度聞いた、彼女のことでしょうか。

「こちらは…、なまえ様にお届けするものです」
「……」
お名前は間違えていないはず。ドッドッド、と早鐘のように鳴る心臓を抑えて、XANXUS様の次の言葉を待ちました。

「…何か」
「、はい?」
「………何でもいい。情報を持って来い」

迷ったふうに視線を落としてからそれだけ言うと、XANXUS様は踵を返して廊下を歩き去って行かれました。
私は心臓が先程よりも激しく脈打つのを感じながらも急いでなまえ様のお部屋に向かいます。―――XANXUS様からの、初めてのご命令。しくじればきっと殺されてしまう。


コンコン
「し、失礼いたします…!お夕食を届けに参りました」

恐怖と焦りのあまり、初め声がひっくりかえってしまいましたが、部屋の主はたったっと足音を響かせて扉の向こうまで来てくださいました。
「どちらさまですか」
「給仕の者です。」
扉が開き、中からそっと覗いたのは、思わず息を飲んでしまう程綺麗な木賊色の相貌。そして彼女の瞳は私から、私の持っているトレーに映り、一層輝きを増すのです。

「おいしそう…!」



***


彼女は私を部屋の中へ招き入れると、小さなテーブルの向かいの席に私を座らせました。本来給仕は部屋の壁の前で、お食事が終わるのを待っている仕組みになっておりますので、これには大変いたたまれない思いになりました。しかしなまえ様にお気になさらず、嬉しそうにしゃべり続けています。

「実は私の住んでたお屋敷にもお手伝いの人がいて、鈴木さんっていうんですけど、日本生まれの綺麗なお姉さんで」
「なまえ様…」
「鈴木さんのおかげで私も日本が好きになってしまって、今度行きたいなって、」
「なまえ様…!見つかってはしかられますので」
「え!…あ、大丈夫!もしXANXUSに見つかってしまったら、私が謝りますから」

なまえ様が何のためらいもなくXANXUS様を呼び捨てになさったので、私は思わず身をすくませてしまいました。
再度お断りしようと口を開きましたが、すぐに止めました。


「……一人は寂しいんです」

なまえ様が、あんまりにも悲しそうに見えてしまったからです。




「私がここに残ると決めた後、この部屋に来てくれたのはルッスーリアだけで…」
なまえ様は、フォークでパスタを巻き取りながら目を伏せた。
「ベルやフランは、もしかしたら来てくれるかもしれないと思ったんだけれど…忙しいみたい」

私は一瞬先程の出来事を思い出しましたが、それをどう彼女に伝えればよいのか分からずに、結局聞くばかりになってしまいました。
黙ってそうしている私は、彼女とこうして向かい合ってから何度も、その姿から目を背けたくなりました。
「………、」
切れて赤く腫れた口の端。手の平や指先の切り傷。襟元や袖から垣間見える肌には、紫色や青の痣。
服に隠れた場所はきっともっと酷いのだろうと思うと、とても見てはいられません。



「……なまえ様」
「?」
「お答えになりたくなかったらかまいません。少し、お尋ねしてもよろしいですか?」

なまえ様はお口の中のものを咀嚼して飲み込むと、フォークを置いて姿勢を正されました。(こんなふうにちゃんと聞く体勢をとってくださるとは思ってもいなかったので私はとても驚きました。)
――XANXUS様が何かを企んでいるかもしれない。そのきっかけが、なまえ様の言葉から見つけ出せるかもしれないと考えたのです。



「なまえ様は…」

どんな言葉を選べばいいのでしょう。
ご両親のことを持ち出すのは流石に酷ですので、単刀直入に聞く他ございません。


「どうしてここに…ヴァリアーに残られたのですか?」

誰もが疑問に思っていた事。私はさっきとは違った意味で緊張しながら、なまえ様を見つめた。
しかし私の質問になまえ様は、きょとんとした顔をなされて、間を置かずに口を開きました。


「ここが好きだから。」


こんな返答を誰が予想したでしょうか。当然私も、始め言葉の意味が理解できずにすっかり黙り込んでしまいました。なまえ様は苦笑されて「やっぱり変ですよね。」と肩をすくめました。


「確かにたくさん悲しい思いをしたけれど、――ほら、今の私を見てください。」
「…」
「…みました?」
「、は、はい」
「人生に絶望しているように見えます…?」
その問いかけには、すぐに答える事が出来た。

「いいえ…!みえません。…だから不思議なのです。分からないのです。どうして、」
なまえ様はにこっと微笑んだ。

「あなたがいるからです。」

「………、私、ですか?」
「はい。私が無理言ってお願いしたからだってわかってるけど……一人じゃない。簡単に言えば、ここにいると、ひとりぼっちにならないんです。わたし」
「……」
「私はひとりでいるのが嫌い。なによりも怖い。……このお屋敷には、会ってないからわからないけど、XANXUSやスクアーロ達がいるんですよね。」
「は…い」
「じゃあ、よかった」
「なまえ様は…!」
「?」

「なまえ様は、XANXUS様達がお好きですか…?」

何を聞いているんだろう。そう思っても一度口から出た言葉はもう戻りません。
なまえ様はすすき色の髪を耳にかけながら、眉を下げて微笑まれました。(誰か、教えてくださいませ)


「…すきです。


 ――皆の深いところにある優しさを知ってしまいましたから。」


(こんなにもつらい境遇にある人が、このように美しく笑えるものですか…?)


私はたまらずに、なまえ様のお部屋を飛び出しました。涙が溢れそうになるのを堪えながら廊下を小走りで、XANXUS様のお部屋に向かいます。
(なまえ様は…お優しいお方だ…!!)
どうしてXANXUS様が私に、情報を持ってこいと言ったのか、分からない。
でもきっとまだ疑っているに違いない。
なまえ様は騙されている…!
おかわいそうに。おかわいそうに…!


「XANXUS様…。先程お会いした給仕の者です」

少しして中から、入れ、と声がかかった。XANXUS様のお部屋に入るのは生まれて初めてのことで、そしてきっと、これが最初で最後のことです。


私はXANXUS様を真っ直ぐに見つめました。
XANXUS様の深紅の瞳は、私の瞳から溢れる怒りや敵意を確かに感じ取ったことでしょう。

「なまえ様は、日本がお好きと仰っていました。」

あなたの求める情報を、私は何一つ持ってきませんでした。

「それだけです。」

私にできる精一杯の反抗。
なまえ様は気が付くかしら。明日の朝、私がいなくなっていることに。――どうか気が付いて。そして目を覚ましてくださればいい。(私の死は決して無駄にはならないのですから。)


「―――ドカスが」

無慈悲な反抗心を此処に



吐き捨てたXANXUS様は「もう用はねぇ」と言って私を部屋から追い出しました。生きたまま。私は部屋から出られたのです。
「、っ…はあ」
一気に緊張の糸が切れ、その場に膝を吐きました。
体中から汗が吹き出ている気がします。


「殺…されなかった」

あんなに失礼なことをしたのに。XANXUS様のお役には立たなかったのに。殺されなかった。なぜ?どうして?
私の頭の中は真っ白なようでものすごい速さで回転し、事態を収拾しようと躍起になっていました。いくつものシーンがフィードバックします。理由が分かりません。私は殺される覚悟でここに来たのに。どうして。



「     」

「…?」

そのとき、部屋の中から、XANXUS様の声が僅かに聞こえました。電話をしているのでしょうか。体の中で跳ねまわる心臓を胸の上から押さえつけながら、私は耳を澄ませました。



「 」



「 」




「  」




「 」




ガチャンと受話器の置かれる音がしたのと、私がよろめきつつも立ち上がったのは殆ど同時であったように思います。
ふらり。
ふらり、

足に力が入りません。体中の力が、気持ちと同時に抜け落ちてしまいそう。

「!!!あなた、一体」


やっとの思いで給仕室に辿り着き、先輩の姿を目に移した瞬間、私は崩れ落ちるようにして座り込みました。慌てた先輩や、そこにいた他の先輩達が駆け寄って来るのを待たずに、私は口を開きます。
堰を切ったように溢れ出てくる涙と言葉は、半ば嗚咽にまみれて言葉の形を成していなかったかもしれません。でも、私が伝えなければと思ったのです。私は話しました。


なまえという、心の美しい、優しい笑顔の少女に会ったこと。

私達はその少女を恐れる必要はこれっぽっちもなくて、
少女はひとりがきらいで、
きっと、私達を必要に思ってくれていて、


そして私達はあまりに重大で、お粗末な勘違いをしていたこと。

ベル様とフラン様は喧嘩をせずに、
おそらくなまえという少女を案じている。ふたりとも。

幹部の方達は皆、どんな形であれなまえ様に一度はお会いしているはず。
だからきっと、彼女の優しさを知ってしまった


「みなさんも、…ひと目見れば、きっど、わがります…っ!!」


なまえ様の前ではどんなに凍てついた空気だって、しずかに、やさしく、ほころんでしまう。




「XANXUS様方は……何も企んでなどおりませんっ…!!


   ただ、ただ、なまえ様を案じていました」



電話の内容まではとても話せそうにありません。XANXUS様の不器用な必死さを考えると、自分の愚かしさが恥ずかしくてならないのです。
涙が止まったら、フラン様のところへ行こう…。
フラン様の落としていったクローバーは全て拾って、私の部屋の水がめの中に浮かべてある。

あれは、きっと

間違いなくなまえ様に送るものだ。

「…すきです。
 ――皆の深いところにある優しさを知ってしまいましたから。」


だって、あの数の四つ葉のクローバーだもの。
フラン様が一生懸命に探した、なまえ様の幸せなのでしょう。

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